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じゃあ歌って【掌編】
「好きです! 付き合ってください!」
「じゃあ歌って」
予想だにしない返答に僕は固まってしまった。歌うとは? 彼女へのラブソングなんてもっとも要らないサプライズ殿堂入りではなかったのか。
「う、歌うって、ここで?」
「当たり前でしょう。なんのために山に来たのよ」
山で歌うとはいったいどういうことだ。アルプスの少女ハイジの「おしえて」でも歌えばいいのか? いや、滑る未来が目に見えている。
GWを利用して僕たちは筑波山に来ていた。秋葉原から電車とバスを乗り継いで90分の間、告白のシミュレーションをしてきた。行き帰りの交通機関はみんなとの距離が近いし、山登りの最中には無理だろう。帰りに温泉に立ち寄ることになっているけれど、きっと男女で分かれてしまう。告白の場は山頂でしかありえない。
山頂は広く人はまばらだった。仲間たちも散開してそれぞれ好きに過ごしてるようだ。
景色は綺麗っちゃ綺麗だけど、都心の夜景やインスタの絶景に比べたら全然だ。強い風が吹きつけていて、思っていたよりずっと寒い。
そんな劣悪な環境で、彼女は期待に満ちた眼差しを僕に向けている。何を歌っても、カッコよくも面白くもならないだろう。
男を見せろ、俺!
……ん? 男? この令和の時代に「男を見せる」とは古臭くないか。それはステレオタイプで、主体性の尊重に欠けた、ジェンダー平等の観点からあまりに歪んだ男性像ではないか?
僕は意を決して言ってみた。
「じゃあさ、君から歌ってよ」
「え、わたし?」
彼女は目を丸くした。と思ったら急に色っぽい表情をしてそっぽ向いた。
「恥ずかしいよ……」
正直、すごく唆られた。こんな可愛い表情を隠し持っていたとは。俄然やる気が出てきた。
「分かった、やっぱり僕が歌うよ!」
「ほんと?」
僕は男体山から女体山へと体を向けた。何度か「あーあー」と発声練習をして、いちど咳払いをする。
〽︎ 時には誰かを知らず知らずのうちに傷つけてしまったり失ったりして初めて犯した罪を知る
大丈夫だ。声は震えずによく出ていた。周りで聴いている人もいなかったし、あとは彼女に想いが届きさえすれば……
彼女はとろんとして僕の歌に聞き入っていた。もしかして告白は成功したのか?
「じゃあ、後でね」
彼女はそう告げると、素気なく僕のそばを去っていった。すぐに他の男に言い寄られて、歌を披露されているようだった。
後から知ったことだが、万葉集の時代、筑波山では春と秋に男女が集って、いかがわしい歌会が催されていたそうだ。あの時の僕たちは山の霊力に操られていたのかもしれない。
ちなみに僕の告白はなかったことにされている。
(了)
*
万葉集、常陸国風土記などに残されている「歌垣」の風習にちなんだ掌編です。既婚者も未婚者も歌を詠みあってカップルになる。いわゆる無礼講、ワンナイトラブを楽しむ男女の奔放な行事と考えられています。後から彼女に話しかけたのは万葉歌人の高橋虫麻呂という設定で書こうと思ったのですが、字数制限のために断念しました。
#mymyth202205 #掌編 #小説
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