テストの点が低いのは悪いことなのか?

私はすべての大人に問いたい。
テストの点が低いことは悪いことなのか。

そう問うと大人は「そんなことない」と言う。
「本当に大事なことは、いい大学をでて、いい会社に就職することではないよ」と言う。

私は中学生までそれが理解できなかったが、高校生になって理解ができた。
ただ、それを理解したと同時に大きな疑問が浮かんだ。

では、
なぜ、会社の入社試験では学力試験が項目にあるのか。
なぜ、偏差値の高い有名な大学を出た人間を会社は取りたがるのか。
なぜ、大学の名前だけをみて面接するかどうかを決めるのか。

世の中すべての会社、組織がそんなふうになっているとは思っていないが、私の感覚では大きく有名な企業ほど、この傾向が強いように感じる。

「偏差値が高い大学を出てても、精神を病んで会社を辞めてしまう人がいる」
「有名ではない地方の高校をでて、大学には行っていない人が大きな企業の部長である」
ある日、こんな2つの話を耳にした。
こんな話は探せばごまんと見つかるだろう。
それなのに大人、ひいては人類が学力試験にこだわる理由がわからない。

だから私は聞いてみることにした。
いろいろな人に聞いてこんな声があった。
・数字で力を測れば公平が保たれるし、一目瞭然。
・テストの点が高いということは諦めずに努力できるということ。
・偏差値の高い大学には会社を辞めるような人まずまず、入れないし、出れないだろう。

本当に大事なことは数値化できない場合が多いから最初のものは納得できる。2つ目はまあ、確かにその場合が多いだろう。最後はかなり疑問符がつく気がする。なぜなら、偏差値で将来会社を辞めるかどうかは測れないからだ。

こどもですら勉強にこだわる。従兄弟が入った学校はとても偏差値が高い学校だ。高校生になってから従兄弟と話したとき、不意に私の通っている学校名を聞かれた。従兄弟はそれをすぐ検索して、言った。
「偏差値低いね」
と。わかっていたし、知っていたけど、すぐに返す言葉は見つからなかった。従兄弟は悪気はないと思うし、多分何にも考えずに、思ったことを言っただけなんだと思う。でも、それでも、悔しくて、悲しくて、勉強ができない自分を恥じた。
正直、私は従兄弟よりできること、秀でていることは少ないと思う。でも、私には私の生きている意義とやり遂げたい目標がある。自分が思い描く社会のビジョンがあり、創りたい未来がある。それなのに偏差値が低い学校に通っているというだけで、私そのものを見ず、悲しい気持ちにさせるような言葉をかけられる。
「偏差値ってそんなに大事かな、もっと生きていくうえで大事なことがあるんじゃないの?」
そう言い返したかった。

子供までこの学力がすべてだと思う社会の色に染まってしまっていると思うと、残念で仕方がない。



勉強はできるに越したことない。知識だってあればあるほどいいと思う。
でもそれ以上に、違う別のなにかが未来を明るくする気がしてならない。

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