映画備忘録3 『ほとりの朔子』
いわゆる「ジュブナイル」もので、子供と大人の狭間的な存在である少年/少女が、ある場所に向かい、そこで様々な体験をして成長し、もとの場所に帰ってくるまでを描く。同じ系譜の物語として、『ザ・ビーチ』『美しき冒険旅行』『スタンド・バイ・ミー』『哀れなる者たち』『千と千尋の神隠し』『思い出のマーニー』『君たちはどう生きるか』等々があげられる。(宮崎駿監督はこのモチーフが得意らしい)。
水辺という場所は古来から、俗世と冥界をつなぐ境界として知られてきた。ゆえに、あの世へと繋がる川に遺体を流し(葬送)、ケガレを祓う儀式(禊祓い)がそこで行われる。
また柳の下に幽霊が現れるのも、柳という木が湿気を好み、よく川沿いに植えられるからで、川淵や堀端、または井戸などの水にまつわる場所が、そういった異類異形の類を呼び寄せる。
ほとりも同様に、そこは世界に通じる場所で、社会の涯を暗示する。=社会の弱い場所だからこそ、そこは世界に開かれている。
進路に迷い、子供と大人の狭間で揺れる朔子。境界人として、どちらの立場にも立つことのできる彼女は、社会的な存在論の希薄さゆえに、(幽霊のごとく)ほとりに惹きつけられる。
大人が生きる社会......。それは多種多様なものが横並びになり意味合いを見失った社会で、媚や損得勘定などの色々なしがらみによって回っている社会で、過剰流動的で全ての事物が入れ替え可能となった社会で、ゆえに自分の輪郭も位置も分かりづらくなった社会のことを意味する。
そのような社会に耐えられない者は、自ずと(あるいは無意識のうちに)、朔子ごとくほとりのような場所を求める。
......波のさざめきに耳を澄ます者。凄絶な山々に巨大な生命力を感じる者。頭上の星々に慰めを見出す者。都会の公園で息継ぎをする者等々。横の力(社会)から訪れるものが当てにならないと見切ったかれらは、縦の力(世界)からの訪れを渇望する。世界との接触を試みる。
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