k子の故郷日記(1)

昭和19年1月1日
珍しき晴天。麗らかな陽光。役場にて現役兵の壮行会を行ふとて父母は出席さる。
久しぶりに晴着をつけ留守をしつゝデカメロンを読む。決戦下に迎ふる元旦。
今年こそ反攻作戦に出でるといふ重大時局に幸にも故郷にかうしてむかへた事を先づ感謝せずにはいられない。

昭和19年1月8日
零下6度。昨日よりは暖たかといふものゝ寒さのきびしき日である。かげ膳の数の子すらカチカチに凍りつく有様。時々陽光を仰ぐ。
朝9時より4時までK司さん来訪さる。座する間なき多忙さが続き空しき一日を終る。大須賀さんに餅と鶏肉を送る。家の中でただかうして忙しく暮す女の一生をまだうべなふ事のできない私の考にはまだ欠陥がありすぎるのかもしれない。しかし私はそれを否定しえないのだ。
例の写真をK司さんにお願ひする。願はくはこのうつしえの無事凱旋せざらん事を祈る。

昭和19年1月11日
今日も忙しき一日なりき。三日がゝりにて母の仕事のあひまに教へられながらハンチャを仕上げた。朝食の際に珍しくも4年ぶりで小学校時代の友人、大連のTさんからの葉書をいただいてなつかしさ限りなき思ひでみたされた。
雪ははやくも2尺ほどとなり、方々で雪おろしまで行はれている有様だ。又来客が多かった。魚の配給も久しぶりにあった。何するともなく忙しく一日が過ぎ去る。そして私たちのはたらきはまるで縁の下の力もちで何のめだつ事もない。そんな事ばかりなのだ。私にはまだまだそんな空しい犠牲に徹しきれないかなしさがある。

昭和19年1月19日
昨日の忙しさにくらべてひっそりとした一日であった。十時すぎに台所の明るい陽ざしをおしみつつ昨日の縫ひものをはじめた。無事平穏な日であった。兄もスキーにでかけられた。今日も配給もので組長たちは一日中もかかったといふ事だがまことに大変なものだと思ふ。やはり針まで配給になった。だんだん物資も乏しくなり国民生活もますます緊迫して来ることであらうが真にがんばりぬかなくてはならぬと思ふのである。

昭和19年1月25日
朝から引き続いての年とりのしたくに加へての来客にあたふたとして昼に。
兄は11時のバスで尾去沢にでかけられたので昼はらくであった。昨日ついた餅もあちらこちらと散って行ってしまふので少しくさびしき事に思ふ。明日が旧では元旦とのことである。百姓では丁度この旧暦の方が彼らの行事として適合しているとかで今もまだそれが実行されているわけなのであらう。
2,3日前の東條首相の話に女子の徴用は日本古来の美点たる家族制度の破壊をきたすといふ見地から実施しないがそのかげにかくれていたずらに安逸をむさぼるものがあってはならぬことを説かれていた。私の生活は安逸ではない。しかし果してこのままの生活でいいのであらうか。私はおそれずにはいられないのだ。そのあげく何も考へずに素直な気持ちで働きぬかうとも思うのだ。
 
昭和19年1月29日
一月も残り少し。ぼんやりと考へこんで昼に。M敬さん来訪。十幾日かの間悪かった猫イカが死にさうで一家そろって無理に口を開かせて卵をつぎこんだりするが可哀想でたまらない。午後よりしばらく捨てておいた羽織の襟をつける。ものすごい孤独感におそはれて息苦しい様な夜だ。これからの長い人生をいかにして暮らそうかとも思ふ。

昭和19年1月31日
イカがまたまた悪くなったので昨夜からもう死ぬのではないかしらと思ふとたまらなく可哀想で胸をいためつづけて母も私も涙なしには見てはをれなかった。死の世界になかば以上足をふみこんで身体さへも自由にうごかす事もできず、よろよろに瘦せさらばうてもまだ私が教へてやった尾をふる事を忘れずにじっとその死の苦痛にたえている有様は何ともいはれぬ悲痛なおもひをいだかせる。
今日は又ものさびしい日だった。しかし元気に働いてこの上なかった。10時母は婦人常会にて国民学校にでかけられた。午後は父母がでかけられたので夕餉の支度やら縫ひもので過す。今日の話で今度の供出米についていかにして配給量を食ひのばすかといふ極めて深刻切実な問題であったとの事で、地主はたとへ保有米を持つからとてゆるがせな心であってはならぬとしみじみ考へた。

昭和19年2月5日
この幾日かはわが家にとって極めて多忙の日々であった。1日には供出米の引き出し準備とK司さん、T島さんなどの来訪にて母は人夫の手配やらあれこれでそれをむなしく手をつかねて見ている自分の無力さをすまない事だと思ふのだ。
2,3日の両日は米出しのために殊さらの大多忙をかさねた。十幾人かの人々の采配やら食事のための母の忙しさを見ながら眼を患ふ私は如何ともできなかった。はじめの日は師天、かめや、Kの3人に手伝ってもらったし、後はYさんに手伝ってもらって、私はそんな忙しさをまるで他所事の様に本に読みふけって暮らしたのである。2日に180幾俵かの米を出荷し大した馬力であったが、機械の音のきびしい中ですっかりそれに心身を捧げて働くその人々の力づよさをしみじみと思はせられた。

昭和19年2月12日
大分しばらくの間この日記にご無沙汰してしまった。来る日も来る日も米ノ供出で私まで頭を悩ましてきた。しかし10日に下ノ湯では250俵よりも18俵も超過してまず完遂したといふ事はめでたい極みである。8日には遂にイカが死んでしまった。あまりかわいそうでさっそく葬った。
下ノ湯では完遂したけれども他の部落ではまだまだの為に応援にたのまれるやらそれこそ深刻なものだと思ふ。縣や郡の役人たちが農民を集めて夜を徹してまで完遂を期している有様はそれこそ気の毒なものだと思はれる。
父母はこの数日間といふもの座る暇もなく督励して歩いてその苦心や難儀を思ふと勿体ない事だと思ふ。

昭和19年2月16日
朝方の晴々とした日光におどらされて午前中はひさしぶりでの洗濯に身も心も清まる様な思ひである。午後常会の配給にて大多忙を極める。又、昨年の様に愛国米を出し合うやうにとのお達しにて今夜はそのための婦人常会である。大湯も大体完納に近づいて来たといふ事であるが益々自重を要することでもあらうか。
何度目かの秋窓記をよみはじめる。近代のもつインテリの憂鬱がひたひたと胸にうちよせて来る様なおもひもする。

昭和19年2月27日
今まで待ちあぐんでいた男の子が生まれた。男の子が無事生まれたといふ尾去沢からの電話にて家の中が急によろこびにわきたった。男なら正、女なら○○と約二月も前からのこととして父母のよろこびはものすごい。初孫しかも男子といふので・・・。予定日の違ひから随分と心配していたが案ずるより産むは易しだと思ふ。幾日ぶりかの晴天、朝の温度も2度とか。

昭和19年2月28日
マーシャルの皇軍は軍属とも6500人。しかも音羽侯爵の御戦死にはまことに尊い極みであると思う。今日の大本営発表にて敵は又しても東京より2500粁のマリヤナ群島にまで来襲せしとの事。昨日の新聞にはすべての学校は工場や農耕のため臨時又は常時勤労に従事せしめ、女子の勤労隊も法制化してゆくといふ情勢に達したのである事が見えていた。マーシャルにせめ入られたのは土足で玄関にふみこまれたのだとも見えていた。
いつかの話がこんな日にこはれた。父母の気にもとめず事なげにいることがたまらなくかなしかった。

昭和19年3月11日
8時電話にて伯父が行きだおれとのしらせにあはてて救助の人々をたのみに狂奔する。雪まみれの人々にかつがれて力なくぐったりとおぶはれた伯父の姿がまことにあはれに思はれた。どんどんもしつけたストーブのそばにうつして私の新しいきものにきかへさせる。12時頃までごたごたとして暮した。
積雪はついに2尺にも及びしかと思はる。

昭和19年3月14日
つい2,3日前の嵐はまるで夢の様にストーブのほとりにはいたたまらぬやうなあたたかさだった。昼頃より新道のⅯ田さんが来訪され役場に手伝う様に頼まれたが何時ものくせでひっこんでしまふ性格をまことにかなしきものに思ふのだ。でもこのやうな時代にいきる自分の生活をふりかへり勇んで奉仕することと決心する。
在京の兄よりパンを送りしとの葉書をいただく。やはり兄弟だと思ふ。
母は一日中あるき暮している。師天に挨拶に行き下ノ湯をまはりまた午後より伯父を助けてくれし人のところにお礼に行き、そして夜はまたNと一緒に師天にお話に行かれた。
兄がいる満洲国黒河省山神府はロシヤとの国境まで4里といふ重要地点にあるため実に油断のならないところであるさうだ。第一期の検閲のすむまでは外出もゆるされなかった新兵もやがて満洲の地に若い生命をこころゆくまで味はふていることであらう。

昭和19年3月20日
出掛の雪となったが日どりを定めし事ゆえに尾去沢行を決行する。
乗物のもの凄いこと話にはきいていたが半年前とはあまりにもことなる為に全く驚いてしまった。泥上を難儀しつゝA沼さんのお宅につく。はじめてみる此の町は珍しい鉱山町といはれる様にきしる機械のおと、間断なく活動する鉄さくなど珍しいものだった。こんな中に戦の動きがあらはれているのかしらと思ふと胸のわきたつ様な気持にそゝられる。生まれた正はまだ人間らしいかんじもせず顔中を口にして泣きわめくのに愛想もつきてしまった。社宅は小人数の社宅としてはとても結構だった。人のものでもこんなにして楽をしてよい生活ができるならば又これに越したことは無いのだと思ふ。家にいるとはとんとことなる晴れた気分で幾時間かを過ごせて幸ひだった。

昭和19年3月23日
東京も私の居った半年前とはまるでことなり凄まじい決戦体制にきりかへられた事であらう。疎開々々で大わらはとの事を新聞などで見たりする度に実によい時にきり上げたのだと思ふ。Yさんも衣類など大切なものを頼みに来られたさうでもうごく身のまはりの物だけでどんなことがあってもいい様にもう心構をきめているのださうだ。かうなってみると物も何も有難さがなくなってただ生きるといふことが強く感じられる。生命のための物であり衣類であり道具なのだと痛切に思ふ。
セーターをあみ、漱石さんの小品に敬意を表する。こんなに俗人より一段高く住めたなら知に角もたたず、情に流される事もなく浮世を浮世として生きられるだらうに・・・。
夜7時より文化閣に於いて供出米完遂の慰安映写会があり「海軍」をみる。
豊田岩男氏の原作からうける感じとではその感激はうすいけれど九軍神の一人たる古賀少佐をものがたり、そこに烈々たる海軍の伝統や海軍魂をあらはしている点で大いに心をうつものがあった。

昭和19年4月1日
昨日兄上東京から帰らる。11時間も立ち通しでやうやく切符を入手されし由、
3日もかゝりやっと入手している人もあるとか。それこそ疎開だ何だかだでごったかへしている有様をきいてぞっとする。列車にのるにも馬鹿野郎とかなんとかの大さはぎをしてそれこそ戦場そのものの如しださうだ。いくら憲兵が剣をぬいておどしても群集の力は恐ろしいもので誰もひるむものはないとか、全くひどくなったものだ。
雪も大分とけはじめたので一生懸命になって雪はこびをして日をおくる。はるかながめやる黒森山も茶の山肌をあらはし樹々もみどりを一入ました様に思はれる。ほんとに春が来たのだとしみじみとした明るさを感ずるのだ。
食糧も極めて乏しい現状になったが土に生きるものゝたのしさをつぶさに体験してみたいものだと今から念じているのだ。

昭和19年4月3日
神武天皇祭
芥川のものなどに読みふけり実にその目のつけどころの特異さと鋭さに驚きつゝ昧読する。
2時ころ訪ふ人があって出てみるとそれは川村竹治さんの妹の千代さんとその令孫のお二人であった。もう70をこした方で祖母の従妹にあたる人でその性格なども十何年も前に亡くなった祖母が帰って来たやうな親はしさをさへおぼえるのだ。とても気さくで少しも気がおけない方だったし、孫も一高の3年生ださうであるがとても朗らかな人なので、それこそ兄と名コンビで大さはぎをして気焔をあげているので大変愉快であった。
竹治さんをあんなにするまで母代わりとなりあるひは女工となり、飲まず食はずで大学まで卒業させたといふ事をおきゝしてほんとにえらい人だったのだと思ふ。その後嫁がれてから37才の時に御主人に死別され12の男を頭に3人の子を女手一つで育てあげられたといふ事であった。話は次から次ときれないでねむったのは12時過であった。

昭和19年4月7日
今度の供出米のために農家の補正食糧としての雑穀の600俵までがすっかり取り上げられてしまって、それに対しての配給が円滑に行はれないといふ有様であり、それに費される働き手の労働力といふ点から見ても誠に寒心の至りである。今日はこの様な事情にある時に一般家庭としてもやはり協力するという意味から栗と米の交換を行ふなど誠に忙しい日であった。
再び芥川に耽溺する。

昭和19年4月9日
兄嫁は尾去沢からいよいよ東京に引き上げるといふので帰ってきてその忙しさ、煩雑極まりない生活を過した。ただたべることのために毎日々々足を棒にし、正は乳がたりないので乳をもらってのませるやらもうほとほと疲れ果てた。10日の間に百匁以上もふえてどっしりとなった正は、まだ50日やそこらだといふのに丈夫できかん坊で三つ子の魂からして湯坂の血を強くひいた負けん気のものだといふ事がしられるやうな子だ。ませてしまって笑ふやら話はじめるやら何十年ぶりの赤子だけにみんなのもてなしも凄いほどであった。ただ手をこまぬいて、ほら笑った泣いた目をあいた口を動かしたあくびをしたと、他から見たら頗る滑稽なほどにあやして抱くやらおんぶするやら、かうしてみんな育ってきたのだとつくづく思った事であった。

昭和19年4月22日
モンペと標準服を作り上げる。久しぶりでのよい天気で洗濯をしたり、畑を見たりする。何時までもぐづついていた気候もやはり急に老いてきて、もう春が来たのかしらと驚いてしまふ。処々に冬のなごりの雪が解けのこり、そのゆきの下にも青々と春の伊吹を吸って伸びだしている。水仙が出た、福寿草が、ふきのとうが・・・とよく乾ききらない大地のしめりを足のうらに心地よく味はひながらそゝろあるく心のゆとりも楽しいものだと思ふ。
増産のためにみんなこぞりたつこの時、ほんとに一生懸命にならなくてはと思ふのだ。

昭和19年4月28日
身も心も晴々する様によい日よりの半日を庭に出て大きくなった草木の芽をもの珍しくながめる。水仙やチューリップなども青々とのびて急激に春の成長を物語るかの様に思はれる。百姓たちの活動もそろそろ開始せられた。家でも野菜類をうえつけて例年より早い事だとよろこんでいる。午後よりK司さん来訪されて話がにぎはふ。そして大湯はおろか鹿角でもはじめてかも知れないといふ温床の初できの野菜をいただき本当に春そのものにふれるやうな何ともいはれぬうれしさを感じた。
だけでもうれしいありがたきことだ。
草枕をよむ。それから印象をかく。
マーシャルの戦況は元寇にも例へんものなりと報ぜらる。
 
 
 
 
 

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