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『私忘理由(しぼうりゆう)』

出す場所もないので、作りかけを置いておきます。

 もう既に、希望を見出す気力も残っていなかったのだ。なんというか、もう、ここから先、何をすればいいのかが、幾ら考えても出てくる気配は無かった。頭を使うことですら面倒臭くなる程には、疲れていた。足元はおぼつかないし、髪の毛もセルフカットで短くしているだけで、整えていない。髭も、爪も伸び切っていた。あぁ、爪、切らないとなぁ。黒縁の眼鏡がより一層雰囲気を沸き立たせている。

 こんな僕に話しかける人や気にかける人なんて、いる筈もなかった。異様なオーラを放っていることも、社会から必要とされていないことも重々承知していた。けど、それを意識することはしない。というか、意識出来ない、という方が合っているのかもしれない。

「しんたさんですか。」

「あ、あやねさん、かな? 初めまして。」

 たった五文字の関西のイントネーションが僕に向けて投げかけられ、思わず、昔大阪の従兄弟の家で暮らしていた時のことを思い出したが、嫌な思い出なのですぐ頭の隅の見えないところに隠しておいた。

 僕は今日、八月の真っ昼間に、東京駅で、ある少女と待ち合わせをしていた。彼女は、大阪の田舎にあるという東山中学校の三年生で、文豪が好きなこと、クラシック音楽が好きなこと、生徒会長をやっていたこと、最近犬が死んでしまったことなどの、ちょっとした事前情報を彼女から聞いていた。

 だが、今日初めて顔と声を聞き、ひどく驚いた。文面からは感じ取れない、大人びた雰囲気。それに反して背丈は平均よりも小さいが、一つに括られた長い髪や、釣り上がった目、仕草の節々から感じられる雰囲気は、どうしても中学生とは思えなかった。日陰のベンチに座っていた僕は、中学生相手にも緊張してしまっていて、いつもよりも声が出ず、うずうずしていた。

 彼女は言う。

「赤瀬綾音です。スマホの方はあやねって書いてるんで、そう呼んで貰って大丈夫です。あ、別に赤瀬でも。まあ、呼びやすい方で。」

 高い声を想像していたが、意外に落ち着いたハスキーボイスだった。彼女は、緊張している僕へ馬鹿みたいだとでも言うような澄まし顔をしていた。

「じゃあ、赤瀬さんで良いかな。大阪からよく来たね。飲み物はあるかい。」

 平然を装いつつ、僕の思う大人らしい返事をする。それを感じとったのかは分からないが、少し腰を低くしながら彼女は言う。

「あ、はい、えっと、お茶、欲しいです。」

 すいません、と言いながらも僕より先に自販機へ歩いていく姿は、元生徒会長、という割にはまだ心は幼稚だなと思う瞬間だった。ボブカット、と言うんだったか、忘れてしまったけれど、サラサラと優しい風に吹かれているので、まるでモデルを見ているかのような気分になる。耳に髪を掻き上げる仕草は、実に女の子らしいものだった。

「今、何気なく目の前を通って行っている人たちって、うちらの事、ただの親子とかやって思っとるんやろなぁって考えると、おもろいですよね。」

 彼女は急に、ぼそっと呟いた。先ほどの雰囲気とは裏腹に、酷く、酷く淋しい声。僕は今二十六歳だから八年の歳の差がつく。でも、僕は実際の年齢より老けて見えるらしいので、多分、父親だと思われても仕方がない、のだろうか。ビルの間から吹いた風が、右から左へ通り過ぎた。返事はどうしようかと悶々としていると彼女が続けて口を開く。

「あの、メールでは一日で終わらせるって話だったと思うんですけど、一週間にしませんか? えっと、名前、なんて言えばええですかね。本名とか知らないんで。」

 意外な提案だった。

「僕は黒﨑慎太。赤瀬さんは、しんたって名前しか知らないよね。そのままだけど、黒いに立ち﨑を書いてくろさきで、りっしんべんに真、太いって……まぁ、別にいいか。」

 と言うと、彼女は食い気味に答える。

「いや、もっと知りたいです。黒﨑って呼んでええですか。というか、一日か一週間だとしても結局最期は一緒やし、タメ語でもええやんな。」

 最近の若い子の距離の詰め方には少々苦労する。少し前まで働いていた飲食店のアルバイトに、高校二年生の女子がいたが、無欠勤はなんのその、という感じで、ようやく来たかと思えば、スマホをずっと触っているし、彼女のようにぐいぐいと距離を詰めて、話しかけてくる。こんなおっさんに話しかけても、何も得ることは無いとわかっている筈なのに。諦めて返事をしていけば、案の定反応は薄く、そんなに面白くない、と言っているかのような呆れ顔であるし、何なんだと思っていたが、つい最近、辞めたのだった。

 正直を言うと、重い足枷が一個外れたような感覚がしてしまい、その時僕は、仕事を辞めるより人間を辞めようか、と自分に呆れた。

「ま、まあ、そうだね。でも、一週間って、何をするんだい。もう、今日で終わりの方が、いいんじゃないのか。赤瀬さんの心が一週間も持つのか、僕は心配なんだけど。」

「いや、普通に最期くらい、東京観光したいなぁーって思っただけ。新幹線の中でどこ行ったろかなぁとか考えてたんやけど、まずまず来たこと無いし、うちより黒﨑の方がいい場所分かるんちゃうかなって思って。」

「観光かぁ。うーん、良いけど。できる限りの配慮はするよ。じゃあ、一週間後の夜でいいかい。あ、薬はもう用意してるから、もし途中で気が変わったら言ってくれればいい。」

 ここで、もう、僕は可笑しくなっていたのだった。薬の間違った使い方を中学三年生の女子にする時点で手遅れであった。そして、相手の彼女がその単語を気にも留めていないことが、一番最悪なことだった。

「ほんとに東京に旅行しに来た親子みたいやね。なんか、新鮮。」

 と言われ、

「そう、やな。」

 下手な関西弁で返した。

 僕たちは、一緒に人生を終える。

 詳しく説明すれば、僕は彼女の手伝いと、寄り添い役。一週間後の東京の、人気のない川沿いの草むらで。ネットというものは怖いと、ただ思うばかりだ。ただ一言、「一緒にする人を探している」と書けば、一時間も経たないうちに集まってくる。
 しかも、それが成人していない女子であると、男性は大勢群がって会いたがるのが、この世界の現実。僕はそんな事はしないけれど、そういう事を目的としてやってくる人も、ごまんといる。だが、彼女は知らなかったのだった。

 やはり、学校での教育は染み渡っていなかった。知識だけが頭の中にあり、どうせ死ぬのだからと無謀自棄になって、誰でもいいからと一言、書き込んでしまった、悲しい女の子なのである。

「似非関西弁は、関西人に嫌われるんやで。」

 じとっとした目で此方を見るので、笑ってしまう。

「はは、ごめんね。じゃあ、これからどうしようか。ご飯は食べたのかな。」

「鮭おにぎり一個は食べた。」

「僕まだ食べてないから、一旦食べに行ってもいいかな。お昼ご飯。」

「何食べるの」

「うーん、ナポリタンとか。いいパスタ屋を知ってるんだ。」

「おー、いいね。食べたい。うち、結構食べるかも。」

「いいんだ、まだ子供なんだからそんな事気にしなくていいんだよ。」

「そっか。ね、早く行こ。」

 そう、腕を掴まれた。紳士の人がよくするやつだ。腕といっても、肘のあたりを彼女が引き寄せた。

 そこからは、一瞬で時間が過ぎてゆく。
 東京タワーの最上階へ行くと、彼女はここから飛び降りるほうがよかったかな、と真剣に言うので少々戸惑う。僕は、途中物にぶつかったら痛いし、見た人が可哀想だよ、と言うと、そっかぁと納得してくれ、そっと胸を撫で下ろした。

「次あれ食べたい、あれ。」

「クレープね、いいよ。」

「そう、クレープ。味は黒﨑のおすすめで。」

 銀行の金も全て財布に入れているので最初は少しも金銭面を気にしてはいなかったが、彼女の食べっぷりには、ついて行くのがやっとだった。僕の食生活は質素なもので、大体はコンビニスイーツを頬張っている、社会不適合者そのものだ。一日にこんなに使った事はなかったものだから、財布が少し悲鳴をあげていたのかもしれない。

「もう、食べれへんわ。一生分食べた気ぃする。でも、明日にはまた腹が鳴るんやろなぁ。はは。」

「ぐっすり眠れるかもね。今日、沢山動いたし、食べたし。」

「そやな、べっど、ベッドで寝れる。そういえばさ、さっきのとこの、レモネードって言うやんっけ、ばり美味しかったやんな。炭酸、しゅわしゅわだったやんな。」

「うん、合ってるよ。そうだね、さっぱりしてて、夏にはうってつけだったね。」

 というと突然、沈黙が訪れる。風の音だけがする。そして、それを破ったのは勿論彼女だった。

「黒﨑。うち、変?」

「え」

 また急にそんな事を呟いたので、つい口籠もってしまう。

「なんも知らんやん。クレープも、レモネードも、東京も。」

 彼女は、何も知らなかった。無知というものは、ネットよりも、怖い。本が好きでも、実物を見た事は、なかった。彼女が文面から推測して夢見ていたものは、それよりも美しかったらしい。

「うちの親はさ、うちのこと邪険に扱うねん。知らん人の靴とか普通にあるしな。こんまえは、うちが三歳の頃から飼ってた犬がおってんけど、死んでん。埋める人おらんから、うちが埋めた。

 あとは、一ヶ月前に妹が施設に入れられた。うちは中三やからおかやんが見てくれるって話やってんけど、妹は、血ぃ繋がってるけど、繋がってないみたいな。だから、おかやんは、妹をうちの子やないって、施設に入れてもうたんや。まあでも、うちよりも妹の方が辛いだろうし、他にも最悪な状態の人もおんねやろなって考えたら、まだ平常心保ってられるねん。」

 その後もブツブツと呟いていたが、右から左cだった。それは話がつまらなかったのではなく、ただ、悲劇の少女とでも言えばいいのか、そんな彼女の短い人生の話を、僕は黙って聞く事しかできなかったからだ。僕は僕のどうしようもない無力感をひしひしと感じた。
 僕自身が彼女の人生を経験したわけではないのに、彼女の話し方が上手いのか、話が気持ちが悪いくらいにドロドロとしたリアルさがあったからなのか、身の毛がよだった。

 彼女も、同情を求めている訳では無いことは、分かっている。けど、彼女が夢を見ることは許されないのか。この頃の年代だったら、好きな服を買うとか、将来は看護師になりたいとか、妙にキラキラした言葉が出てくる物では無いのか、と思う。

「赤瀬さん、自分を卑下したら駄目だ。もしそれで赤瀬さんが救われるなら、もうとっくに君の笑顔は見れた筈だよ。」

 俯いていた。クレープの中身が、少し、垂れていた。

「ええやん、別に。それしか丸く収める理由が見つからないんや。」

 そう言われ、はっとした。自分の発言を無いものにしたくなった。

「黒﨑、うちの話もっとちゃんと聞いて。辛くても、聞いて。」

 もう、頷くしか、できない。

「生徒会長もやって、友達もできて、好きだった本にも沢山出会えて、うちがずっと憧れてた、ただの女の子になれた気がしてたんや。でもただの虚像やった。そんなん無理やった。」

 ただの女の子……。

「そんで、なんでか分からんけど、うちの家が貧乏やって話が広がってったんや。確かに、貧乏なんはうちも十分分かってんねん。

 でも、根も葉もない噂がぎょうさん出てきて、うちが好きな男子に近づく女子を階段から落としたとか、嫌いなやつ片っ端から虐めてたとか、変な噂ばっか。それでどんどん皆んなが離れて行って、いつからか、学校鞄も上靴も体操服も、ずたずたで、もう、この先何したらええんか、分からんくなった。
 話広まるの、速すぎんねん。もう、弁解の余地も無かった。先生は見て見ぬ振りするし、もう終わりや、なんもできへんって、とうとう気づいてしまったんや。今までの人生も、これからの人生も、希望が見えん。お先真っ暗や。もう、悔しくて悔しくて、ただ泣くしかできへんかった……」

 散弾銃で蜂の巣にされたような気分だった。ようやく彼女が息を吸ったかと思えば、啜り泣く声が微かに聞こえた。息継ぎを忘れるほど切羽詰まっていたのは一目瞭然だった。クレープの中身が、ぼとっと、彼女の太腿に落ちる。クリームと、輪切りにされたバナナ。それすらも気に留める様子は無かった。すぐそばに落ちているのに。

 それに気づいているのか、わざとなのか、彼女の意図が読み取れず、触れていいのかすら分からなかった。

 ただ、彼女が今までの悲劇と気持ちを話してくれたことが少し頼られた気がして嬉しい。

 だが、お互いに無力感を感じていた。お互いに、何を言えばいいのかわからなかった。そんな状態のまま、何となくで東京を観光した。

 そして、僕たちはついに、決行した。

 僕は元々不眠症で、睡眠剤を処方されていた。最近はよく眠れる様になったが、当時の病状が酷く重いもので、僕一人じゃ飲み切る事はできず、約七十錠と大量に残っていて、どうしようかと悩んでいた。大きい病院のものなので、効果覿面の睡眠剤だ。

 この方法は、僕ではなく彼女が提案した。最初の日数の話もそうだったが、彼女ははっきりと意見を言うことができるのに、何故、自分の悩んでいる事だけは心を開くまで話してくれないのだろうと、疑問に思った。別に、死に方はこうしたいとか、クレープが食べたいとか、そんなんじゃ無くて、それ以上に解決すべき問題がある。その解決策を見つける時間なんか、まだ無限にあるだろうに。何故、こんな結末を迎えてしまったのか。僕たち社会人を悩ませるのが趣味な様だ。なんと悪趣味な事だろう。

 僕は、飲んで数分で泥の様に眠った。深い海に沈んでいるかの様な感覚で、胎児の気持ちが分かった気がした。不安や緊張が、体から抜けていく。
 ずっとここに居たい。
 そう思った。彼女にも、こんな優しい場所があれば、もっと生きられた筈だ。

 ふと、気づいた。

 僕が救ってあげればいいじゃないか。

 僕が彼女を優しく包み込める、温かい居場所を作ってあげればいいじゃないか。

 何でだろう、何故こんなにも近い解決策を見つけられなかったのか。黒い悪夢から自ら抜け出した瞬間であったが、現実の僕は優雅に眠っている。
 兎に角、早く起きなければ。まだ、助かる筈だ。
 どうにかして胃の中のものを吐かせられれば。いや、警察か? そう考えていると、段々と朦朧としてきた。ふわふわの綿毛に乗っているような感覚。あれ、僕は何故、ここに居るんだろう。というか、ここは何処だろう……。


 そして、僕の目の前に白い空間が見えた。現実、では無いように見えた。ここは、天国か。本当に、極楽浄土はあった。眼鏡は無いのか、目の前がぼやけている。けど、周りが白いことは十分にわかった。

「黒﨑さーん。黒﨑さーん。」


 あぁ、幻聴か。

 いや、天使の声かもしれない。僕の名前を優しく呼んでいる。

「私の声聞こえますかー。聞こえてたら右手を挙げてくださーい。」

 言われるがまま、僕は右手を弱々しく挙げた。

「あら、起きましたね。黒﨑さん、はい、これ眼鏡です。付けて待っていてくださいねぇ。」

 天使は、冷たい手で僕の右手に眼鏡を握らせた。ゆっくり、眼鏡をかける。
 辺りを見回すと、そこは病室の様な場所だった。小さな机の上に、茶色の肩掛け鞄が置かれている。

「妙に現実味がある天国だなぁ」

 先程の言葉とは反対に、窓の外から聞こえる鳥の声が、そう感じさせた。ふわふわと寝惚けていると、扉がガラガラっと開いた。

「やっと起きたか黒﨑! おはよ……ってまあ、深夜の一時だけど。」

 聞き覚えのある声が聞こえ、意識の混濁が一気に醒める。

「き、君は! 銀本、銀本薫だな!」

「おぉよく覚えてたな! あ、『しんちゃん』、元気してたか。」

 昔からの癖っ毛はまだ残っているな。肩幅は広く、体格に恵まれていてガッチリとしている。笑顔が妙に愛嬌のあるこいつは、高校時代からの腐れ縁だ。高校で別れては大学時代に同じアパートに住んでいたとか、合コンでばったり会うとか、今の様に出会ってしまう、切っても切れない関係なのだ。これは、本当に、神様が居るならどうにかして欲しいと思う。

「その呼び方、辞めてくれよ。僕も銀ちゃんって呼ぶぞ。」

「へへっ、いいじゃねぇか別に。具合どうよ?」

「眠気があるし、頭も痛い。てか、お前何でここにいるんだ。お前老人ホームで働いてたんじゃないのか。」

「あ? あーそういうことね。俺、医者になったんだよ。すげぇだろ。」

 その瞬間、凍りついた様に口が動かなかった。ただ鯉のようにぱくぱくと、口を震わせていた。

「え、あえ? あ、あの銀ちゃんが、医者?」

 高校時代は、本当に楽しかった。カンニングもしたし、授業を抜け出してゲーセンに行ったし、先生の愚痴も、部活も、体育祭のアンカーも、告白も、色んな事をした。それには絶対、銀本がいて、銀本がいたから、楽しかった。喧嘩もしたけど、それがあっての縁というか、本当に充実していた。

 銀本には、警察官の親父と薬剤師のお袋が居て、お手本のような両親と非の打ちどころのない息子だ。……あ、いや、口は悪いけど。でも僕は、陰ながら銀本に憧れていたのだった。でも、僕とずっとやんちゃしていたし、反省文を書いた数は数えれない。
 羨ましかったといえば、女の子を惹きつけるオーラがあった事と家庭事情ぐらいしか思いつかない。頭は僕と同じくらいで良いとは思えなかったし、勝手に同類だと思っていた。なのに、何故、医者になってるんだ。

 少し、寂しい気がした。僕一人だけ置いて行かれているような気がして、今までの人生を振り返れば、高校時代しか輝いていないし、それから何か功績を残したかと言えば何もしていない。ただ金のために働いていると言っても過言では無かったのだった。

「まじで大変だったよ。お袋が特に五月蝿かったなぁ。」

「……あー、お前のお袋薬剤師だもんな。でも、いいじゃん。お金稼げるし。」

「まあそうだけどよ……。てかお前さ、記憶ねェだろ。」

 とんとん、と指で頭を突く仕草を見せた。

「え?いや、あるよ。今、高校時代ああだったなって、考えてたよ。」

「ちげェよ。薬飲んだ後のこと。」

「薬?」

 薬、薬……。ダメだ、全く思い出せない。そこだけすっぽり抜けている。……あ、理由は分からないけど、誰かと東京を観光したんだっけ……。

「赤瀬綾音、十五歳。東山中学校の三年生。お前と観光してた女の子だ。」

「赤瀬、さん……。」

 銀本はベットの近くにある椅子に腰掛けた。

「三時間前に亡くなった。」

 予想もしてない言葉が飛んできた。

「え……?」

「薬剤の過剰摂取で内臓が傷ついたらしい。俺は精神科だから詳しい事はわかんねぇけどな。お前は、川の下流の方に流されてて、それを通りかかった人が見つけて通報したんだ。それも覚えてないだろ。お前。」

「あぁ、全く。ごめん、迷惑かけた。」

「いや、俺は別に何も苦労なんてしてないけどよ。」

 記憶喪失ってやつか。本当にあるんだな。

「お前の方こそ大変だったな。その女の子に殺されかけたんだろ。気の毒になァ。」

 銀本が眉を下げて言った。

「えっそうなの? あ、いや、思い出せなくて、分かんないけど、そうだったんだ。」

「東京まできて中学生の女の子に殺されかけるとか、何したんだよ。」

「いや、僕も知りたいよ。うーん、赤瀬綾音さんなんて、今までに会ったことあったかなぁ……」

 あまり名前を覚えられるタイプでは無い。物事は鮮明に思い出せるものもあるが、人の名前と顔は、いつまで経っても一致しないことが多い。銀本に関しては別問題だが。

 すると銀本はハッとしたような顔をした。

「そういえば、高三の時によく行ってた地元の学習センターあったよな。あそこの館長、赤瀬って苗字じゃ無かったか。で、ちっちゃい娘が二人いて、あー、双子だったっけ。時々顔出してたよな。」

 そう銀本が言うと、思い出がフラッシュバックした。

「あー、苗字は今ひとつ覚えてないけど、受付によく小学生が折った感じの折り紙が飾ってあったな。鶴とか、兎とか。日に日に増えてた気がする。あとは、片方が俺らが卒業する年に亡くなったんじゃなかったっけ。」

「お得意の記憶術だな。俺、名前とかくらいしか思い出せねェ。」

「僕は名前を覚えてないから、丁度いいよ。お前がいなかったらこの話を思い出すことすらしてないし。」

 そういう面では僕らは相性がいいのかもしれない、と思ってしまった。うわ、銀本と相性がいいとか、死んでも嫌だ。辞めよう。前言撤回。

「てか、なんで数年前の話は覚えてて溺れた時は思い出せないんだよ。」

「なんでだろうね、僕も分からないや。」

「その女の子たちって、どんな子だったっけ。女の子なのは覚えてる。」

 銀本は顎に手を当ててうんうんと唸る。

「喋った事はなかったよな。でも、僕らが駄弁ってるのをじっと見てたのは覚えてるよ。館長さんは娘さんたちのこと、話に出さなかったけど。」

「確かに、避けてるとまではいかないけど、好き好んで自分の娘の話はしなかったなァ。俺らがいつも使ってた部屋さ、廊下が見えるでかい窓があったよな。そこからよく覗いてた気がする。何でかは全然わかんねぇけど。なんか欲しかったんかな。」

「さあ。小さい子供の考える事は何も分からないね。」

「……お前さァ、まじで子供に興味ねェよな。変な意味じゃなく、こう、愛嬌というか。それは昔から何も変わんないわ。ちっさい子と仲良くできたほうが好印象だぞ?」

「要らないお節介だ。」

 銀本はよっこいしょと立ち上がって扉へ歩いていく。

「取り敢えず、まだ安静にしておけ。明日には退院できると思うから。その後は警察の事情聴取だろうよ。ちゃんと真面目に、事実を話せよ。お前、話に嘘を混ぜるのずっと癖だから、変に疑われるぞ。」

「はいはい。」

 銀本は、はァと溜息をついたあとピシャッと扉を閉めた。一気に空気が冷たくなって、無音になった。

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