ヤングケアラーであった自分 #1
この夏、沖縄に1ヶ月滞在していた。沖縄北部の真っ暗な夜道をラジオをつけながら運転していたある夜。ラジオの電波も悪く、途切れ途切れに聞こえたとある番組のリスナーからのお便り。確か、高校生の男性か女性かで、祖母だかを介護していて、辛い気持ちを淡々と綴ったお便りがその番組のパーソナリティに読まれていた。お便りの後半には完全にその電波は途切れてしまったせいで最後どのようなやりとりがその番組内でなされたのか分からないのだが、一気に自分の過去に引き戻された。
ここ最近聞くようになった「ヤングケアラー」という単語。
この単語を初めて目にしたのは確か2020年。Yahooニュースにピックアップされていたどこかの新聞社か週刊誌からの記事だったと思う。大学を卒業して何年だかの男性が「ヤングケアラー」であった自分と社会や家族との折り合いが未だうまくつけられずに苦しんでいる、という内容だった。
ある事象に対して名前が与えられることで輪郭がはっきりしてくるものがある。私はその記事を読んだ時に初めて自分が「ヤングケアラー」であったことを認識した。
こちらのウェブサイトの情報によると、
”ヤングケアラーとは「幼き介護者」と訳され、主に家族の介護や世話をしている子どものことをいいます。2020年頃からメディアでも取り上げられるようになり、徐々に法整備も整ってきています。”
そうか、それは社会問題とは定義されないまでも、社会やコミュニティの中で何かしら改善の余地や、周囲からのヘルプを必要とされる事象だったのだな、と、ヤングケアラーでなくなって20年以上経って初めて気づく。
日本に今、どれくらいのヤングケアラーがいるのか、誰も測定をしたことがないだろう。だからどれぐらいのヤングケアラーがいるのかは分からない。でも多分ヤングケアラー当事者は自分がヤングケアラーであり、周囲からヘルプを差し伸べられることを期待しても良い、ということすら知らないように思う。
だから、これから数回に分けて自分の8歳から18歳までの10年間の「ヤングケアラー」体験を書こうと思う。
私は1970年代の最後の年に愛知県の郊外に生まれた。生まれた時の家族構成は、父、母、祖父母に私の5人家族であった。3歳2ヶ月の冬、母が癌で他界してしまう。
父はその頃、地元では比較的大手の食品関連会社でサラリーマンをしていた。祖父は自営で小さな貿易会社を営んでおり、日本の陶器製品などを東南アジアに輸出する仕事をしいた。名古屋市内に小さな事務所を構えていたものの、私が小学校に入る頃にはほとんど自宅で仕事をしていたように思う。祖母は私が物心ついた時からリウマチを患っており車椅子生活だった。
母が他界してからもおじいちゃん子だった私は祖父に可愛がられ、隣家の幼馴染みとまるで姉妹のように毎日遊び、通っていた保育園もとても良いところで、毎日楽しく暮らしていたように思う。母親がいないことで寂しい思いもしていたが、でもそれを埋めるだけの愛情を周囲からもらっていた。
その昭和の時代、一家の主婦が亡くなるということは家庭の運営に大きな影を落としたであろう。母は小学校の教師だったが、亡くなる前一年間は闘病生活でほとんど入院していたと聞いている。
祖父は母親の不在を埋めるかのように、母が担っていたであろう家事炊事を担当していた。毎日私を近所の買い物に連れて行ったり、私の好きなおかずを夕ご飯に出してくれたり、私の好きな果物を食後にむいてくれたりした。祖母はまだその頃、車椅子ではあるものの、キッチンに車椅子を固定してシンクのところで立ち上がり、簡単な洗い物などはしていた記憶がある。でも手も足もあまり自由には動かないので、立ち上がったとしてもほんの数分のことだったのだろう。
6歳になり、母親がいないこと以外は十分幸せに暮らしていた私は、地元の公立の小学校に入学した。隣家の同い年の女の子と毎日一緒に学校に楽しく通っていた。近所にはたくさんの友達もいて、学校から帰ると公園で集まって遊んだり、友達の家に遊びに行ったりしていた。
でもそんな楽しい日々は小学校入学からたった2ヶ月後の6月に終わりを迎えることになる。
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