k子の故郷日記(4)
昭和19年10月31日
秋の陽ざしが此の6畳の茶間に入りこんで独居のま昼間は静かだ。
嫁いで6日。生活がまだ軌道にのらぬ故か、私はまるで胸に物のつかへた様な気持ちでいる。あんなに物を書く事を大切にし、何時生命の絶ちきられる時があらうとも唯一のたよりとしていた生命の記録をすらふりすてうる平々凡々の女、妻に私はなって了った。二十三年養はれた肉親の膝下を離れたった二人きりの生活。結婚はいろいろ考へさせられ教へられる事だ。
昨日、彼は初出勤、遅刻。
昭和19年11月3日
明治の佳節。大帝の偉業いよいよ燦として国威の弥栄を祈る。
新しい章旗をたてしわが家と定まりしこの尾去沢の社宅、感無量。子供たちと遊びながら午前中を過ごした。
かんだんなき鉄柵のきしり、製錬の煙。紅葉の鉱山町。何もかもがもの珍しい。
そして何もかも文字に克明に止め度いと思ふ。
昭和19年11月11日
わけもなく月日が過ぎてゆく。最低生活もよろこびとまではゆかなくとも、ある諦観的なもので享受しうる様になった。
朝は七時十五分前に出勤させる。そのあとの掃除。九時から四時まで思ひのままだ。
昭和19年12月14日
彼と結婚して四十日と一寸になる。
連日の東京空襲。それによる疎開問題が私たちの僅かの間の平和をうち破ってしまった。今度は本社転勤。今の情勢よりして私は一まず実家に返される事になるであらう。
ちょっとの間に冬は訪れて尾去沢の町は山も谷も民家も一入の寂しさを加へた。
この間、従兄の結婚式によばれて十時過ぎの夜道をとぼとぼと歩いたのだが、おちこちに点在する鉱山の灯がやるせない涙をさそってならなかった。わづか四十日のゆきずりの土地には過ぎないけれど、やはり父母を離れ兄たちをはなれ生家をはなれてのはじめての人生修行。尾去沢は私に忘れえぬもののいくつかを止めてくれた。
昭和19年12月23日
生活の乏しさといふ事がこんなにも私を困却せしめようなどと私は考へえなかった。実際につきあたってみて今まで自分が如何に恵まれ過ぎ我儘すぎたかがあまりにもはっきり知られる。
四百五十円のボーナスはかれこれとひかれて二百四十円ばかり。その中、二百円は貯金しあと半分づつとして二十円が夫の私へのおくりものとして与へられる。
ささやかな私たちのたくはひが五百円になんなんとしている。後に来るものの為にこのくるしみは味はせたくないと切に希ふ。
昭和19年12月24日
配給当番のため購買に行く。えび一人当三十匁とのよし。かなりの手かごの重さ。はかりにかけて袋にわけて知らせに廻ったりして帰ったのは十一時。
父よりの手紙にて食料をとどけてくれることや婚姻届の事が書かれていて、たまらなく家が懐かしまれる。道程をよむ。
あどけない顔だと彼が云ふ。小さな可愛らしいからだだと彼が云ふ。
でも私は23才の奥様なのに。
昭和19年12月25日
やはり刻明な生命の記録をなげうってはならない。
月並な言葉だけれど新婚生活やはり楽しかった。若さ、たのしさ、この一時をそのままストップさせたい。そんな衝動にかられてせつなくなる。
二ヶ月になんなんとしている尾去沢。朝毎に見し四周の山々。雪に彩られし鉱山の起伏の線。ゆきに埋れたみちのくの大地の恵を彼とともに迎へるよろこびをひそかに胸にいだきしめていた私だったのに、たまらないものが身をつつんで来る。空襲下の東京へ一年をへて再び帰る。考へるだけでも悲しくなるけれど、じっと耐え忍ばねばならぬのだ。
昭和19年12月27日
外に出ることすら嫌になる雪の一日。昨日からのつづきの「父としてのゲーテ」をよむ。感銘深し。風呂をたく。
いよいよ物資欠乏し心淋きものあり。一滴の醬油もなし。味付けの術なし。
昭和19年12月28日
今年は雪が早かった。そしてもう三尺にもならうとしている。今までついぞした事もない雪除まで私の手にゆだねられている。むごいまでに吹雪く雪よ。卍となりてたける雪の精よ。
3時過ぎKさんの奥様が御見舞とて御立寄り下さる。たべものなき夕餉のさびしき事よ。
みね子ちゃん夕刻より遊びに来て夜送り届ける。4才とか、やはり子供はほしいなあとひそかに思ふ。
昭和19年12月29日
2キロの御餅が運ばれた。
生れてはじめてみた2キロの餅よ
色くろく 藁くづの2,3本 いとささやかにまつはりつける
はだ柔く ぬくときかほり わが思ひ いつとしらねど ふるさとの かやぶきのもと 父母と共にむかへし 去年の新春 そぞろ偲ばる
(これで「k子の故郷日記」を終了します)
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