私と彼女の物語 第2回
私は背が高い。とはいっても、今の若い人からしたら、ちょっと高いぐらいかもしれないが、162cmあった。当時の男性の平均身長が私と同じぐらいで、女性は150cmだったのだから、並べば、ちょっと頭が出てしまう。
背が高いことにコンプレックスを持ったのは、今でいう小学校に通っていた時だ。先生は何か機嫌が悪いと「全員、前へ並べ!」と言って、背の順に並ばせた。当時は体罰なんて言葉すらなかったから、先生は背の一番高い私から頬を叩く。バッシーン!一番目だから、私は先生のフルスイングを頂く。次の子はバシーン!そしてその音はだんだんと弱まり、背が真ん中の子の番になるころには、「もういい!席に着け!」と席に戻された。つまり、先生は自分の手が痛くなったから、叩くのをやめたのだ。そんなことは、しょっちゅうだった。
私は自分の背が高い事を恨んだ。そして、気分次第で叩く先生を恨んだ。
その後、私は祖母の薦めで、結婚することになった。私は後妻になることになったのだ。相手には子供もいたが、まだ赤子の頃に母、つまり夫の先妻が亡くなっていたので、夫の実家で長男家族の下で育てられていた。私の父は、この結婚に猛反対し、一ヶ月も家出をして抗議したが、祖母の決定権は絶大で、父は逆らえなかった。私はと言うと、後妻はどうかとは思ったが、結婚したらすぐに、外国に住むと言われていたので、この小さな村を出て、異国の都会で暮らすことを夢見ながら結婚式を待ち望んだ。そして、義母となる人が、立てば芍薬座れば牡丹のような人で、顔も小さく、背も低く、小柄で美しく品があり、とても優しい女性だったというのも、結婚を前向きに考えられた要因だったかもしれない。
そして結婚式当日、村の習わしで、花嫁姿の私は、籠に担がれて結婚の宴が開かれる場所へ向かうことになった。しかし、山の登りの途中で、担ぎ手が「あんた、大きくて、重すぎるよ~、これじゃぁ、山を越えられないから、降りてくれ」と汗をダラダラ流し、フーフー言いながら、嘆いてきた。一生に一度の綺麗な結婚衣装に身を包んだ私、籠から絶対に降りたくなかった。重い結婚衣装で山道を歩いたら、着物も汚れてしまうし、私も汗をかいて、せっかくのお化粧だって落ちてしまうかもしれない。でも、担ぎ手のおじさん達の顔を見ていたら、そんな我儘も言えなくなってしまった。「これが私の運命」そう思って、山道を歩き、宴の場所が見えた所から、もう一度、籠に乗った。
それから、異国での暮らしが始まった。楽しいこともあったけれども、最初の数十年は辛いことの方が多かったかもしれない。でも、そんなとき、いつも私の口から出てくるのは「これが私の運命」、この言葉だった。なぜかこの言葉が口からこぼれる時は、辛い時ばかりだった。
しかし、夫を自宅で20年介護し、見送った後、ある時から、私はこの言葉を肯定的に言えるようになった。
私はデイサービスで、読み書きのドリルや塗り絵、カラオケやクラフトワークをしている時、その作業は子どもがするようなものではあるけれども、ここには私を褒めてくれる人しかいない。いつも笑顔でいられる。
もう、たくさん食べられなくなったから、お寿司屋さんに行っても、大トロだけを数貫食べれば、大満足でお腹いっぱい。
なんだか、子供の頃に出来なかったことを、今、満喫しているようではあるけれども、これが「私の運命」と思って、毎日が幸せだ。
そして、車いすに乗っていれば、誰も私の背の高さを知る人もいない。