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語れるだけの強さが欲しかった
人の言葉には強度がある。
好きなものやことに熱中していればしているほど、それを語る言葉の強度は増していき、聞いている人の心の奥深くまで届く。
言葉を重ねれば重ねるだけ強度は増していく。
好きなものについて考えれば考えるほどに、言葉は強くなっていく。
弱い言葉しか発せない自分が嫌だ。考えることに飽きっぽく、考えたつもりで同じ思考を堂々巡りする自分が嫌だ。理路整然と好きなことやポイントを整理することができず「とにかくいいから!」としか言えない自分が嫌だ。
自分の言葉の強度が足りないばっかりに、人が興味を失っていく様が本当に嫌だ。もしももっと好きなことに対する興味を持てるならば、趣味について考え抜く力があれば、人が聞いてくれるかもしれないのに。良さを伝えられるかもしれないのに。
と、思っていたんだけど、最近どうもその限りでは無い気がしてきた。
思考を煮詰めたような深い考察ブログをきっかけに映画館に足を運ぶこともある。でもそれとは全く逆で、めっちゃくちゃ浅い、心の一部がそのまま漏れ出しちゃった、みたいな感想文が心に刺さって映画館に足を運ぶこともある。
結局、言葉に強弱はない。
むしろ危ういのは、言葉の強弱を勝手に判断して、感想の良し悪しを決めつけてしまう態度の方だ。
弱い言葉や浅い考察には意味がないかと言えばそんなことはない。弱そうな言葉でも、思いついただけの考察でも言葉にするべきなんだ。本人が言いたかったんだから。言葉にしたかったんだから。
好きなものは勝手に語るべきだ。誰の目も気にせず、ただ好きだと発するべきだ。その自分の気持ちをはっきりさせるために言葉を尽くすべきだ。
そしてそれはもちろん、嫌いなものだっておんなじだ。
好きも嫌いも等価だ。好きなものとおんなじくらい、嫌いなことにも言葉を尽くした方がいい。
それが誰の耳にも届かなくても、自分の耳には届いてる。
もっと自分を知るために、ただただ言葉を使うのだ。
最近は鴨が好きなんだ。
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