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28. 受難に弄ばれる青年 【花の矢をくれたひと/連載小説】
不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。
↓過去話の振り返りはコチラより↓
【登場人物】
カーマ(アビルーパ・悪魔マーラ)
魔神シヴァを射る宿命を背負った愛の神。転生を繰り返す度に呼び名が変わる。現世では青年アビルーパ。
ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。アビルーパに恋心を抱いていたが、諦めて真の意味で親友となった。
ラティ
愛神カーマの妃で快楽の女神。現世では遊女ラティセーナーとしてカーマの訪れを待っていた。
パールヴァティー
創造主の娘にしてヒマーラヤ山脈の娘。インドラに代わる軍神の母となる宿命を背負う。
シヴァ
カイラーサ山にて眠る魔神。
【前話までのあらすじ】
神話世界で繰り広げられるデーヴァ神群とアスラ神群の死闘。悪魔ターラカが軍神インドラを打ち破り、デーヴァ神群は劣勢となった。
愛神カーマは詩人の預言を受け、新たなる軍神を誕生させるためにヒマーラヤ山脈にやってきた。軍神の母となるべきパールヴァティーの導きにより、明日の正午にシヴァ神を射るための手筈を整えた。
*
28. 受難に弄ばれる青年
「なぁ、ヴァサンタ、起きてる?」
「……ん?」
「なんだか寝付けなくてさ。緊張しているのかな?」
「そりゃあそうだよ。シヴァ神を的にするだなんて畏れ多くて途方に暮れるのがフツウだって」
「だよな。ついこの間までヴェーダの朗誦に戸惑っていたくらいなのにさ、こんな大役、どうして俺に回ってきたんだろう……」
ヴァサンタはカーマの記憶が遠い過去から順に薄れていっているのを感じ取った。“アビルーパより前” はもうないのだろうか。だとしたらガンジス川のほとりで告白したことも、今のこの会話も、いつかはすっかり消えてなくなってしまうのか。ヴァサンタは一抹の寂しさを覚えて、カーマとほんの少し距離を置きたい気持ちになった。
「星でも見てきたら? この地球上でもっとも宇宙に近い場所にいるんだからさ」
「一緒に行ってはくれないのかい?」
「……僕はもう眠い」
ヴァサンタは寝返りを打ってそっぽ向いた。カーマは仕方なくひとり寝床を抜けて、庵から外に出た。
カーマは誘われるかのように祠の裏手に回った。すると星々が所狭しとひしめく藍色の空と、その手前に佇む妻の姿を見つけた。
「ラティ……」
呼びかけに振り返った妻は新しい衣を身にまとい、遊女の時とはまるで違う清らかで厳かな美しさを湛えていた。
「カーマ、眠れないのですか?」
「ああ、うん。ラティは?」
ラティは再び星空を仰いで「あなたを待っていたのですよ」と聞こえないほどの声で呟いた。カーマはラティの傍へそっと歩み寄る。
「綺麗な衣だね。よく似合っている」
カーマは会話のきっかけを掴むために、めずらしく心の内を晒した。
「ありがとう」俯いて頬を赤らめるラティ。
「ねえ、パールヴァティー様とは何を?」
「それはこの法衣について? それとも……」
カーマは質問に質問で返すラティに軽い苛立ちを覚えつつ、彼女に翻弄されることにもいよいよ慣れてきた自分に気付く。
「気にしてくださるのね、嬉しい」とラティ。
《……ほら、またそんなことを言って》
彼女に訊きたいことがたくさんあった。馴れ初めや、前世での関係や、いったいどれだけの出逢いと別れを繰り返してきたのか、そして君はその全てを覚えているのか……
しかし急にもっとも鮮烈な映像が脳裏を過って、カーマはつい口を滑らせる。
「遊女館のあの部屋で……いや、なんでもない」と言い淀んで顔を背けた。
「嫉妬、してくれているの?」ラティの見開いた目が潤んで、遠い星と同じように瞬いた。
「よく分からない。ただ、君を助けるために入ったあの部屋の光景が頭から離れない。本当はもっと大事な思い出がたくさんあるだろうに。ごめん、妙なことを言って──」
「記憶とは魂の飛跡なのでしょうか、それとも肉体についた痕跡でしょうか」
カーマの言葉を遮って、ラティは咎めるわけでもなく淡々と続ける。
「そのどちらでもあり、どちらでもない。私たちに魂と肉体とを正しく解くことはできない。不確かなものの不備も不在も気に病むことはありません」
いつにもまして流麗な物言いに恍惚が呼び醒まされる。カーマはしばしの間、言葉を忘れた。
「……俺にはちょっと難しいな」
「いつかも、そう言っておりましたよ」
くすりと笑うラティを見て、カーマは自身の心が次第に落ち着いていくのを感じた。
《こんな風に並んで星を眺めて、安堵した夜があったのかもしれないな》カーマは記憶の糸をあれこれと手繰るのを止め、いま胸を占める愛しさに身を委ねた。
そしてラティの足元に跪いて、祈るように声を絞り出した。
「もしパータリプトラに帰れたら、その時は……」
星が流れた。ラティは受難に弄ばれる青年を慈しみ、眼下に垂れる頭をそっと撫でた。
*
正午。カイラーサ山の頂にほど近い北側斜面の岩棚に、厳かに坐すシヴァ神を確認。その神の頭上にはほんの少しの頂と太陽の他に何もなかった。宇宙に最も近い山脈の、最も高い山頂にある修行場で、シヴァは深い瞑想に耽っている。
カーマは彼の厳しい様相だけでなく、周囲の岩壁を物ともしない猛々しい躯体に慄いた。的とすべき左胸を見やる。首から垂れる禍々しい蛇と仰々しい飾りの下に、鋼のような筋肉が見え隠れする。
しかし時は待ってくれない。パールヴァティーが前に踏み出した。長年の往来で踏みしめられて出来た山道と、山頂と太陽とが一直線に並んだ。間違いなく正午だ。
カーマはラティとヴァサンタを引き連れて、シヴァと対面しない2本のヒマラヤスギの裏へと移動した。正確に矢を射るための距離を推し測り、できる限り近づいたのだった。シヴァが彼らに気付く様子は見られない。
「き、緊張してきた」カーマが右手の震えを自覚して、掌をしきりに閉じたり開いたりした。ヴァサンタがひょこっと現れて、その汗ばんだ掌を指でなぞる。
「カーマ、掌に “神” と3回書いて呑み込むと緊張がほぐれるらしいよ!」
「え、ホント?……いや画数多くない?」
「へへ、今のでほぐれたんじゃない?」
カーマはしてやられたといった顔をしてヴァサンタを小突いた。
「ふたりとも、あれを……」ラティが戯れを断ち切って、シヴァの方を指差した。
パールヴァティーがシヴァの目前まで辿り着いていた。跪き、額の前で手を合わせ礼拝を始めている。
「カーマ、これを」
ラティが恋慕の矢を差し出した。カーマはそれを受け取って、三本の矢を合わせて握る。その右手はもはや震えていない。ヴァサンタが念を送ると、荊を具えた細い蔓が取り巻いて一体の矢となる。カーマはその “魅惑するもの” と呼ばれる矢を弓につがえながら、シヴァの坐す方角へと体を向けた。
パールヴァティーが胸元から蓮華の種を繋いだ数珠を取り出す。彼女はさらににじり寄り、シヴァの手前に据えられたリンガへと数珠を捧げた。
……微動だにしないシヴァ。髷から垂れた髪だけが風に揺れる。カーマはシヴァの心臓に狙いを定め、力いっぱい弦を引き絞る。
イチ……
ニイ……
サン……
その深い瞑想を打ち砕くべく、カーマの手から矢が放たれた!
刹那──シヴァの右肩からもう一本の腕が生え出て、向かってくる矢を素早く打ち払った。矢を繋いでいた蔓が弾けて、2本は遥か彼方へと弾き飛ばされた。残りの1本 “恋慕の矢” だけがカーマの足元に返って大地に突き刺さる。
反撃の眼が開かれた。左右の眼ではなく、シヴァの額に縦に刻まれる第三の眼だ。不気味な瞳がぎょろりと見回し、ヒマラヤスギの傍で弓を構える青年を敵と認識する。間髪を入れず、狼狽えるカーマを目掛けて紅黒い光線がほとばしった。
── to be continued──
*
【ご注意】
本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。また時代背景や史実とは異なる点も多々あり、あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。
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