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歌姫幻像 その3
昔流行った言葉に「自由恋愛」というのがある。今では、死語となったが。疑似恋愛や恋愛代行サービス、パパ活が殷賑を極めている当世とは隔世の感がある、などと陳腐な表現を使いたくなるのも、VR、フェイクの影響かしらん。
恋愛は、本来、自由(強制や禁止には馴染まないもの)であり、同時に、本源的に不自由(相手が異性であれ、同性であれ、相手が自分のことを好きになってくれるかどうかは、誰にも分からない。なぜ、あの人を好きになったのか、そんな理由を尋ねたところで、答えようもない)なものだから。
おかしな言葉が必要とされたのは、きっと、おかしな社会だったからだろう。家父長制をなおも引きずり、女や子どもを家父長の所有物のように扱う、そんな旧弊がいまだ影を引き摺っていた1955年、「この世の花」がリリースされた。
新人歌手にしては異例の200万枚突破、初恋の人と結ばれることがなかった乙女の心を唄っている。初恋の人と結ばれる確率は、今現在でも、そんなに高くはないと思う。なにしろ、まだ、恋に恋する年頃だろうし、恋に積極的であるとはどういうことかもよく分からないだろうから。わたしの憶測に過ぎないが。
リアルタイムでこの歌を聞いたことのないわたしには、衝撃の2番だった。
男のわがまま、やりたい放題、女の忍従にも限度がある。何もあの男どもが始め、大負けした戦争で苦労したのは男だけではない。女も銃後を守る名のもとに、動員され、散々な目に合わされた。夫や恋人や父や子や兄や弟を奪われ、どれだけの女が隠れて泣いたことか。
また、あの頃の暮らし、世の中に戻してどうなるものか。そうした思いが、200万枚の1枚1枚に込められている、そんな気がしてならない。
女たちの反乱の狼煙があがった、勝手に妄想している。
島倉千代子、偉大なるマンネリ、永遠のマニエラ、高音域での美しさ、ビブラートの繊細さ、流麗さを表す、あの「鈴を転がしたような」という最も陳腐な表現に収まり切らない超絶の技法、時に、聞く者の内なる耳を切り裂くような幻想に襲われる絶世の美声、その威力は、数十年もの間、持続した。まるでこの世ではないところから届けられる声のように。
それだけで、必要にして十分なる奇跡、そう納得させる歌手人生だった。
そして、この彼女の出発点、原点となったこの曲にこそ、その秘密が隠されているように思う。
いまだ恋をしたこともない美しい少女が歌う悲しい初恋の歌、そのリフレインがいつまでも鳴りやまない。
思えば、演歌、歌謡曲とは、飽くことなく繰り返されるメロデイーと歌詞の微妙かつ微細な差異を味わうところにその醍醐味があるのかもしれない。
なぜなら、神の創った世界は、常に新しく、恒に変わることのないものだから。
演歌が演じてきた世界は、生きていく中で経験する様々な感情、愛別離苦を、とりわけ男と女の出会い、恋する喜び、愛憎、葛藤、別れ、悔恨を描きながら、永遠の日常を、その死に至るまで、その死を越えてまで、追体験するものである。
そこには、澱のように深く沈み、淀んでいた悲しみや苦しみ、怒りや嘆きを掻き上げ、掬い上げ、清め、安らかにする歌の力が脈打っている。
ふと耳にした音楽が遠い記憶の世界をよみがえらせる、闇に沈んでいた砂丘が星の光でほのかに輝き始めるときのように。
コーヒールンバ(西田佐知子 1961年) 鼻にかかったハスキーボイス、低音域から高音域まで伸びやかにひろがるアロマ、モカ・マタリ、イエメン中部の急峻な山岳地帯の段々畑や涸れ谷で、誇り高い零細農民の手によって栽培されるコーヒー豆、コクのある独特の酸味を伴った甘い香り、素朴ながらも気品を漂わせるさわやかな後味がいつのまにか記憶の襞に深く染みてくる、彼女の歌声もほのかな香りに包まれ、いつまでも心のどこか片隅で鳴り響いている。
アカシアの雨がやむとき 60年安保とオーバーラップすると言われても当事者でなかった身には、ただ、どこまでも降り続く雨がニセアカシアの白い花を散らしていく、その雨がやんだとき、そこに残されたものは、挫折と絶望、死を正面から描いた稀有の大ヒット曲である。
この歌の淵源を辿ると、フィッツジェラルドの傑作と評される短編「バビロン再訪」に行き着くようだ。癒しと再生の物語、一度は破滅した男が娘への愛によって立ち直ろうとする、人生にひそむわずかばかりの真実の輝きを見る。
二十世紀初頭のバビロンは、享楽と退廃の都パリにあった。第一次世界大戦後の絶望という名の深い喪失感とその後の好況、やがて大恐慌の荒波が去った後に訪れた束の間の平安、偽りの繁栄、偽物の平和。
東京ブルース 東京オリンピックの開催された64年のリリース、演歌でスタンダードと呼べるのはこの歌だけか。こぶしもうなりもビブラートもないが、歌詞の内容に押されることなく、歌唱は少しも気品を失わない、最も正統な演歌である不思議さにひたすら酔う。西田佐知子ブランドである。
いとしのマックス 日本のポップ・ミュージックは、荒木一郎が先駆となった。クールで、軽快で、リズミカル、ポップスの定義をはっきりと示した。
涙の太陽 この曲を聴いたときのインパクトは、叫びたいくらいの、ほとんど祈りに近いものだった。聖母、女神、地母神、安西マリアは太陽であり、月であり、海であり、愛であった。
浪曲子守唄(一節太郎) あの声は一度聴いたら耳から離れない特異な声だ、彼は浪曲師だったのだろうか。わたしは、浪花節も子守唄も苦手だから、何を唄えばいいのか、迷ってしまう。
とりあえずは、ALL BY MYSELF(ERIC CARMEN バージョン)でどうだろうか。
世界に一つだけの花、イマジン、見果てぬ夢なら、醒めぬが一番。
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