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「夢見るシャンソン人形」に見る性被害〜フレンチ・ポップスの影と“お人形”の夜明け

イントロダクション:ユーロビジョン2025とルクセンブルク

先日、2025年のユーロビジョン・ソング・コンテストにルクセンブルク代表として出場する曲が決定しました。

Laura Thornによる“La poupée monte le son”です。(おめでとうー)

タイトルから推測できるように、本作はフランス・ギャルによる“Poupée de cire, poupée de son”、邦題「夢見るシャンソン人形」へのオマージュとなっています。今年は1965年のユーロビジョンで「夢見るシャンソン人形」がルクセンブルク代表として優勝を果たしてから60周年。国内予選に現地参加した方によると、大会を挙げてフランス・ギャルへのトリビュート演出が捧げられていたとのことです。上に挙げたパフォーマンスでも、冒頭に「夢見るシャンソン人形」を思わせるイントロが流れる背景で1965年当時の映像が流れています。

パフォーマンス中の写真。Luxembourger Wortより。

可愛らしいピンクのドレスを着て、人形のような動きで踊る彼女はどんなことを歌っているのでしょうか。

全訳はこちらになります。拙訳で恐縮です。

歌詞の中で徹底的に自分を「お人形」と表現しながら、伝わってくるのはむしろ「私は人形じゃない」という強い訴え。そこにはインスピレーション元となった「夢見るシャンソン人形」へのアンサーソングを超えて、むしろ強烈なアンチテーゼとしての機能を果たしているように感じられます。

どういうことか。まずは「夢見るシャンソン人形」の話をしなくてはなりません。


「夢見るシャンソン人形」読解その1:資本主義批判

1965年ユーロビジョンで優勝した時の歌唱映像。今見ると生演奏のテンポとか本人の表情とか、現場の緊張が伝わってきますね。

ちょうどユーロビジョンのことを報じていたRTBF(ベルギー公共放送)が2年前に「夢見るシャンソン人形」の内実に迫る記事を出していたので、筋を追う形でところどころ抜粋していきたいと思います。(著作権侵害にならないよう全訳を避けて気を付けます)

記事タイトルは「『夢見るシャンソン人形』―プロの飾り物(≒売春婦)という職業に迫った楽曲」などと訳せましょうか。Professionnelle(職業の)というフランス語の形容詞は女性形で名詞化されると「売春婦」という意味を持ちます。「自分の身体を職業としているから」だそうで、いくぶん見下した口語的な言い方になります。こちらのタイトルでは形容詞ですが、後述の内容からやはり「売春婦」のニュアンスが匂わされています。

いきなり強烈な内容から入ってしまいましたが、記事ではちゃんと否定的な文脈になっています。まずは「夢見るシャンソン人形」の歌詞の一部を見てみましょう。

Je suis une poupée de cire
私は蝋でできた人形
Une poupée de son
音の出るおがくず人形
Mon cœur est gravé dans mes chansons
私の心は歌に刻まれている

“Poupée de cire, poupée de son” (1965)

まずは「蝋人形(poupée de cire)」という言葉。連想されるのは蝋で作られた人形、それから音楽レコード。発明初期のレコードは「蝋管蓄音器」と呼ばれるように、蝋で作られた媒体で音声の録音・再生を行っていました。その上で「蝋人形」の響きは、音楽ビジネスの申し子のようなニュアンスを纏います。

「音の出るおがくず人形(poupée de son)」は言葉遊びです。クズ(son)を詰めた布でできた人形。そして歌唱という音(son)を出す人形。

すぐには気づきにくいが「夢見るシャンソン人形」は操り人形についての歌である。糸を引かれる操り人形。17歳のフランス・ギャルは(自分では気づかないうちに)、自分でも理解していない自画像を歌っている。無垢な若い歌姫とは、作者が彼女自身意図を理解していないことを言わせる、ということでもある。また無垢な若い歌姫とは、レコード会社が彼女の意思に関わらず無数の曲を録音させようとする、ということでもある。それが当時の状況だった。

https://www.rtbf.be/article/poupee-de-cire-poupee-de-son-une-chanson-temoignage-sur-le-metier-de-potiche-professionnelle-9806767

Mes disques sont un miroir
私のレコードは鏡
Dans lequel chacun peut me voir
その全ての中に私を見出せる
Je suis partout à la fois
私は一度に色々な場所に散らばる
Brisée en mille éclats de voix
歌声が何千ものかけらになって

“Poupée de cire, poupée de son” (1965)

画像や音声がメディアを通して繰り返し再生産され分配されていく、現代のメディア社会ですね。

「夢見るシャンソン人形」はレコード・ビジネスと繰り返し再生産されるアイドルの生成を歌ったものだ。ふしだらな見せ物として悪評を買った公然の職業、プロの飾り物(≒売春婦)に迫る作品となっている。

https://www.rtbf.be/article/poupee-de-cire-poupee-de-son-une-chanson-temoignage-sur-le-metier-de-potiche-professionnelle-9806767

Suis-je meilleure, suis-je pire
私の方が出来が良いの、悪いの
Qu’une poupée de salon
サロンの人形と比べたら
(…)
Autour de moi, j’entends rire
周りで笑い声が聞こえる
Les poupées de chiffon
布人形たちの笑い声が
Celles qui dansent sur mes chansons
みんなが私の歌で踊ってる
Poupée de cire, poupée de son
私は蝋人形、音の出るおがくず人形

“Poupée de cire, poupée de son” (1965)

こうして文脈をふまえると、「サロンの人形(poupée de salon)」というのもやはり「アイドル」の対置(なようでいて大して変わらない存在)としての「売春宿の娼婦」の暗喩である可能性が高いです。

「芸術」は免罪符になるか?

「夢見るシャンソン人形」の作詞作曲をしたのはセルジュ・ゲンズブール。大胆で挑発的、いわゆる「攻めた」音楽スタイルで知られるフランスのソングライターです。特に資本主義・商業主義の欺瞞に対して非常に感度が高く、メディア時代の加速を捉えた“Initial B.B.”や“Roller Girl”、歌詞にキャッチコピーやコミックの効果音が氾濫する“Ford Mustang”や“Comic Strip”などはその一例です。

写真は1960年代後半くらい

歌詞を見れば「夢見るシャンソン人形」もその系譜に連なる作品であることが分かります。楽曲そのものの完成度のみを取り上げれば、恐ろしく今日的で現代的なテーマを取り入れていたことにも気づかされます。それは商業主義的な音楽業界の在り方、またそれに伴うアイドルの消費文化です。

当然「夢見るシャンソン人形」以前にそうした「コミュニケーションの虚像化」に迫った作品がなかったわけではありません。芸術家マルセル・デュシャンの現代アート作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(1915-1923)が原点ともいえる存在です。あまりにややこしい作品なので詳細は全略しますが、この作品が由来となって、「男たちの欲望の的になってるけどその女性は投影でしかないので決して触れないし到達もできないそんな循環型システム」というモヤモヤした概念を「独身者機械」と一言で言い表すことができます。

マルセル・デュシャン『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(1915-1923)
通称は「大ガラス」。

アイドル・システムの虚構と悲哀という意味ではYOASOBI「アイドル」の源流にあたる流れかもしれません。もともとアイドル文化が発達した日本は独身者機械との親和性が高く、文学の世界ではウィリアム・ギブスンの『あいどる』、筒井康隆の『ビアンカ・オーバースタディ』や短編『20000トンの精液』(ここにある他作品を100倍キモくして100倍最悪にしたみたいな話です)などがあります。

「夢見るシャンソン人形」はそうしたテーマを持った作品なので、当時人気を博していたアイドル歌手のフランス・ギャルが歌詞通り意味もわからず歌うことで作品が真に完成される、と言うことはできるでしょう。しかし、芸術家が「業界の構造に自覚的になる」こと以上にできることはもうないのでしょうか。それから、作品の都合に合うという理由で本人に意図を伝えないのはやっぱりフェアじゃないのではないか、というわだかまりは常に残ります。芸術の名の下に犠牲にされるものが何なのか、と言う問いはこれまでの男性中心の長い長い芸術史で常に投げかけられるべき問題ですが、今一度立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。

(直接関係はないけどエルンスト・ゴンブリッジの『美術の物語』とケイティ・ヘッセルの『(男のいない)美術の物語』を並べてみました。)

「夢見るシャンソン人形」読解その2:無垢な少女

さて、ここまで既に十分酷い話が続いていますが、今まで見てきた「アイドル=操り人形」という読み解きはまだこの歌の一側面でしかありません。(どんどん嫌な話になっていくのでどうかご注意ください。)

「恋するシャンソン人形」二つ目の側面。それは「性的に無知な乙女」であり「処女」という幻想です。

Seule parfois je soupire
たまに一人ため息をつく
Je me dis à quoi bon
何がいいのと自分に問いかける
Chanter ainsi l'amour sans raison
訳もわからず愛の歌を歌うこと
Sans rien connaître des garçons
男の子のことを何も知らないのに
(…)
Mais un jour je vivrai mes chansons (…)
でもいつか私も歌のように生きる
Sans craindre la chaleur des garçons
男の子の情熱を怖がらずにね

“Poupée de cire, poupée de son” (1965)

「男の子のことを何も知らないのにラブソングを歌ってる」という「無垢」な現状と、やがて期待される性的なほのめかし。ゲンズブールはフランス・ギャルが16歳の時から楽曲を提供しており、色々と例を挙げることができます。

J'ai peur et je te résiste
私は怖がってあなたに抵抗する
Tu sais pourquoi
理由は分かるでしょ
Je sais bien ce que je risque
何を失いかけてるか知ってる
Seule avec toi
あなたと二人きり

“N’écoute pas les idoles” (1964)

Tu seras une pauvre gosse
あなたはそのうち貧乏少女になって
Seule et abandonnée
一人ぼっちで見捨てられる
Tu finiras par te marier
やがて結婚するけど
Peut-être même contre ton gré
それはあなたの意思じゃない
À la nuit de tes noces
結婚初夜がやってくる
Il sera trop tard pour
その時にはもう
Le regretter
後悔しても遅い

“Baby Bop” (1966)

また、“Dents de lait, dents de loup” (1967)もあります。一見たわいもない童謡のような雰囲気の曲ですが歌詞はフランス・ギャルが「私は赤ちゃんの歯(dents de lait)」ゲンズブールが「(こっちは)オオカミの歯(dents de loup)」と歌い合うというもので、 「(若い)女性(=獲物)」、「男性(=捕食者)」という関係性が暗喩されています。

フランス・ギャルとゲンズブールその人のデュエット。ゲンズブールもゲンズブールでこの佇まいなので洒落にならない空気を醸し出していて何とも言えないビデオです。

そして、極め付けは1966年の“Les sucettes”、邦題は「アニーとボンボン」。あんまり見ていられないので画像など貼るのは控えます。比較的有名な例なので詳細はWikipediaを見てみてください。

“Les sucettes”については流石になんでこんなことが可能だったんだよ…と思っていたのですが、近年の芸能界における数々の告発を見ていると、今でさえこの現状なのだから50年以上前なんてこのくらい当たり前か…と暗い気持ちにさせられます。

これらの歌詞はいずれ詳細に分析されるべきだろう。かなり性差別的で、時に支配性のアピールのように思われる。間接的なレイプとは言わないまでも…

https://www.rtbf.be/article/poupee-de-cire-poupee-de-son-une-chanson-temoignage-sur-le-metier-de-potiche-professionnelle-9806767

前述したRTBFの記事はこのように結ばれています。無邪気に楽しむには複雑すぎる背景が浮かび上がった「夢見るシャンソン人形」に、私たちは何を思えばいいのでしょうか。

「タブーへの挑戦」は免罪符になるか?

セルジュ・ゲンズブールはソングライターの側面だけを取ってもフランス文化に与えた影響は計り知れません。功績として語られるのが既存の社会的規範やモラルに対する挑戦的な姿勢です。タブーに挑戦し表現の自由と芸術の境界を押し広げる、というのはフランスが築き上げてきた文化精神そのものとされているのでさもありなんです。ナチスをテーマにしたアルバムを出す、フランス国歌をレゲエ・リミックスして保守派の顰蹙を買う、タバコはバカスカ吸う、ドラッグもやる、公共の電波で金燃やす…。

そして「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」に代表されるように、公の場で語りにくい性的な事柄をあえて表現する、というのも彼の表現方法の一つです。フランス・ギャルに書いた楽曲も、アイドル・システムへの不信感とそうしたアプローチが結びついたものと解釈はできます。しかし。社会を殴りに行っている道中で一人の女性を傷つけているわけで…

ここは自分の個人的な結論を2点にまとめます。

  1. 風刺はパンチダウン(上→下の立場)じゃなくパンチアップ(下→上の立場)を徹底しろ

  2. 3Pでも乱交でも好きにしたらいいけど相手の了解が無かったらその瞬間それはレイプだし性加害

以上です。

フランス・ギャルの再評価から#MeToo前夜まで

フランス・ギャルと夫のミシェル・ベルジェ

それまでの歌の本当の意味を知り、ショックを受けたフランス・ギャルはゲンズブールと決別することになります。その後キャリアの低迷を迎えますが、後に夫となる作曲家ミシェル・ベルジェとの出会いから少しずつ人気を取り戻し、歌手としての新たな人生を始めていきます。そして彼女の本当の全盛期はここからでした。ベルジェとの出会いや愛の告白をそのまま歌にのせた“La déclaration d’amour”や“Comment lui dire?”、語りが魅力的な“Il jouait du piano debout”、エラ・フィッツジェラルドに捧げた“Ella elle l’a”…自由と抵抗を歌った“Résiste”もかっこいい。恥ずかしながら今回初めて聞く曲ばかりだったのですが、どれも曲が良すぎるし、歌声が表現豊かで素晴らしいです。

「夢見るシャンソン人形」を歌うことはついぞありませんでした。現在も各配信サービスでゲンズブール提供による60年代の楽曲はほぼ全て封印されており、彼女自身の当時に対する姿勢は一目瞭然です。そして2000年半ばごろから平穏な生活を求め、ショービジネスの表舞台に立つことはなくなりました。

フランス・ギャル自身が、前述した最も酷い例“Les sucettes”の一件について語っている2015年の動画です。

よりにもよって日本滞在中に歌詞の真の意味を知りショックを受けたそうで、「それは最悪でした。最悪でしたよ。それ以降、私と男の子たちとの関係をまったく変えてしまいました。」と当時の心境を語っています。

この動画を改めて見てみると、MeToo以前のためか現場の雰囲気もどこか緩く、当事者に性被害の質問をぶつけることへの意識もどこか欠けているように見えるのが正直なところです。和やかな空気を壊さないように気を使ったフランス・ギャルがボソッと「あのブタども!(Gros cochons !)」と呟いて笑いを取っていますが、この動画の2年後に世界を席巻することになる#MeToo運動に呼応してフランスで起こった運動は#BalanceTonPorc(ブタを告発せよ)でした。#MeToo運動の勢いが加速し続ける2018年1月、心と身体の療養生活を送っていたフランス・ギャルはパリの病院で亡くなりました。

新たな時代の声:“La poupée monte le son”の意義

こうして、作品自体に対する問い直しと彼女に対する十分な復権がなされないままであるかに見えましたが、60年の時を経て「夢見るシャンソン人形」とフランス・ギャルをめぐる状況に再び光が当てられることになりました。冒頭で述べた2025年ユーロビジョン、ならびにLaura Thornによる“La poupée monte le son”ですね。

「夢見るシャンソン人形」の中で「son」という言葉がダブル・ミーニングとして用いられている、という話をしました。“La poupée monte le son”の歌詞の中で「son」という単語は一貫して「音」を意味しています。そこには同音異義語の「son」を通して、傷ついた女性の存在価値を「son(おがくず)」から「son(音)」つまり主体的に発せられる「声」「音楽」へと取り戻していく。そんな痛切な意図が感じられます。

歌詞の中で声を張り上げていく女性は「歌手」として、何より「告発する(文字通り“声を上げる”)女性」としてどんどん力を得ていきます。「この教訓を覚えておいて」と言うのは#MeToo運動の流れを汲んでいると見て間違いないのではないでしょうか。また「電気ショック(L’électrochoc)」という表現も社会変革の動きがSNSやインターネットといったデジタル時代の「電波」を通じて瞬く間に拡散するというパラダイムシフトの衝撃が表されているようです。「電気」のモチーフには生命の誕生と密接に結びつく面もあります。おがくず人形が新時代の電気を纏って生き生きと駆動し始める…。

よってLaura Thornの“La poupée monte le son”は「夢見るシャンソン人形」を通して、「操られる」存在だった人形(アイドル、女性…)が、電撃(社会的変革)を受けることで、自らの意志で動き出し、声を上げる力を得ていく…という物語を伝えているのではないかなと思った次第です。

歌詞の中で語り手は「私は人形なんかじゃない」という啓示を「新しい時代からの反響(l'écho d'une nouvelle génération)」と表現しています。つまりこの歌詞はフランス・ギャルその人の立場から、「未来からの声援」に力づけられ自ら声を上げる、というifの世界線に現実を書き換えているわけです。フィクションを通してやっと逆襲がなされた。そして60年代当時に彼女にかけられることのなかった「あなたを一人の人間として尊重しているよ」というメッセージを、60年が経った未来からようやく伝えることができた。少なくとも自分はそう受け取りました。

ルクセンブルク・ソング・コンテストの優勝トロフィーを持ってニッコリ。写真はLuxembourger Wortより

ユーロビジョンの本大会に向けて他の誰でもないルクセンブルクが本作を通過させることも、歴史あるフレンチ・ポップスの担い手としての矜持というか、アップデートの使命感を感じる出来事でした。

終わり。長文にも関わらず読んでくださりありがとうございました。

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