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映画備忘録12 『怪物』



“アジール”とは、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」「統治権力が及ばない地域」のことを意味する。


教会、神社、仏閣、屋上、夜の公園、廃墟、......等々。そこは〈社会〉の弱い場所で、〈世界〉に通じる扉が開かれている。


『ほとりの朔子』では、進路に迷い、子供と大人の狭間で揺れる18歳の朔子が、境界人という社会性の希薄な存在ゆえに(=柳のもとに佇む幽霊のごとく)、〈社会〉の涯を暗示する「ほとり」へと惹き寄せられる。彼女はそのアジールの中で、〈世界〉との接触を試み、〈社会〉で受けた傷跡を癒す。


『ゆけゆけ二度目の処女』では、〈社会〉をうまく生きられない少女と少年が、屋上というアジールの中で繋がり合い、開放と行き止まりの、詩的な苦しみの時間を分かち合う。


『ムーン・ライト』でも同様に、主人公は海に
慰めを見出し、そこで精神のあるがままの姿をさらけ出す。




そしてこの『怪物』にも、アジールという舞台装置が登場する。


「怪物」扱いされる二人の少年。〈社会〉に疎外されたかれらは、そのアジールの中でのみ、自由に振る舞いことを許される。


なぜかれらは「怪物」扱いされるのか? 
※以降ネタバレ




......そもそもこの物語は、作中にやたらと出てくる「柵」が暗示するとおり、“境界線”の話であると踏んでいる。


右側が「怪物」か? 左側が「怪物」か?
一方に〈社会〉があれば、もう一方には「怪物」がいる。


......例えばヨリの父親。彼は担任の先生と邂逅した際に、「大学どこ?」「学校の先生って給料安いらしいね」「メガシティ不動産って知ってる? 僕そこ出身」などと、卑俗なマウンティングに走るが、これはネオリベ的マッチョイズムのカリカチュアで、勝ち組・負け組コミュニケーションに囲い込もうとする男性社会の視座そのものを表している。そんな彼(社会の側)からしてみれば、息子のヨリは不気味で理解不能な存在で、すなわち「怪物」にしか見えない。ゆえに直すべきものとして、苛虐な矯正を加える。


またミナトの母親は、息子がいじめられていると思い込み、学校に身を乗り出すも、およそ人間的な振る舞いとは言いがたい、(怪物のような)教師たちの非常識で冷たい対応を目にして、激昂の極に達する。


けれども、別の章で明らかになる教師たちの視座からしてみると、ミナトの母親こそモンスターペアレントにしか見えない。境界線によって、「怪物」は姿を変える。




「大丈夫だよ。僕もたまにそうなる」

内的葛藤に揺らぐミナトも、ヨリを「怪物」として拒絶する。そして自身の内に潜む怪物性に、恐れをなしたままの彼にとって、

「ミナトは“結婚して家族を持つ”まで......」
「どこにでもいる“普通の家族”でいいの......」


と無神経に語る母親の姿は、車から逃げ出したいほどの「怪物」として目に映るに違いない。


そして二人は自身を拒絶する〈社会〉から離脱する。たとえ嵐が来ようとも、唯一〈世界〉に開かれた場所、自由に振る舞うことのできるアジールのほうを選択する。




......今現実のどこに、かれらのアジールのような場所が存在するだろう? 


過去には存在した。しかし、学校の屋上の扉は施錠され、廃墟に入れば法に触れ、公園で火を起こせば通報される。


危険な遊具の撤去も同様に、それは友達の身体性にシンクロして、自分もやろうと動機づけられるあそびの感覚(ミメーシス)を、子供から奪い去る。


もしそれで、友達が怪我をしたならば、その痛みを自分の痛みとして感じることのできる身体的シンクロのチャンス、あるいは大人や救急車を呼んで自発的に物事を対処することのできる成長の良い機会になるに違いない。


こうした共同身体性が、共通感覚の前提となり、絆に満ちた街の共同性の共通前提になる。
空洞化する人間性、街の衰退の原因が、ここに存在する。アジールの消失に対する危機感が、制作の背景に一因しているのかも知れない。



......ところで、本作は当初、マスコミ向け試写にて、二人のクィア性に関わる描写を、「ネタバレ」しないように案内されていたらしい。それがクィア・パルム賞を受賞したことによって、初めて作品の本質が明らかにされた。つまりカンヌに「ネタバレ」されて、そこで初めて、「はい。そうです。これはLGBTQ関連の話です」と、製作陣が公に認めたことになる。

要は秤をかけた際に、「ネタバレ>同性愛の問題」という優先順位を置いた形になる。

そして是枝監督は、「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか」といった言葉を残している。

個人的には、特化云々じゃなくて、その問題を扱っている時点で、ネタバレ云々よりも、かれらや、かれらと同じような体験をしている同性愛者に対して、いかに向き合わなければならないかを考えなきゃダメなんじゃないの? と首を傾げたくなった。ネット上で、マイノリティの問題提起よりも、「あのシーンはこれこれこうで......」とかの、解説・考察系の記事や動画が多くを占めるようになったのも無理はない。

......ここまで踏まえると、あのラストシーンには、同様のモヤモヤ感を覚える。クィア・パルム賞の審査員は、「このような人たちにとって、強い慰めになるでしょう」とコメントを残しているが、「そうか??? いや、かれらは死んでからじゃないと、真に自由になれないじゃんか???」と突っ込まざるを得ない。そこには、かれらの関係を許容できない日本社会の窮々とした現状と、現世に安泰はないという解釈が色濃く残るだけだった。両義的で解釈は観客に委ねるというスタイルよりも(無理に○さずとも)、二人で手を繋ぎながら学校に登校するシーンなんかでよかったんじゃね? とか思ったりする。が、そんな不満以上に、作品自体は面白かったので👏🙏👍


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