呪いが解ける日
2019年12月6日。いつものように慌ただしく出勤の準備をしながら、その僥倖は突然に訪れた。
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その日、NHKの「あさイチ」は作家・川上未映子の特集だった。彼女の著作「夏物語」を軸にトークが組まれていて、そのコーナーの一つとして「母に言われた忘れられない言葉」というテーマのメッセージ募集がなされていた。
番組中盤、いかにもNHKらしいほのぼのとしたいくつかのオカンエピソードがMCの博多華丸・大吉と近江アナウンサー、そして川上未映子のコメントを挟みながら紹介される中で、あるメッセージが読み上げられた。
「“あなたは幸せになれない”という母の言葉が呪いのように残っています」。
呪いって……と思わず誰もが絶句して、和やかな雰囲気のスタジオにうっすらと薄氷のような緊張感が漂うのがわかった。それを吹き飛ばすかのようにスタッフが大声で笑い声をあげたのが余計に虚しく響いた。
いやこれ、前後の文脈がわからないとなんとも言えないですけど。どういう状況で言われたかも私たちにはわかりませんしね、なんと言えばいいかわからないけど、うん、まあそんなに深く捉えなくていいんじゃないかと思いますけどね。
冗談にもできず、掘り下げる時間もなく、画面の中の全員が戸惑ったような気まずい笑顔のまま曖昧なコメントがいくつか交わされて、話題は次へと移っていった。
それから数十分、何事もなかったかのようにトークは軽快に進み、ニュースを挟んで特集の続きです、と切り替わるところだったと思う。鏡に向かって化粧をしながら背中で聞いていたらふいに進行を遮って、静かだけれど強いトーンで博多大吉さんが「ちょっとあの、いいですか」と言う声が耳に入ってきた。
「ずっと気になってたんですけど、さっきのメッセージ送ってくれた方ね、お母さんの言葉が呪いになっているという。あの、FAXここで紹介された、読まれたことで、もう、呪いは解除されたということでいいんじゃないかなと。厄落としというかね、これをもって呪いは解けたということで。よろしくお願いします。お幸せに」
背中から重たい銛をゆっくりと引き抜かれるような熱い感覚があった。テレビを振り返りながら、いまなにか、天啓のようにうつくしい言葉を聞いた、と思った。
画面の中では、ずっと気になってたんですね、と近江アナウンサーがほっとしたようににこにこと言い、華丸さんが明るく笑い声をあげる横で、大吉さんはどこか困ったような苦いような柔らかい表情で何度か頷いていた。
――これをもって呪いは解けたということで。おとぎ話めいたその言葉が妙に心の入り口で行ったり来たりした。これをもって、呪いは、解けたということで。よろしくお願いします。何度か声に出さずにおまじないか飴玉のように転がしながら鏡に向き直って、自分が子供のような顔で泣いていることに気づいてびっくりした。
どれだけの人が呪いをかけられたまま、心臓に抜けない棘を刺したまま、見えない血を流しながら生きているのだろうか。
わからないけれど、わたしにもあるそのずっと濡れたままの傷口が、いきなり暖かい手で塞がれたような気がしたのだった。もう二十年以上も誰かからかけてもらいたかった言葉が、まさか、こんなふうに。
正確には、言葉ではないかもしれない。平静な顔に見えても他人の傷のことが気にかかり、やはりどうしても伝えなければとわざわざ足を止めて振り返ってその傷を癒そうとしてくれる、そんな人が本当にこの世界に存在するのだということ。それを事実として目の当たりにして、驚くほど安堵と喜びがこみ上げた。
慌ててあさイチのサイトを検索して勢いのままに短いメッセージを送り、化粧もそこそこに家を飛び出すと冬晴れの空がすこんと青くて、わあ、呪いが解けた!と叫んで飛び跳ねたいようだった。棘の抜けた心臓の奥に小さく炎が灯って、一日中、幸福感に満たされていた。
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少しだけわたしの呪いの話をしようと思う。小説のネタにもならないほどありきたりの不幸の話だけれど、供養のために書くので読み飛ばしてください。
それは幼い日のある夜、どうしようもなかった父親に床に引き倒され、罵倒されながら首を絞められ、鼓膜が破れるほど殴られているときに母が言い放った言葉だった。
「顔はやめてあげてよ、女の子なんだから」。
今でもその瞬間のことは5分前のように鮮明に思い出せる。恐怖と怒りで全身の血管が膨らんだみたいな感覚、押し黙ることしかできずに睨みあげた酔っぱらいの息を荒げて正気を失った赤ら顔、その肩越しのダイニングテーブルの上で揺れる照明の昼光色が滲んで何倍にも眩しく見えたこと。
耳を疑った。顔はやめて? 女の子だから? そんな言葉が聞きたいんじゃなかった。今まさに目の前で実の子供が息も絶え絶えに気を失おうとすらしているのに!身を挺して父を引き剥がしてほしかったし、この子じゃなくてあなたが死ねと言ってほしかった。この狂気じみた暴力の先に地続きで殺意の衝動があることも知っていて、自分だってぼろぼろになるまで殴られていて、なぜそんなことが言えるの。絶望感が押し寄せて、そのまま虚無になった。
そこからしばらく母の顔の記憶がない。思い出そうとするといつも灰色のベールをかぶった亡霊のように靄がかかって表情が読めないのだ。実際、そのころの彼女は能面のような顔をしていたのだろうと思う。
嵐のような日々の中で、そんなことが積み重なっていった。やがて時とともに様々な問題がゆっくりと収束し、目に見えない無数の虚無の穴だけが残った。
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「あさイチ」は朝の和やかな情報番組でありながらセンシティブなテーマを軽やかに扱うことに定評がある。
近江アナウンサーと共にそのMCをつとめる博多華丸・大吉のふたりは1970年・71年生まれのアラフィフで、流行の話題に目を丸くして「さっきから私、まったくついていけてないんですけど」と本気で言ったり、価値観や倫理観に納得できないときには絶妙に微妙な顔をしたりもする、視聴者代表ともいえる「ふつうのおじさん」的な立ち位置だ(実を言うと稀にややデリカシーに欠ける発言にぎょっとすることもあるのだけれど、それはまあ、世代の差かなあと思う範囲である)。
しかしとりわけ大吉さんについて目を見張るのが、本気で対話の相手を「わかろうとする」ところだ。感情移入とか共感とは全く別の次元で「他人を理解するために歩み寄る」というその姿勢に何度もはっとしたことがある。柔らかく巧みな話術と平易な言葉で、決して相手を傷つけることなく、表層からみえない本質の部分を探り出してゆくやり方は、なかなか一朝一夕に真似のできるものではない。ずいぶん経ってから彼の生い立ちを知って納得したところもあるのだけれど、それ以上に、意識的にでも無意識にでも「そうあろう」とし続けている姿に、この番組を見るようになってからすっかりファンになってしまった。
人生には思いがけないところからふいに現れる救いがあるものだけれど、それは多くの場合、ラジオから偶然に流れてきた歌だったり、ファミレスで聞こえてきた隣の席の客の会話だったり、映画の中の誰かの台詞だったりと、決して自分のために差し出された手ではない。
でもこの日、正面からまっすぐに向けられた「あなたの呪いはいま解けたことにしましょう」という言葉は、確実に圧倒的な力をもって届いて、少なくともひとつの呪いをほんとうに消していった。数日が経った今でもまだ信じられないような気持ちだ。あのメッセージを投稿した方、選んでくれたスタッフの方、そして大吉先生に感謝。
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最後に、わたしの呪いがまだ真新しかったころ、心のよすがになっていた言葉をいくつか。
月のない夜をえらんで そっと秘密の話をしよう
ぼくがうたがわしいのなら 君は何も言わなくていい
―スガシカオ「アシンメトリー」
嫌いな人がいたら、好きになるところまで離れればいいのよ。この世にはわかり合えない人がいるじゃない? どうやったって。逆立ちしたってだめな人。でもその人も死ぬでしょ? 同じように、怒ったり泣いたり、人を好きになったりして、死ぬでしょ? そう思うと、許そうと思ったり、嫌えなかったりするでしょ。(中略) 問題は、心の中に入ってきてしまった場合。でもできれば入れないで、距離をとるのがいいの。本当だよ。
―よしもとばなな「ハチ公の最後の恋人」
神様にあったらこんな風に言うんだ
「どんな目にあっても生きていたいです」
―吉井和哉「シュレッダー」