厳しい時があったら、優しい時があってもいい
※2019年の記事です
今日は前回お話した通り、今学期の授業選択をした時のことについてお話しします。まだの方は、是非こちらも読んでみてください。
私の大学では、学期の最初の2週間で、授業の選択を自由に変えられます。もともとは授業変更するつもりは全くなかったのですが、今学期は色々と思うところがあって、2クラス変更しました。
辞めたクラスの1つ目は300-レベルの社会学のクラスです。これは、社会学を専攻する私には、必修のクラスなのですが、前学期に同じ教授のクラスを取り本当に辛かったので、今学期は取らないことにしました。私は、この教授のクラスをたまたま2つ取っていたのですが、クラスの進め方と、テスト形式が難しくて、なかなか苦戦しました。この教授のクラスは、ほとんどスライドもノートも使わず、ひたすら喋るスタイルでした。喋るだけのスタイルの場合、スライドによくある見出しや、1番大切なポイントなどがわからないので、ノートを取るのがすごく大変なんです。
さらにこの教授の場合、喋りたい内容が多すぎて、話があちこちに飛んでは戻り、飛んでは戻りという、まさに統一性ゼロに近い流れでクラスが進んでいて、毎回クラスが終わるたびに「で、メイントピックはどこなんですか?」ってなっていました。クラスメートもそんな感じで、みんな「Term Paperの為のリサーチをした時の方が、授業よりも多く学んだ気がする」なんて言ってましたね。
テストは、どちらのクラスもMidterm、Term Paper、Final Paperの3つずつだったのですが、それぞれかなり苦戦しました。Midtermは、どちらのクラスも、エッセイトピックが4、5個事前に渡されていて、その中からテスト当日、教授が選ぶトピックのエッセイを書く、というものでした。
そして、この2クラスのテストが同じ日に設定されていたので、 私は当日、全部で9つのエッセイを準備して行きました。
そしてTerm PaperとFinal Paperは、それぞれ10ページのペーパーを2クラス分だったので、全部で約40ページを、3週間の間に書くという、まさにメンタルとの戦い。
ただ、こんな辛いクラスを乗り越えられた理由が、 教授がすごく優しかったからだったので、そこはすごく感謝しています。Midtermの準備も、Term Paperのトピック決めも、親身になって相談に乗ってくれる、とても優しい教授でした。
ですが、2学期連続であのスタイルの授業を受けることにものすごく精神的に拒否反応が出てしまい、今学期はminorの単位に必要な100レベルのクラスを代わりに取ることにしました。「逃げ」とも言えるかもしれませんが、それが今学期の私には必要だったのかな、とも思っています。何事もタイミングと、自分の心との相談かなと。
もう1つ変えたクラスも300レベルの社会学のクラスだったのですが、これは同じ300レベル、同じ社会学の、別のクラスに変えました。変更前のクラスは、歴史ベースのクラスで、人々の働き方(capitalist societyでの働き方、communist societyでの働き方)を勉強するクラスでした。私は、もともと「現代の会社の中で、こういう働き方があるんだよ」みたいな内容を勉強できると思っていたので、スライドと教科書を見た瞬間に「違う」と思い、社会運動のクラスに変えました。
ということで、今回は私がどのように今学期の授業選択をしたか(変えたか)についてでした。今回1番伝えたかったことは、精神的に辛くなるようなことがあったら、全然逃げてもいい、ということ。(考えが若者って思われるかな。笑)
今回の私が、今この時期に、あの教授の授業を取る精神的体力がないからと言って逃げたように、人には人のタイミングがあるし、私は今回、あのクラスを取らなくて正解だったな、と思っています。実質、代わりに入れたクラスがすごく面白いですしね!
私の友達に1人、諸事情で大学をやめて、今後のことはこれから決める、という子がいるんですけど、全然そういうのだってありだと思います。もちろん、両親にお金を出してもらってる学生の身である以上、好き勝手やりすぎるのはどうかと思いますが、自分でちゃんと考えて、それが自分にとって一番の道なんだ、っていうのを見つけて、進んでいこうという意志さえあれば、大学辞めることだって失敗なんかじゃないし、むしろより良い自分の人生への一歩だとすら考えられるんじゃないでしょうか。
自分を甘やかすだけは良くない。でも、厳しい時があったら、優しい時があってもいいんじゃないかな。
最近よく聞くけど「人生、死ぬこと以外かすり傷」です。「自分がこうしたら、友達にどう思われる」とか、「あの子大学やめるんだってよ」って言われることなんて、かすり傷なんです。自分の選択は、自分の意思に正直に、そしてその決定に責任を持ってさえいれば良いと、私は思います。