ウワサの果実【掌編小説】
ウワサ話は昔から苦手だった。
昼下がりのカフェ、粗い肌目の木製テーブルの上を、囁き声と黄色い声とが不規則に飛び交う。そのさまを私は冷ややかに見ていた。
「……でね、新人研修のとき課長が……」
「しーーーっ、声が大きいって!」
「ねぇねぇ、そういえばさぁ……」
火付け役は同僚Aだった。しかしここに来る前にBと妄想を練り上げてきたのだろう。どちらが真の出所かは分からない。Cの口癖は「そういえば」で、話題に尾びれ背びれを付けるのはお手の物。Dは黙って不気味な笑みを浮かべている。メンバー随一の情報通、何か隠し球を用意しているかもしれない。
昼休み終了まで残り13分。ここから個別会計、2つの信号機、エレベーター……そろそろオフィスに戻り始めたいところだが、彼女たちが残り10分切る前に席を立ったことはこれまで一度もない。めいめいのシューズやパンプスが並ぶテーブルの下で、彼らの足首にはすっかり蔦が絡み付いている。
(……いったい何が楽しいのだろう)
心の内でそうぼやくも、蔦は私の足にもしっかりと絡まっているのだ。こんなもの振り解いて一人勝手に戻ればいいのに、足は全く動こうとしてくれない。きっと既に遅い。足首どころか、腿や胴を這い伝って顔にまで纏わりついているようだった。
そして、それぞれが卓上に持ち込んだ蔦は、鬱蒼とした葡萄園を形作っていた。絡み合い、捩れ合い、葉にすっぽり覆われて、端から辿っていったところで一本の木に行き着くかどうかも分からない、ウワサ話の園。輪の内側には、瑞々しくて甘そうな葡萄の房が幾つも垂れ下がっていた。
熟れすぎた香りに顔をしかめる私、その横で果実をむさぼるA、酔っ払っているBとC、濃紫の光沢にうっとりするD……
私は、この園の背後に恐ろしいものを見ていた。沈没していく船のイマージュ。そのさまを嘲るかのように光る黒い瞳。恐ろしい顛末は、私たちの中の誰か1人が首謀したものではなかった。ランチという場が怪物を喚び寄せる祭儀となった。勝手にそうなってしまったのだ。次々と放り込まれる供物、昂る悦楽、上ずっていく声……
あぁ、午後の始業まで7分を切ってしまった。もうすぐこの船は沈没する。絡みとられ、酩酊した船上員らと心中する運命!
諦め放心する私に、ようやく声がかかった。
「ねぇ……Eはなんか見たり聞いたりしてない?」
「……ううん、知らない」
わたしは、この実を食べない。だってこんなところに生る葡萄なんて、ぜったい酸っぱいに決まっている。
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この作品はホメーロス風讃歌第7歌「航海するディオニューソス」とイソップ寓話「酸っぱい葡萄」にインスピレーションを受けた掌編小説です。
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