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私のためのお湯はない

週末の朝、ゆっくりカフェオレを飲める時間が幸せだ。実際には1才の第3子がまとわりついてくるので束の間の幸せではあるのだが。まあ1才がまとわりついてくる時間もまた幸せではある。

自宅にコーヒーマシンはない。有り難いことに結婚祝いでドルチェグストを頂いたときはそれをずっと使用していたが引越を機にサヨナラした。10年弱お世話になった。
それからはずっとコーヒーを飲むなら自宅ではインスタントコーヒーだ。ウォーターサーバーがあるときはとても便利だったが、それも最近手放してしまった。今では毎回お湯を沸かす必要がある。

私がお湯を沸かすとき、夫も起きているなら必ず2杯分お湯を沸かす。夫が起きてすぐでまだボンヤリしている場合はコーヒー淹れる?と確認している。せっかくお湯を沸かすなら2人分同時のほうがいいし、たとえインスタントだとしても他人に淹れてもらえる嬉しさはある。

ある朝、夫がお湯を沸かしていた。私の方が15分ほど早く起きていたのだが、昨夜夫が食事したときの食器がシンクに残っていたのでそれを洗っていた。まだ私もカフェオレを飲んでいない。

夫は何の躊躇もなく1杯分のお湯を沸かし始めた。
隣で洗い物を続けている私に何も言わない。何も聞いてこない。
「私の分のお湯も一緒に沸かしてくれない?」と素直に言えばいいのだが、いつも私がやっていることを夫もしてくれるんじゃないかと期待をしてしまう。お湯が沸くまでのたった数分間、私はさっきの台詞を何度も何度も言おうとしてはやめた。

数分後、夫は自分のコーヒーだけをもってリビングへ歩いて行った。ケトルには1滴もお湯は残っておらず、夫はきっちり1杯分のお湯を無駄なく使用した。

食器を洗ったことへの感謝も、お湯を2人分沸かすかの確認もないまま朝の何気ない時間が過ぎた。ほんの数分間の出来事だ。
夫が去るのとほぼ同時に食器洗いが終わった。嫌味になるかと一瞬悩んだが、夫が使用した直後に私は再度水を1杯分だけ量ってケトルに入れて沸かした。沸いたお湯ですぐにインスタントカフェオレを淹れ、夫の正面に座った。

あ、コーヒーまだだった?ごめんね一緒に沸かせばよかったね。

そんな言葉を期待した私はやはりクレイジーなのだろう。
夫は私のカフェオレに気づいたのかどうかもわからない。期待した言葉達は何一つなく、いつもの週末の朝と同様に時間は過ぎた。SATCの原作者が著作において「クレイジーの本当の意味、それは同じことを何度も繰り返して次こそは違う結果になるんじゃないかと期待すること」と表現したそうだ。それでいくと私もしっかり「クレイジー」だ。何度も夫に期待しては虚しい気持ちになる。

食器を洗っている私をみて、妻はコーヒーを飲み終わったから洗っていると認識したのだろうか。それでもたった一言「コーヒー飲んだ?」と相手を気遣う態度が欲しいというのは私のワガママなのだろうか。ちょっと大袈裟になるけれど「誰かを求めることは即ち傷つくことだった」と宇多田ヒカル先生の歌詞が頭を過ぎる。たかがインスタントカフェオレ1杯でまあまま落ち込んでいる自分がいることを確認した。

カフェオレは優しく甘く、この状況でも美味しかった。どんなときでも均一な味を提供してくれるブレンディに心の中で感謝した。

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