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言葉というツールを使いこなせない私たち

声が出なくなって1週間以上が経った。最初の頃は筆談でどうにでもなるだろうと思っていたがこれが意外と不便なもので。筆談も1週間も続けているとペンだこができてくるし、ちょっと買い物行くにも店員さんに「ちょっと待って」と手で制してスマホに文章を打って見せてというプロセスは時間がかかり店員さんにも迷惑をかけてしまっているのが分かるので気が引けてしまう。そうこう考えているうちにだんだん家から出るのも億劫になってしまった。
体は動くのだから、体が鈍らないためにもジムに行くかと思い立ったが、行ったら行ったでスタッフさんに話しかけられるしなぁ、とかあれこれ考えていたら向かおうとしていた足が止まってしまった。
思っている以上に、言葉を発するという行動は必要不可欠なものでありそれに自分は頼り切っていたのである。

言葉=盾

言葉は便利なだけでなく、ときには自分を守る盾にもなる。
海外ではたまたまエレベーターで乗り合わせた他人同士も挨拶と一言二言のコミュニケーションを取るのが普通のことだ。挨拶もせずに無言でいると相手からは「こいつは怪しいやつなんじゃないか」とか、現代なら「こいつはテロリストなんじゃないか」と思われてしまう可能性もなくはない。
日本では流石にテロリストに思われることはないだろうけれども、挨拶をされたのに挨拶を返さなかったら「この人無愛想で嫌な感じ」と悪い印象を持たれることだろう。自分が気づかぬうちに自分の印象を下げてしまうし、もしかしたらそれが思いもよらぬトラブルに繋がるかもしれない。たった一言の挨拶と笑顔で、自分の身を守れる場合だってあるのだ。
言葉は「自分は怪しい者ではありませんよ」と主張する大きな盾にもなるのだ。

言葉=矛?

しかしながら、時として言葉は相手を突き刺す矛になる。
インターネット上の誹謗中傷が影響で自ら命を絶ってしまう人がいたり、言葉の暴力がいじめに発展して深い傷を負わせてしまったり。
言葉はときにナイフより鋭く、弾丸よりも速いスピードで人の心をぐさりと突き刺したり抉ったりする。
しかもナイフや銃よりもタチが悪いのは出してしまったときにはすでに相手に傷を負わせてしまっていることだ。ナイフや銃は取り出したところで相手に振り翳したりトリガーを引かなければ相手にダメージを与えないが、言葉は口から出したその瞬間に相手を傷つける。発する言葉をよく吟味して気をつけて話している人ならいいが、大抵相手を傷つける言葉というのはよく考えず、よく吟味せずに口から勢いで発せられる言葉たちなのだからタチが悪い。

英語ができるのはすごい?

私はたまたま親の仕事の都合で海外に住む経験ができ、ラッキーなことに英語を話せるようになった。しかしその後英語を仕事でも使えるようになったのは帰国後に勉強を続けたからだ。
よく周囲の人から言われて疑問に感じることがある
「英語ができてすごいね」
褒めてくれているわけだから嫌な気持ちになるわけではないが、英語ができることがすごいのか?と単純に疑問に思うのだ。何故この褒め言葉に違和感を覚えるのだろうと自分なりに分析をしてみた。
そしてたどり着いた答えがこれ。
「英語ができることがゴールになってしまっているから」

言葉はツールでしかない

英語ができることはすごいのか?
英語が全くできない人や苦手意識を持っている人にとってはすごいと感じる部分ではあるだろう。しかし英語ができても、それを必要な場面で適切に使えなかったらどうだろう?
例えるなら、とても高機能なパソコンを持っているけれど電源を入れられるだけでそれ以外何も使い方がわからないようなものだ。
「高機能なパソコン持っててすごいね」と褒められても、それを使いこなせなかったら宝の持ち腐れである。言語も同じで、言語を理解できても話したり書いたりと必要な場面で使えなかったらそれは無意味なのではないだろうか。
言語はパソコンと同じでツールだ。
他者とのコミュニケーションを円滑に行うために必要なツール。そのツールを必要な場面で最適に使えて初めて「すごい」と褒められるに値するものだと思う。
そしてこれこそが、日本人が義務教育課程で英語を学んでいるにも関わらず英語を使えない人が多いことの原因の一つとも言える。残念なことに、日本の教育では英単語を覚え、文法を覚え、文章を読むことはできるようになる。テストでいい点を取るためだったり、大学受験に合格するための英語は身に付く。しかし、自分の考えを他者に伝えるための英語や、他社とコミュニケーションをとるための英語は学んでこないのだ。だから大人になって仕事で外国人を相手にしたり、街中で突然外国人に道案内を頼まれたりすると「I cannot speak English.」で逃げてしまう。
正しい文法で、正しい単語を使わないと英語でコミュニケーションができない、と学校で洗脳されてしまっているのだ。

しかしツールは使い方は使う人によって何通りもあるでしょ。
パソコンだって電源を入れるところまでは皆同じでも、そのあとの使い方は人によって千差万別。文章を書くためにパソコンを使う人もいれば、動画を見るために使う人もいる。文章を書くこと一つとったってワードというプログラムを使う人もいれば別のソフトを使って文章を書く人もいるだろう。
言語だって同じ。英語を例に使うなら、どんな文法でどんな単語を使おうと、相手に自分が伝えたいことが伝わることが一番大事。外国人旅行客で道案内を頼まれてその答えが文法が誤っていたとしても、その旅行客に聞かれた質問に答えられていればいい。文法が誤っていることは誰にも咎められることはないのだから。
英語ができることがゴールではなく、英語で相手に自分の伝えたいことを正しく伝えることがゴールなのだ。

では語彙力を増やす勉強や正しい文法を身につけることは大切ではないのかと聞かれたら、そういうわけではない。語彙力が多ければ多いほど伝え方の幅が広がるし、文法の知識があれば相手に伝える際に誤って伝えるリスクを下げることができる。語彙力や文法力やいわばリスクヘッジやプラスアルファのオプション機能みたいなものだ。あって損するものではないが、それがないとツールを使えないほどのものではない。

いつになったらツールを正しく使えるのだろう

声で発しようと筆談だろうと、言葉というツールを使うには変わりはないけれど、やはり声で発するのがツールの使い道としては一番便利で手っ取り早いことは間違いない。声が出ないのはツールを使いたくても、そのツールを最大限有効に使えないということあり大変不便。めんどくさがりな私は筆談が面倒になって家に引き篭もりがち。そうなると必然的にテレビを見る時間が普段より増える。

ここ数日テレビ画面に映るのは戦車、爆撃、そして泣き叫ぶ人々。
こんな惨状を目の当たりにするたびに、人間の愚かさを痛感する。

言葉という力強いツールを持っていながらなぜ人間は21世紀にもなって未だに戦車や銃しか扱えないのだろう。
・・・と、この話を展開していくとまた長い文章になってしまうのでこれまでにしておくが。
しかし、人間は何年、何十年、何百年経っても言葉というツールをちゃんと扱えないままなのだなと悲しくなる。

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