心を開いて【掌編】

　五限の授業が早く終わり、佐々木文香ふみかは所属する東洋思想研究サークルの部室の前に立った。左手に持った紙袋が重く感じる。今日こそ気持ちを奮い立たせなくてはならなかった。

「おつかれさまでーす」引き戸を開けながら言うと、中央のテーブルの前に座っていた竹生たけお先輩が振り返った。
「あ、ふみちゃん、おつかれさま〜」
　先輩はサークルの副部長。見た目は今どきの文系大学生といった感じだが、実は生粋の仏像マニア。「像に関することなら竹生に聞け」と言われるほどの信頼を集めていながら、研修会や旅行の出先では「奴に仏像を見せるな」という暗黙のルールがある。その場を動かなくなってしまいタイムテーブルに支障が出るからだ。

「あれ、小説ですか？」
　先輩の目の前にあったのは文字の並んだA4用紙で、文頭のところどころに鉤括弧が並んでいた。いつもは図像資料ばかりを観ているので珍しい光景だった。
「うん。漱石の『夢十夜』だよ。青空文庫をプリントしたやつ」
「第六夜ですよね？　仁王を彫る運慶の話」
「あ、やっぱ分かっちゃうよね」先輩はそう言ってにへらと笑った。

「木の中に埋まっている仁王を彫り出すのか、それとも木を仁王の型に彫っていくのか、ふみちゃんはどっち派？」
「んー、わたしは後者ですかね。神さまや仏さまが木や石に埋まっているって話にはロマンがありますけど、もしそうだとしたら仏像のバリエーションがこれほど豊かになるのも妙な話で」
「そうだよね〜、ガンダーラ仏とマトゥラー仏とか体型や髪型も全くの別物だし、何より日本の仏像とは似ても似つかないもんね」
　サークルの勧誘会でトーハクに行った時のことが思い出された。先輩はあの日も、既に何度も見てきたはずの仏像の前に留まり、サークルに迷惑をかけていた。

「先輩って……」
　紙袋の紐を握る手に力がこもる。
「ど、どんな……こが……好きなんですか？　あ、いや、えっと、どんな像が一番好きなんですか？」
　先輩は一瞬訝しげな顔を浮かべたが、少し間を置いて答えた。
「羅睺羅らごら尊者像。腹を開けて心を見せてる仏弟子の像かな」
　その瞬間、文香の頭の中でボンッと音が鳴って何かが沸いた。
「これどうぞっ！おつかれさまです！」
　紙袋を先輩に押しつけると、文香は慌てて部室を飛び出した。あまりの恥ずかしさに最寄り駅までの意識が飛んでいた。

「チョコだ……仏頭の……って、これ手彫りじゃんか！　なんか食べるのもったいないなぁ……」
　そう言いながらも、竹生はチョコをひとつ口に放り込んだ。

〈了〉

#掌編  #小説 #mymyth202202
#仏像  #バレンタイン