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【隣棟間隔の天使】


おそらく猫を探していたのだろう。というのも、家にも、庭にも、その見慣れた灰色の毛並みを確認できなかったからだ。


だからこうして車を運転している。雨の街の中を必死に探しまわっている。しかし、いつまで経っても、猫の名前を思い出せずにいた。


大きな川の土手道を通った際に、ある知人とその兄の姿を見かけた。どちらもスーツに身を包んでおり、どちらも傘を差していない。かれらにはよくない噂が立っていた。


背の高い兄が、無骨に車のドアガラスを叩くと(そのこぶしの甲で鳴らすコツコツという音が不快でしかたなかった)、窓を開けるように促した。


「少しだけ乗せてほしい」


そう耳元で囁いた途端に、かれらはずけずけと車の中に乗り込んできた。後部座席で肩を並べて、共に濡れた前髪をかき上げている。そして何の断りも得ずに(それがさも当たり前かのように)、タバコを吸い始めた。


煙はあっという間に車内を満たした。すると頭がクラクラし出した。その紫がかった煙からして、どうやら普通のタバコではないらしい。


それはかれらの罪であるはずなのに、悔恨と恥辱の念が胸を満たした。ハンドルに頭を伏せて、自首をするか、自殺をするか、しばらく迷っていた。すると好男子の弟が、


「お前の探している猫を見かけた」


と言い出した。慌てて後部座席を振り向き、その場所を尋ねると、ある資産家の屋敷にいるとのことだった。


そう語る弟の表情には、シニカルな笑いが含まれていた。まるでこれから起きる悲劇のすべてを把握しているかのような冷笑だった。ただ好男子なだけあって、そこには妙な色っぽさも含まれていた。


「ありがとう。頑張れよ」


兄が礼を言うと、二人は車を降りて、土手の長い道のりを歩み出した。段々と遠ざかっていくかれらの背中を目にしているうちに、それが最後の邂逅であったことを理解した。なので惜別の苦い痛みを感じた。


......二十分ほど車を走らせると、目的地に到着した。裏通りにひっそりと建っている豪邸だった。車から降りて、そびえ立つ黒い縦格子に目を通すと、広い庭の中に猫の姿を認めた。


パラソルのついたガーデンテーブルの下に猫はいた。まるでその家の飼い猫であるかのような図々しさで身を縮めながら、訝しげにこちらを見つめている。


連続する舌打ちの響きで猫を呼んだ。すると普段通りに寄ってきた。濡れた芝生の上をトボトボと歩いて、柵のあいだから顔を覗かせた。


しかし、その猫は見慣れた灰色の毛並みをしていなかった。ゴールデンの明るい毛色をしていた。それはエメラルドグリーンの瞳をしたペルシャ猫だった。


柵の向こうから頭を撫でているうちに、猫は自然とそこから抜け出して、腕の中へと身を寄せてきた。その柔らかな毛並みを手で梳いているうちに、段々と自分の猫としか思えなくなってきた。


なので車のトランクを開けて、その奥に押し込もうとした。が、猫は断末魔のような叫びを上げながら、軽やかな身のこなしで脱走に成功した。柵の内側には戻らず、裏通りのジメジメとした狭い道のりを駆けていった。


必死にそのあとを追いかけているうちに、小さな歓楽街に行き着いた。どこもシャッターが降りていて、色濃い衰退の影が伸びていた。色褪せたケバケバしい装飾がいたるところに目についた。


すると建物と建物との隙間......、隣棟間隔のスペースに金髪の少女の姿を認めた。探していた猫を腕に抱えながら、こちらを伏し目がちに見つめている。背中に大きな翼があるため、天使に違いなかった。が、その羽は迸る生命力を宿していなかった。それは舞台の衣装で使うような、冷たい小道具の一つに過ぎなかった。


「そこに箱があるでしょう?」


彼女は自身の足元にある白い箱の存在を知らせた。


「あけてみて」


あどけなさが残る無垢な声で命じた。


恐る恐る箱を開けてみると、そこには三匹の蟲が入っていた。今までに見たこともないような黒々とした大きな蟲で、猥雑な犇めきを見せていた。その動きがあまりにも醜怪なせいか、一挙に吐き気が込み上げてきた。


「三匹のうちの二匹には毒があるの。毒のない一匹を選んで、無事に食べることができれば、この猫をあなたに返すことができるの」


震える手で一匹を掴むと、それが有毒であることは明らかだった。胸部背面にある白い模様が、おどろおどろしい頭蓋骨の形とよく似ていた。


『......しかたないか』


意を決して、喉の奥に押し込むと、蠢動する六脚の動きを胃の中に感じた。それは罪の意識、あるいは罰の感触に違いなかった。しかし、いくら待てども、その時は訪れなかった。どうやら“外れ”を引いてしまったらしい。





※夢で見た光景を短編風に仕上げたもの

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