k子の大学日記(1)

昭和17年1月14日
○○さんから宝塚の切符をとっていただいた。之は24日の土曜日のものだ。ただ漫然としている私なのかもしれない。だがこのくらいの慰安もゆるされてもいいのであろうなどと勝手な事を考へたりする。段々家の事がうすれて行く。思ひ出してははっとする。
お母さんが又お忙しく働いていられる事であろう。あの御難儀「でも美しい着物も何も欲しない。私には心の袴がある」と云われた、あの言葉を思ひ出す。精神的には人知れない苦労をしてきたこの人だ。人一倍の勝気がここまで進ませてくれたのだ。でも私たちが人間らしくなる事が唯一の楽しみなのだ。人の親として誰しもの事であろうが母の場合にはそれは他の人の近づけないほどもっと崇高なものを感じさせられる。ありがたきかな。
 
昭和17年1月26日
世の中も随分恐ろしくなった。漱石さんでないがこの世がすみにくいからとて人でなしの世界に移民する事もできない。千歳橋の近くの鳥屋は今日も肉が豊富だ。たちよると売切れだと云ふ。トーチカを発揮して明日とってくれといふと公定で買ふ人や高いと云ふ人には売らないと当世の商人の御託宣を長々とのべた後百匁2円50銭の鶏肉にやっとありつけた。とにかく手に入っただけ仕合せと云ふものだろう。目黒では今市場にないものをもってきて暴利をむさぼる商人もあると云ふ。佐山先生が高島屋の食堂で当代まれにみるしとやかで気がきいている給仕人に会って声をあげて泣きたいほどうれしかったといふ話をされたが共鳴出来る心理だ。
母からなつかしき便りをいただく。お母さん早く家に帰りたい。
 
昭和17年1月28日
拿捕船舶を輸送船として台湾の砂糖を今までより6,7割増配すると云ふニュースで目がさめた。
我ながらかつれているなあとおかしくなる。
いよいよ来月から衣料も切符制点数制といふ事になった。あまりの電撃戦に何一つ買ふでもなくこうなったが又々12月1日の二割税をましたときのやうにデパートなどへ殺到したといふ事だ。三越だけでも20日あたりの売上で30万円といふ事になったさうだが口には大東亜戦争云々を云ったとしても何たる呆れた奴らであらうと思ふ。これが都会ものの心理なのかもしれない。
 
昭和17年2月2日
昨日の雪もとけそめてひどいぬかるみと化す。午前は三宅哲一氏のジャバの事情と題する南方講座を伺ふ。きはめて有益なり。午後は皆休講となりて早く帰宅す。昨日の国史の不審な点を書き改めて入浴す。石炭がないから此の頃は銭湯におしかけ、芋虫をあらふやうにすごい。本郷では風呂が始終休みでこまると兄がいつかこぼしていたが、こちらは之でもまだ我慢どころかもしれない。いろんな事に時局の反映はいちじるしくなってくる。でも昨日からの衣料切符はあまり濫用する人もなかったと新聞にかかれてあったが、うれしい事だと思ふ。
 
昭和17年2月3日
4時ごろ鈴木さんが帰られ、おみやげの柿に舌づつみうつ頃に突然荒瀬の叔父が訪ねてくれた。国民学校の先生を先導しての工場視察の途中との事。6時ころ嬉々としてお伴をする。渋谷から上野へ地下鉄にゆられる久しぶりの夜の街々のまぶしさにおもはゆく感じながらゆられる。米久で牛鍋にはま鍋、サイダー、カルピス、クリームと満腹しいろいろ話こんだ。いよいよおわかれといふとき、今まではしゃいでいただけにたまらなかった。
 
昭和17年2月5日
今日のクラス会では人々の動きといふものが知られてうれしかった。今学期はこんな機会にめぐまれなかったが、はじめて近頃の感想といったものを題として〇班の方々が司会された。最初○○サンが文芸学について佐山先生のお話をもち出し、この時局に古典をひもとく事は往々にしてあやまれりとする世人の評こそあやまりである事。研究態度はいかにすべきかについて話された。大分問題になったのは文芸学であった。美学と社会学を総合しなければならないといふ説や文芸学は文学の鑑賞にありといふ説いろいろあったけれど実際むずかしくて自分だけがどこか他の世界からぼっとながめているやうですまなくさへ思った。結局において之はうやむやとなり岡崎義恵氏の日本文芸学を読んでから再検討といふ事になった。
○○サンたちとわかれてとぼとぼと自分といふものを考へつつ目白まであるいた。ふと見上げると川村の広壮な邸宅。之も私の親戚だったと変な気がした。
 
昭和17年2月11日
雲多く日本晴れとはいはれないが、めでたく紀元の佳節を迎ふ。
2602年、歴史的なこの輝かしき大御代にして、その昔をしのぶとき、一貫してながれる皇国精神を彷彿として思ひおこすとき、胸をうごかす大きな民族的な血のたかなりを感ずるのである。校長の訓示の中、特に感銘をおぼえたのは天佑についてと東郷大将の「訓練に制限なし」といふ事であった。
横の会と南方講座をサボって早く帰ってきた。夜8時45分臨時ニュース、今朝8時皇軍はめざすシンガポール市の一画に突入したといふのだ。やったな。ほんとにやって下さった。2602年のむかしの八紘一宇の精神がそのゆかりの日今日にして示されたのであらう。アナウンサーの声さへふるえる。今朝の赤飯も二重のお祝ひとなった。何月ぶりか自家風呂に入る。
 
昭和17年2月18日
午前11時より祝賀式が挙行され正午マイクをとほしての東条首相の発声で大元帥陛下の万歳を唱えまつる。午後ニュース映画、音楽会があった。わが落下傘部隊の戦史上かくかくたる武勲を記してこのニュース落下傘部隊は涙なくしては見られないものであった。
3時半より旗行列。わがクラスはわずか27人なり。今日のこの日をなんとこころえているのかと、その境地がうたがはしくなる。学生のだらくを叫ばれるのも何ともいはれない事だと残念に思った。
つかれて帰ると家より情のこもった餅タマゴの鉄道便、すっかりうれしくなる。つかれをおさへて倫理をまとめる。
 
昭和17年3月1日
新しい希望にもえてこの月をふみだす事のたのもしさよ。
午後久方ぶりに兄が訪ねてきてくれた。何ともいへないうれしさだった。帰ってしまったあとのあの寂寥さは又何ともいへぬかんじだった。やはり私はさびしがりやだとふと思ふ。今日満洲建国十周年をむかへてラジヲは一日中奉祝をさけぶ。
兄が上級学校の事をいろいろ話してくれたけれど、私は自分の能力のなさを強くかんじはじめている今になってはとてもおしとほす事もできない。遠いゆめの世界のやうなきがする。私には他にもっといきぬく道があるのではないかしら。ねながら明日の実倫「大東亜共栄圏に対して我は何を貢献すべきか」を考へたが、結局うそにもあれ書かなければならない事はくるしいものだとおもふ。
 
 
昭和17年3月5日
8時5分、突如空襲警報が発令される。折しも校門をくぐったばかりの私、途中で一緒になったクラスメートとひたはしりに教場にとびこむ。皆の顔は緊張しただならぬ様が見られる。不気味なサイレンが朝のしんかんたるしじまをやぶり小雨のふりしきる空をぬっていく。本校の創立者成瀬先生のお宅の警備となり、防火用水を汲み万一の場合にそなへる。十数機かの戦闘機がかさなりあった雲間をぬって飛翔し去った。大東亜戦争初めての空襲警報であった。
 
昭和17年3月15日
もう今夜は出発だ。歓喜に胸がたかなってくる。忙しい事、忙しい事。本屋に運送屋そして目白鬼子母神。上野松坂屋で買物。おまけに地階でならんで大阪寿司を手に入れ切符を購入し、地下鉄で渋谷に出たのが4時頃であったらうか。7時頃叔母さんにおわかれを告げて駅へといそいだ。軽い軽いボストンバッグただ一つ。之をかかへてうまく席をとる事ができたらもう故郷へ故郷へと走るのだ。駅は警戒管制のしづかさにひたり閑散なものであった。列車は北へ北へとひた走りゆく。明日はもう故郷の土をふめるのだと又々たかなるむねをしずめるのに一苦労である。今日はしりまはったつかれが出てかねむりこんでしまった。
 
 
昭和17年3月16日
盛岡についてみれば例年とことなり雪もなく、からりとはれわたり南部富士が白銀の頂きを雲間にそびやかしているのがこの上なく神々しく又うつくしいと思はれる。好摩で乗りかへて奥羽分水嶺をこへると裏日本はまだ雪も深々として故郷に近づいてきた事をおもはせる。毛馬内で一時間ほどバスをまち、我が家についたのは后1時過であった。京都の兄も九日に帰られた由でまっていてくれた。毎日ゆめにみたなつかしの故郷。父母のあたたかい膝下にこれからの日を悠々とおくれるのだ。おまけに烏賊の大好な子猫をもらってきていたので、兄と二人で子猫をいじったりおしゃべりで一日をくらしてしまった。
荒瀬の叔母様がみえられた。あひもかはらずご多忙らしい。
 
昭和17年3月18日
お彼岸だといふので大鍋に小豆を煮たてお団子つくりなのだ。山口さんからおしへられて私もつくってみた。熟練を要するものだ。私も女らしい感情をへたらかして、すっかりうれしくなってしまった。
味はまあ我慢のしごろ。この時勢ですもの、ぜいたくだわといふ事にして大さはぎ。突然大きい兄さんのお帰りで家の中が上を下への大さわぎ。あのはしゃぎやの兄貴を迎えて我々二人も大よろこび。家なりがすると父母は笑ふ。やはり故郷はいい。やみがたき郷愁になやんだ小さな自分のホームシックもいつかしら淡雪のやうにとけさって陶然たる気分にひたる。
 
昭和17年3月30日
京都の兄も出発してしまった。父母や長兄はお見合で出かけていった。あとに残ったのは私と山口さんとアキとチャーコだけだ。大きな家に唯一人いることはさびしいものだ。チャーコもさびしがってか支那民族のユーモアを一生懸命よんでいる私にとびかかって始末におへない。
5時頃三人帰ってこられた。首尾はわるくもないらしい。次兄にもたせたあとの御寿司を御馳走してあげる。父は郵便(親戚)の出征祝に、母は阿久土(親戚)にお祝いにゆく。兄は一人興奮して二高時代の歌を高唱する。ああ私も男だったら・・

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