k子の大学日記(2)

昭和17年4月13日
7時登校。一部は生田に移り新入生のものなれぬ様子がいやに目にたつ。私も三年になってしまった。女学校を出てまる2年、泣いても笑っても過ぎ去る2年間であった。よくこそ学びの道に志したものよとうれしく思ふ。クラスメートはまだそろはない。よる春よ、われに新しき希望を力を与へたまへ。
時間割発表、昼一年生との弁当の会あり。午後はじめての授業、教育と哲学とがあった。
久しぶりのこと故かなりくたびれてしまったが新しいといふことはいいものだ。よる春のよろこびをわかたう。版木のごとき日々も自分で改革できるものを....
 
昭和17年4月16日 
新宿7時集合。7時半出発で西生田行き。国文2年、及び4年の家政科の方々がもうこの4月から移転された西生田はどうであろうか。緑のこき山かげ、13万といふこの敷地の広大さを今更のやうに思はせられる。歩道の石畳も見事に着々建築の歩を進め三指を数える大きな寮舎、校舎も総合大学建設の礎としてまことにたのもしいかぎりである。新宿駅から30分、それから20分程山道を辿るのだ。なんたる静寂さ。山桃ナシの花ざかり。竹やぶも絵のやうだ。春の香りのぷんぷんとするうどと筍をおみやげにして帰る。今日の勤労や1年との親睦会、幸をたからかに唱和した感激を胸にいだいて
4時25分すしづめの電車にわりこむ。3時半よりものすごき雨、びしょぬれなれどさわやか。
 
昭和17年4月22日
朝1時限、鍛錬部の体操にて救急をなす。
なにかしなくてはならぬ。大いになすべきことが私の身のまわりに横たはっている。えらくなりたいと心のそこから叫ぶ。ほんとに力がわいてくるやうだ。生命の春だ。○○先生の英語も楽しいと思ふ。今日はじめてだけれど・・。
午後帰ってながいことかかって母にたよりをかいた。
相変わらず多忙でおひまわされているであらう両親の生活を思ふ時、無為にすごしてはまことに相すまないと思ふ。
夜中変な夢で苦しめられた。学校をやめて結婚しろと父母が云ふ。どうしてもやめないと私はがんばる。他愛もないことだけれど学校に対する愛着が夢にまであらはれたのかと思ふとおかしいことだ。
 
昭和17年4月26日
21才のわが生まれ日なり。20年といふ月日がまるでゆめの様にすぎてかうして帝都によき今日の日を迎ふる。感慨一入なり。人生の何分の一かを無為にせしことの情なさ。人たる以上何かしなくてはならぬとただ功名心にもえる。それを考へるより先に内容の充実を計るべきであるのに。積極的であれK子。正しきことに強く生きぬくのだ。
幾月ぶりかで赤羽に。久子さんはお留守だったけれど皆様歓待して下さる。今日は着物で出かけた。美しい人はフンとするし、醜い人々はいじわるくじろじろと見る。女性心理をあらはにあびせかけられる。
 
昭和17年4月27日
むしあつさやらん方なく、二日の休暇にのびた身体や精神は活動停止の状態だ。
学部瞑想会は4年の方々の日本精神についての発表であったがゆめうつつ。新学期からこの始末とは情なや。哲学は1時間のみ。その間の1時間いろんな事を話した。戦争のことなどとくに自分たちの上にかぶされてくる任務といふやうなのと連関して考へさせられた事であった。ノート、ノートで
一日終わってしまった。あすは西生田行きなれど・・・。
 
 
昭和17年4月29日
天皇陛下には41回の御誕辰をお迎へ遊ばされし由、謹みて弥栄を寿ぎ奉る。昨夕よりの雨は止みたるもどんよりとした空もよひは人々をして今日の日を案ぜしむ。観兵式もつひに御取やめと決定す。惜しまるる事なり。8時半の祝賀式に参列す。午後神田一ツ橋の国民体育コートに排球の早慶戦を観る。○○さんの級友の三木さんと御有る方の会員券をいただいたので早大を応援してあげた。そのためか?大勝。5時頃終了。靖国神社の人出のすごさに少し気分をわるくして帰る。
 
昭和17年4月30日
今日で4月も終わりを告げんとしている。又実倫をさぼって護国寺から雑司ヶ谷を逍遥したが実に楽しい一刻であった。夏服をたのみに入ったバリスのかんじのわるさ。都会ってこんなものかしらとうんざりしてしまった。でも憤慨はやめた。してもつまらないから。
衆議員の選挙日、投票所の長蛇の列。人々の流れよ、ああこの中に力強きあすの歴史が展開せんとしているのだ。
 
昭和17年5月3日
帝大の公開日。叔母様は見合はせられる事となった。近所の公衆電話で兄に電話したらもう出かけたとのこと。私一人ででかけたがお茶の水の雑踏すさまじきものである。兄弟や知人を帝大生にもっている人がいそいそとしている。待つ事40分、兄は叔母様をおつれしたとのこと。叔母様すっかり御気分わるし。ハイヤーで赤門から兄の研究室へ。大分休んでそれから叔母様をきづかひながら、そろりそろりと見学した。こんな雰囲気の中に私も学ぶことができたらなあと考へさせられた事であった。
 
昭和17年5月5日
頗る運のわるき一日であった。今日は10時始まりの事とて9時すぎにえきに行ったのに40分もまちしかも豪徳寺のむかふで事故のため渋谷回りをしてくれと申しわたされたのでやっと出発したといふ次第。樺太の叔父様が公務出張で今朝上京されるので、花を求め室をかざり克明さんに電話をたのまれてもこれも失敗。遅刻でうんざり。班会弁当の会で班誌の事について相談して午後休講のため一人しょぼしょぼ帰る。叔父様は軍人さんらしく豪放磊落で愉快。顔つなぎの夕食会が8時頃まで。10時過ぎ克明さんがいらして又話がはずむ。くたびれたけれど加藤完治先生の訪欧所感をよみはじめた。うるところが大いにありさうだ。
 
 
昭和17年5月10日
10時過ぎ○○さんと浜松町の恩賜園コートにでかけてしまった。なれないところでうろうろしている中に1時頃丁度2:1で早稲田が慶應に敗れたところについてしまった。はじめの二試合はつまらなかったけれど、次の早大と立大はまさに手に汗にぎり三木さんの奮闘を祈る。今日の彼氏はスバラシイ。あまり私が早大を応援するので○○さんにひやかされるほど。△△さんから三木さんに挨拶するやうに云はれているけれど心臓が弱くてだまって帰ってしまった。
 
昭和17年5月14日
9時より40周年の祝賀式が挙行され、まことに女子大に学ぶ我々として光栄ある一日であった。
午前中は音楽会、午後2時より運動会。みんなみんな一同の趣向をこらしたものだけに十分に楽しめるものであった。記念として陶器製の文鎮をいただいた。白地に藍で中央には講堂と桜楓。
そしてふちには成瀬先生の筆になる三大綱領があざやかにえがかれている。紅白の餅。西生田の米で西生田の人々が午前3時頃からついて下すったといふ。思ひだすと何もかも幸福な私だとつくづく考えた。小さな一個の感情に、あまりかかづらってはならない。思ひ出の一頁よ。若き日の一頁よ。
永久にわすれまじ。
 
 
昭和17年5月16日
西生田行き。橋田文部大臣をこの地におむかえしての勤労作業はめでたく進行してゆく。
朝8時より大豆播種にとりかかり一心不乱に行う。緊張しているためかしら。つかれも何も征服して。なくホトトギス、蝉の声、緑々々。11時20分に作業をおめにかけた。いかにお考へになったかしら。文部大臣ははじめて寮舎や校舎をながめた。まだ木の香もまあたらしく設備は完備しているし、いいことではあるが、やはり目白の地はすてがたい気がする。12時よりの橋田大臣の訓話は講堂に入りかねて残念な事であった。きくところによると、女は女としての本分をつとむべきで勤労もよし防火も救急もよいが、あくまでその本分を忘れるな、との事をおっしゃったさうである。実に真をうがたれた敬服すべき方であると思ふ。
 
昭和17年5月19日
2時から川田順先生の「戦争と和歌」と題する御講話を拝聴する。
大要・・・平和が人間の求めんとする原則である故に戦争が文学の対象とされることは珍しい。上代からの戦争の歌の歴史をながめるに戦争の歌と称せらるべきものは数へるほどしかない。之は古来和歌は優にして雅なるものと固定されていたがためで、現代に至って和歌革新の声と共に戦争の歌も漸次よまれるやうになり、就中、日支事変の歌集は 深く広くなった和歌の理念を示現しているきはめてすぐれたもので、後世に伝へられるであらう珠玉である・・・。
ねむっていた私の歌心もよびさまされるやう。三越で傘を買ってしまふ。21円20銭なり。
 
昭和17年5月22日
面会人のため事務所にゆくとドキリとした。国民服と早大生と二人いるが・・“暫く”と云はれてアット驚いた。従兄の竹之助さんが帰還され又、新京の会社に赴かれる途中立ちよって下さったのだ。
上京以来まだ一度も行ったことのない武蔵小山の叔父様のところにムリヤリつれだされてしまった。いくら姪でも無沙汰ばかりしているとつまらないものだが、次々といろんな事を話している中に、やはり血のつながりは恐ろしいもので非常にあたたかなものを感じた。兄もやってきて話に花がさき数時間をすはりつづけたが、生活の相異が兄弟でもきりはなすといふ事は真理だと思ふ。そして私のめぐまれていることをシミジミと感じる。生活に追われてゆく事は恐ろしいものだ。この従兄でなければ云ってはくれないと思ったことをズバズバと云はれ私も真の私にかへってくつろいだ。
 
昭和17年5月24日
10時まで漢文を勉強しそれから大木戸の喜多能楽堂に観能にでかけた。○○さんとその友達の方と偶然おあひしたので幸と御一緒した。日本古来の伝統を足のふみ方、手のさばき方、その一つ一つにうけついでいる偉大さ尊さがひしひしとせまりくるを感じうれしかった。この道に志す人々であらう、その人々の精進のたふとさよ。うらやましいものだと思った。「熊野」は1年の時、謡曲文でならったものだけになんか親しみ興味あるものに思はれとうとう最後までみつづけた。
 
昭和17年5月25日
瞑想会は4年の方の司会で3名の諸姉の短歌についての所感の発表があり。ことに坂本さんは歌心と題して新人として堅実な歩みをすすめて居られる御自身の体験を語られるが故に切実にひびきくるものがあった。きびしくきびしく私の怠慢をいましめる何かの叫びのある事を恐ろしく思ふ。この道に生きんとしながらあまりに情なきわが毎日にあきれはてて手を出しえないみじめさよ。
放課後○○さんとおあひする。ユーウツと云ふけれど相かはらずの朗らかさ。二人でアザミを買ふ。
 
昭和17年5月27日
誰かの文句ではないけれど私より一日たりとも生きのびて他の人に何かを与へてくれるなら、この日記も甲斐あらうが、これをつらねてゆく私の生命をすらある意味で表明しえない。この日記をひたむきにかいている自己の微弱さを思ふ時、かきむしられるやうな衝動を感じる。お前は何をしているのだ。何のために生活し、何のために学ぶのだ。宇宙の偉大さを思へ。そしてその中の取るにたらぬ人屑のお前を・・・。ややもすれば享楽的に陥る自分そして周囲の人々。私は聖人にならうと云ふのではないが人間として女としていかにいきるべきか。一生かかっても尚疑問かもしれないが。
 
昭和17年5月30日
昨日の父の手紙で京都の兄の第二乙合格の事を知った。在学中に応召されるかもしれないと云ふが大きなもののためには個人的な感情はすて去らなくてはならないと思ふ。せめて卒業してからと思ふ感情の方がより強いのだけれど・・・。自分の与へられる境遇それでよりよく生きぬくべきだ。
情熱奔放の新時代の歌人として一世を風靡した与謝野晶子さんが昨日なくなられた由を朝刊で知った。新しい時代の原動力となられた人を失ふことはかなしくもあり淋しい事でもある。
叔父様は明日大阪に御出発の由。とりのたつやうなあはただしさ。軍務とはいひ、おきの毒なものだ。妻子ってこんなにひきつけるものかしら。忙しい中でもかうして訪ねてゆくのだもの。
 
昭和17年5月31日
朝、荒瀬の叔母から故郷の筍が送られてきた。上京来はじめての事なればその味はひのよさ、うれしい事であった。
叔父様午後1時半大阪へ御出発のため東京駅に御見送りし、その帰途とうとう浜松町によってしまった。○○さんもいらした。早大をいかに応援すれどもだめ、帝大が制覇をにぎってしまった。6時半帰宅。明日は友人にひやかされるさうな、若い時って楽しいものだ・・・とも思ふ。夜Mさんの姿の中にはAさんに似たもののある事を思ひだす。
 
昭和17年12月26日
帰省二日目。今日も何の事もなくお台所の手伝いをして終わってしまった。幾分なりとも母をたすけるといふ事のよろこびで私は一人で有頂天になっている。京都から帰省した兄も加わり、お餅つきも終った。常会の仕事も忙しいとは云ふもののこれも御国への奉公だ。忙しい忙しいでかうしてその日その日をすごしてゆく父母の生活はいたましいとさへ思ふ。随分私も甘いいいかげんな生活をしてきた事はいなめないけれど、その時その時で自らをかへりみることのできるといふのも女子大に学ばせていただいたおかげだと思ふ。ほんとに私の身についた学のたまものに他ならない。私はやはりめぐまれた人間なのだ。お前たちが帰ってきた時だけでもといふ母の心づかひに涙ぐましくさへなる。平凡で幸福な一日をすごさしてくれる故郷はありがたいものだと思う。

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