ブスというハンデ、あるいは美人というアドバンテージはあるのか
「美人」と言ってもその基準は人によって様々だし、美人であることで「有利」または「得な事」となると更に幅は広がり考えるのはかなり複雑な事になる。A氏にとってB氏が「美人」でも、C氏にとってB氏が「ブス」だったらB氏はA氏から美人特権で何かを得る事があってもC氏からは美人特権なるものを得る事はない。
とりあえず本稿では「美人で有利なこと、得すること」はあまり触れないでおく。
まことしやかに「美人の方が有利」と言われる事はあるが、それも特殊な状況下であったり、絶対的な汎用性のある「有利」かはわからないから。例えば、ある男性の婚外子が「私はブスだったら父親から見捨てられて野垂れ死んでいた」と発言したとする。美人をかわいがる男の娘だったために、この人が生き延びることに父親の関心を惹く美貌の持主であることが不可欠だったらしい。しかしこれが成り立つには、「婚外子」で「父親が美人(だけを)好き(裏腹に不器量な娘に極度に冷淡)」で「娘には美貌以外に何の生きて行く取柄もない」など、様々な複合条件が必要になって来る。
というか、むしろ、「美人でないと出来ない事」が一般的な人生にあまり多くはないかもしれない、という話になるかも。
容姿コンプレックスのマイナス
私が強烈な容姿コンプレックスを意識したのは高校生の頃だった。初めての交際相手は童貞で、童貞らしく誇り高き面食いだった。当然私の容姿には不満が多かったらしく、私を周囲に紹介する時は、「可愛くない」と断りを入れていた事が伝わって来るという状態だった。(彼の友人女性に初めて会った時に「なんだ可愛いじゃん」と女同士的お世辞リアクションが返って来たので)
私は当然深く傷つき、自分が美人でないことを恨み苦しみのたうち回り続けた。
美人に生まれなかったから私は侮辱を受けねばならず、他人を羨まねばならない。なんということだ、と思い詰めた。
今考えると「侮辱を受けなくては”ならない”」とか「他人(美人)を羨ま”ねばならない”」理由は全くないんだが、私はかなり長い間そう苦しみ続けていた。
さて、問題は。
問題は、いまだからわかるが、この出来事の問題点は、童貞であるが故にタレントやアイドルのような容姿の人間しか「女の子」と考えられなかった男子のせいではない。──いまでも私は童貞諸氏の美人でない女を見る目が苦手だ。何の罪もない気持ちでデフォルトで人間以外を見、扱うそぶりをする。まあこれは実は童貞に限らない処女にも言える罪深い行動なのだが──
問題は、「俺の彼女は不美人なんだ」と紹介された事について「その通りなんだから傷付く私はおかしい」と自分の傷付く心すらねじ伏せ、他人を侮辱する男の言動に迎合しようとしてしまう私の心である。私は彼の基準における美人ではないのは確かに事実である。しかし彼の基準で私の容姿がどうだろうと、私には関係がない。私には彼の基準によって貶められる理由がない。その基準によって私を貶める事は失礼だからやめろ、なのだ。
私は本当に長い間、それがわからなかった。
私は「美人が彼を好きになったらすぐに負けちゃう」という恐怖に竦んで泣いてばかりいたし、もしそういう事が起きたら確かに一瞬で負けて彼に去られていただろう。そしてあまりにもその事を恐れるあまり、自分のように恐れても泣いてもいない「(私基準の)美人ではない女の子」を見かけると強烈に妬んだ。何故こんな恐怖を宿命づけられた人生を生きていながら、そんなに明るく笑えるの──最早呪いの女である。自分自身を「侮辱を受けなくては”ならない”」等と抑えつけた人間は、他人の事も抑えつけようとする。抑えつけられていない他人が妬ましく、「抑えつけられなくてはいけないのに」と怒りさえ覚える。
当時の私のこの発想の異様さがわかると思う。美人以外皆いつ男を美人に取られるか怯えて泣いて暮らす社会など誇大妄想そのものだ。つまり私がおかしいのだ。何故私の不安が成り立たないのか。
まず、「彼基準の美人は彼に惚れない」。
何よりもこれが滅多に起きない。
彼基準の美人がアイドルそのものだとして、アイドルの美貌を持った女の子は人気があるし、彼を相手にする可能性は限りなく低い。もしもこの「彼」がアイドル女性と釣り合う人なら、そもそも私と付き合っていない。付き合う機会すら訪れない。
若い「彼」は、それこそ妄想的願望的に理想の美少女が自分に釣り合うと考えているかも知れないが、まずそういう事はない。アイドルといわず、「クラスで一番かわいい子」「学年で何番目かに可愛い子」が「彼基準の美人」に該当したとしても、それはそれで彼自身もクラス一番や学年で何番目の人気者かそれ以上の人気者ポジションにいないと無理。彼女達の周囲を取り巻く男子達はそのレベルなので、「彼」がそれ以下ならまず「彼」に注目する可能性はない。故に、私は「美人に取られる」心配をする必要があんまりない。
これは社会に出てからもあまり変わらない。
面食い自称男子の周囲にその人基準の「好みの美人」がいたとしても。もしその彼が自分の本命の恋人(不倫や複数交際のケースを除く)で、自分が特にモテない人なら彼も似たようなものだし、美人が彼にとって自分よりうんとモテる高嶺の花なら彼女は彼を相手にしている余裕がない。ライバルになり得るのは、自分が脅威を感じるほど圧倒的に適わない相手じゃない。
私は「美人に取られる」「もっと馬鹿にされる」「もっと屈辱的な目に合わされる」とそういう心配と被害妄想に囚われて交際を続けていたので、彼に対しても恨みがましく、そしてあんまり優しくなかったと思う。私はずっと卑屈だったし、「どうせ私なんか」といじけている人にはそもそも他人は魅力を感じない。もっと優しく接してくれる明るい彼基準のブスが現れて、彼はそっちに行った。
そもそもは、うら若き女子高生だった私に「俺の彼女、可愛くないよ」だとか見栄張った紹介する馬鹿童貞が悪い。お前は私程度としか釣り合わないんだよ破れ鍋に綴蓋だボケ、お前みたいな美人に相手にされない残り物を拾ってやったのに何威張ってんの、だ。
まあ、傷付きやすい10代女子がこれを心の傷としないのも難しかったかも知れないけど、私もこの彼の外見しか好きじゃなかったから、愚かさで言っても私と彼は釣り合ってたし、外見しか見ない同士だっただけなのだ。
悪口言って解決する事はまずない
しかしやはり10代の女の子というのは傷付きやすいし恨みの持ち方も凄まじい。
私はその後、実は結構長い間、美人でない子を「彼」気取りで内心馬鹿にすることがやめられなかった。その子達が平和にのびのび生きていると妬ましくてたまらなかった。まだ異性の冷酷さというものを知らないから、そんな風にこの世には何の苦しみもありません、みたいな顔で生きていられるだけだよ──と、妬んでいた。
虐げられた心は痛む。そしてその痛みを癒やす工程に「これは正しいルールなのだから、皆にも同じように運用されるはず」という考えが忍び込んでくることがある。これが「私のような不美人を軽んじる」という原動力になってしまう。
傷付けられた心は、他人を傷つけるハードルを下げてしまう。そしてこの心は、自分で回復させて自分が傷付けられたように他人を傷つけないように持っていかなくてはならない。なんという負債だ。心無い男子が「あいつは可愛くない」と言った事の代償がこの重さだよ。しかも自分で全部リカバリしないと恨み女になってしまうという負荷付き。心無い言葉は罪だ。大きな罪だ。
ついでに実際の出来事を付けたすと、いくら私が内心軽んじても、彼女達は健やかに暮らして行った。また、私の身近な女の子達はこちらの容姿を軽んじる男性に遭遇したら拒否するだろうし、関係も断つんじゃなかろうか。そういう自分を馬鹿にする事をゆるさない姿勢は大事。やがて結婚した彼女達が、彼女達の容貌を軽んじて馬鹿にする人を夫に選んだ気配はない。
「彼」だって、私が他人に彼を紹介する時に「偏差値が低い。進学する気もない」だとか「背が低い」「食べ方が汚い」「歯並びが悪い」等と本人にとっては「何故そこで俺という人間の価値を決めようとするんだ」と思うポイントでネガティブに語られたら傷付くだろう。容姿を重要視する人もいれば、そんなに気にしない人もいる。容姿を大事に思っていたが、付き合ったら容姿よりも重要なとこがわかって来てそこは問題がなくてよかった、とか。色々ある。
一方的な価値観で身近な人を悪く紹介するのもダメだし、そういう人からは速やかに距離を置いて離れてしまって構わない。私も「あ、ブスって紹介された。私も外見で選んだから罰が当たった。ごめん、何もわかってなかった別れようね」とサクッと終わってしまえたら良かったなあ。元カレにカウントする必要もなかったし。
なんとなく、以上。