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歌姫絶唱

 84年のラストコンサート、おまけがあった。
 前半の終わり近く、何と、ステージに歌謡界の大物が勢揃い、しかも、明菜と聖子がはるみちゃんの左右の脇のあたりを押さえているではないか。気丈にも明菜は涙をこらえ、聖子はこらえきれずに号泣した。女は、女はさ、男が惚れなきゃ女じゃないよ、と励まされて。
 
 驚異の16歳、あの独自の小節と深みのある広がりをもったビブラート、七色に変化する歌声は、当時、はるみ節と持て囃されたが、誰一人それを追認し、再現することはできなかった。36歳の最盛期を迎えた本人でさえも。
 それを思うと、「成熟すること=善」が必ずしも最適解ではないことが、身に染みる。時分の花か、一期一会の閃光のような衝撃が走る、天賦の才は確かにある、存在を許されている。
 アンコ椿は恋の花、さすらい小鳩、涙の連絡船、アラ見てたのね、好きになった人、惚れちゃったんだヨ、絶妙の歌いまわしは、今も歌謡の闇間に婉然と輝いている。
 それもまた、一炊の夢か。おそろしくもあやしい、胸苦しい。
 
 月曜日、息子彼は、朝からすっかり王様気取りで哀れな召使を酷使する。それでも、保育園には、なんとか時間内に収まる。仲の良い友だちに今日も会いたい、ありがたき「友だち効果」であろう。
 保育園の帰り、「ゲラ、ゲラ、ベニハ」だか「ゲロ、ゲロ、バニラ」だか口遊んでいる。
 聞き覚えのあるメロディーの成れの果てのようだが、どうやら、保育園で最近流行っているらしい。あの明菜の不朽の名曲「DESIRE」が。
 保育園もまだ捨てたものではない、確かに(明日の、未来とまでは言わないが)希望はある、わたしはそう思い、胸のつかえが少し下りたような気がした。
 
 中森明菜にはロック魂が宿っている。
 そう確信したのは、ワーナーがユーチューブで公開している動画「Live in ,87」を見たからだ。
 繊細にして豪快、可憐(な花)にして劇的(な演者)、妖艶にして清楚、重なり合うことのない要素が渾然と、一体となって、しかも千変万化する。その表情を見極められないまま、おぼろげな姿のまま、彼女は消失点を軽々と越えていく。
 その美しさの本質、感動のありかを見定められないまま、美しい人は、ステージの奥に消えて行った。
 本来の美人とは、捉まえようとすればかえって逃れ去る、一瞬一瞬の輝き、きらめきを放つ人を言うのであろう。
 
 彼女のロックは、天上を揺るがし、寝ぼけている神々を叩き起こし、空中に叩き落すことだろう。
 孤独な魂だけが、天上と地上との境界、階差を打ち壊すのだ。そして、この地上に満ち満ちた、悲しみや苦しみ、怒りや嘆き、喜びの根拠を問い糺す、訴えるのだ。
 歌うとは、そのほとばしりをともに体験することに他ならない。
 
 目覚めよ、そして、荒ぶる魂を解き放て。
 なぜなら、おまへは、本源的に(物事の初めから)、自由なのだから、と。
 
 息子に「DESIRE」のサビを聞かせてみた。特に反応はなかった。
 夕食の後で、もう一度確かめると、
「ゲロゲロピー」と言ったきり、ドラえもんの録画を見ていた。
 
 閑話休題
 普通の女の子に戻りたいと言って解散、引退した女性アイドル3人グループ、普通に戻るとはどういうことを意味するのか、当時のわたしにはよく分からなかった。今もって、「フツウ」とは何なのか、五里霧中というか曖昧模糊の感がある。
 それをパロったのだろう、都はるみが35歳、歌手としての絶頂期に突然引退を電撃表明したとき、「普通のおばさんになりたい」と口にした。結婚をして、子どもも欲しい、と。蛇足ながら、性別役割分担の維持、旧来の家族観の延命に少なからず貢献してきた人が思い描く家族像からは、妥当かつ穏当な意思表明であろう。
 普通になりたい、というのは、あの世界の特殊性というか特異性、日々繰り返されるスターの座を目指す激しい競争、いつ転落するかも分からぬ不安と恐怖に苛まれながら、それでも頂点に、絶対の高みに駆け上がろうと、自らを叱咤し、激励し、ひとを嫉妬し、藻掻き、あがき、しがみつき、歌を愛し、歌に生き、歌に溺れ、歌うことをやめられずにいる自分、多くを犠牲にし、手にした人々の賞讃、歓呼の声、拍手、名声、栄誉、大いなる報酬、普通の人では生涯得ることのできないものを手にした人が、それを手放し、取り戻したいという平穏で安らかな日常、愛と思いやりに包まれた生活、そこに潜む罅と澱、淀み、その行く末、有様はすでに歌い継がれたものばかりなのに。
 
 大学時代、ゼミのレポートに現代芸能史を選んだことがある。
 その小論文のタイトルは「普通のおばさん宣言がもたらした女性アイドルタレントのその後の性行動の変容について」だかだったが、教授からは一顧だにされず、レポート再提出の憂き目となった。
 永遠の闇に葬られたレポート、鼻くそみたいな死文の群れはわたしの記憶からも完全に抹消され、当然の如く行方知れずのままだ。
 その後の二大アイドルの有為転変は、記すべきこともない。聖子はひとり生き残り、明菜は今や伝説(の女神)となりつつある。
 
 水面(みなも)を静々と泳ぐ白鳥たち、その美しい立ち姿は、水に隠れた懸命の足掻きあってこそなのだろう。
 その傍から見れば苦役のような努力と節制の積み重ねが、やがて大輪の花となって開く、その瞬間に立ち会うことができた者の何という幸運。
 
 ひとりの歌手には、必ずや絶唱というものがある。もし、それがなければ、その歌手は決して一流とは言えまい。天上の一点に凛として輝くスターとは見なせないのである。
 絶唱を聴いてしまった聴衆である我らは、その時には、そのことに思い至ることはない。ただ、時の流れが、そのことを如実に語り出す時がある。
 そして、その思いがけない附合、運命に気付いたとき、懐かしさと悲しみが同時に我らを襲う。もう失われた時を誰も取り戻す手立てがないからだ。
 そして、絶句し、ときに、涙を流し、ことさらに口惜しく思うことだろう。
 それが、人生だと諦め、諦めきれずに、あの歌を知らず口遊んでいる。
 
 そこから、不滅の時が始まる。
 不滅の歌が、静かに、しかも、力強く、あなたに語りかけてくる。
 死をいたずらに恐るるな、ひとたびの滅びを嘆くな、今を生きよ、生きてあれ、生きるを楽しめ、生きて喜びとせよ、死の淵に呑み込まれるな、と。
 
 美しいものだけが永遠を生きる(ことができる)。
 真なるものは永遠に遠ざけられ、善なるものは永遠から目を背けたままだ。
 美しいものだけが永遠を見つめる。
 美しいものだけが永遠を語る。
 
 

 

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浮島 漣
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