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レンズ談義 その12 ダンジョン系写真論、若しくはラビリンス風
写真論は数々あれど、S・ソンダクとR・バルトに追いつき、追い越すことはなかなかだと思います。
個人的な写真に対する思い込み(妄念に近いかも)をちょこっと綴ってみました。
人間の脆さ(ヴァルネラビリテイ)、壊れやすさ、見捨てやすさ、分かち合い難さ、分断されやすさ
解釈という(反論、議論、討議の余地、可能性を許しそうにないような)ナイフ(ある種の暴力性)で世界を分断する手つき、その手で写真を撮る、神の如き目と悪人たる身の武装をして。
写真は、「今その時=生きる時間」を時間の流れから遮断し、一個の平面(画像、生きられた時間、死の陰影に浸され、侵された時間)に凍結するものである。
時間の経過により劣化し、解凍され、やがて、細分化し、分散し、分解され、雲散霧消するであろうが、「永遠の一瞬」としての特権、その地位はおそらく手放さない。
写真のこのような特権性は、見る者の視線や視角、深度を一方通行路のように限定し、見られる者(=物、死せる魂(写真は自由な魂を奪う)、透明な光の死体=残像)に対する優越性、解釈権限者として世界を正負の裂け目に二元化し、分節化し、単純化する働きを助長する。
見た者を忽ちに石と化すメドゥーサ、力の偏ったもの、傾いたもの、こわばったもの、硬いもの、縮こまったもの、揺らぎを拒むもの、変化を怖れるもの、これらはいずれも脆い、その脆さの内にのみその強度を保っているだけなのだ。
写真は、写された物に写した者が写っているからこそ、写真と言うに値するのだろうから。
この世界には別の眺めがあり得る、別の読み取りが可能なことを排除し、追放し、来し方を振り返ることは許さない、許されない。
その行く末は、未だ見えない画像の膜に覆われたままだ。
その見かけ(見せかけ)の煌びやかさやめくるめき輝きで人の目を奪い、思考や共振(共感、他者という揺さぶり)をその地点・時点で中断したままにする。
ましてや、電子データともなれば、高精細の液晶画面が、人の見る目の自由を縛り、奪い去り、平面的な安定・寛解に固定化する。
牢獄にいない者は、自分がそれゆえに自由であると確信することで、やっと牢獄から抜け出したつもりでいる。
しかし、人は牢獄にあっても、決して自由を奪われてはいない、そう信じるに足る人もまた存在し、存在し得る。
つまるところ、自らが作り出した仮初の牢獄(思考の罠)に棲まう者が、自らの意思に従い、囲い込まれたその自由を謳歌しているとは限らないということ、また、そう信じ込むにはかなりの勇気(蛮勇に近いもの)を必要とするだろうということ。
なぜなら、牢獄とは、すべて常に自らが造り出したものに他ならないから。
人の脳は、その莫大なエネルギー消費に鑑み、省エネをモットーに、無駄足を嫌い、判断の効率化(信念、思い込み、ステレオタイプ、偏見、バイアス、レッテル貼り、前例踏襲、判断停止など)を優先させる。
人は、他者への目線と他者からの視線で構成されるこの世界から、何を学び、誰を習ってきたのか。
写真という記憶の石化装置(銀塩というまがいの鉱石、電子という仮想の化石)がそれに答えてくれる訳でもないだろうが。
それでも、記憶する世界と記録する世界を横断、縦走して、まだ見ぬ(いつか見るかも知れぬであろう)新たな光の生み出す世界、見慣れぬ、見まほしき景色を見ようと、時間によって摩滅された古びたレンズから一つを選び……
よくよく考えてみれば、写真とは、「捨身」、その身体性を捨象することでのみ手にすることのできる、ある種の世界という生きている時と場に係わる所作であり、それを紛れなく写し取ろうとする書写という試みなのだろう。
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