k子の故郷日記(3)

昭和19年7月6日
正の体育検査、優なりしとか。一日毎の成長ぶり、そして知能のもの凄い早さなど親馬鹿に非ずして叔母バカなりと思ふ事あり。
午後尾去沢の一さん来訪されしとの事、にはかにあはてふためく。
気楽でいゝ方、とても好きだ、清潔さは清き流れを見る思ひして。現実はより大きな力をもって過去を支配しうるものだ。胸にいだきしめていたはかないイメージがぱっとした現実の姿におきかへられて、それが次第々々にこさをましていく。果してはかない虹ときえさるのかしら。可愛相なあの人が、あまりにも薄命だ。でもこれが運命なのかもしれないけど。
こんな田舎者でもよろしくたのむといふ母の眼に涙あり、いたましき哉 。
 
昭和19年7月9日
毎日何をして暮していらっしゃるの、と帰り道でお聞きになったけど、とうとう笑ってお答へしなかった私。だって私お手伝と勉強とお仕事と極めて時局的な活動的な毎日なんですもの。学校をでた時は、半年も家で女の仕事をなれてあとは先生か又他のおつとめに出かけるつもりでしたけど、とうとうずるずると家の多忙さにひきづられて今になってしまひました。でもこの九ヶ月は私をかなり大きなものにしてくれた事は事実です。今日は啄木の小説をよみました。刑余の叔父などいたましいと思ひましたわ。
 
昭和19年7月11日
あなたは恋愛をなさった事がおありになるかしら。お見合いだけはかなりなさったらしいわね。もしあなたが私をお見すてになったら、恥も外聞もありませんわ。あなたのふところに飛びこんでゆきます。女は可愛相よ。学問だけで自活するのもいいけど。一目みた時からわたしは今まで誰にもかんじた事のないときめきを覚えて・・・。私ゆめだけをえがいてはをりません。実生活それは甘美な世界でないといふことも知ってをります。でも私はあなたのためならよい妻になりたい。ぐちをいはず悲鳴をあげず、どんな苦しさにもめげず恐れず前進しましょう。
 
昭和19年7月13日
一さんのお手紙が舞ひこんで来て私の心をただたのしく有頂天にしてしまった。こんなに朗らかに愉快な人物と遭遇しようとは夢にも思はなかった故か、よろこびも大きい。我ながらあきれる様な強心臓のお返事を上げておかしくなる。
策のない単純な人間だと自らを云われるよさ、私はあなたのそれを一番尊敬していますものを。私もただ明るくそして幸福ないさかひのない家庭をつくりあげたいと思ひます。それと共にやはり奥床しい深みもたゝえる事を忘れずに・・・。
 
昭和19年7月15日
わづか一月前に知った人に私の心身を捧げると決心するなんて不思議だと思ふ。
妻として生きる事をすら否定し嫌悪していた過去を有する私だったのに、それは負け惜しみや自己欺瞞でもなかったはずなのに・・・。あの方は私を女としてだけ私の値打ちをみとめてくださるのかしら。それとも気まぐれにまあこのくらいの處でといゝ加減の妥協をなさったのかもしれない。小説は数多く読んで来たが今頃になってかなり小説に読まれている私を多々見出す有様でもある。
大掃除をして洗濯をして裁縫をしたら一日が暮れた。来たらん日々を胸にえがきつゝ安けきねむりにつく。
 
昭和19年7月16日
二度と帰り来ぬ十八才のあの頃、あんな唾棄すべき者に自己を無視して親のいふままに嫁がねばならなく運命づけられんとしていたあの頃。教養も人格も何もなくただ金権のみがすべてを征服しうると考へていた彼ら。私は弱かった。おもくるしい圧迫と反感そして別れ。深い痛手を私は負はされていた。私は幾重ものかたいからにつゝまれて傷つくまいとして冷静そのものをよそった。恐ろしい孤独になやまされた。誰とも結婚すまい。世の中をすねていた私の前にまるで違った世界から一さんがあらはれた。私の心はすっかりぐらついている。私は永年の悔恨から救はれるのだ。ありがとう。明るく生きるよろこびに私の胸は躍る。
 
昭和19年7月17日
母は2時より腹痛にて物凄く苦しまれた。5時頃医師を迎ふ。気候のための暑気あたりとの事。お母さんが万一の事でもあればとボロボロ涙が出て来るなんて我にもない事だ。葡萄糖と腹痛止の注射で大分楽になられたとの事。くず湯とおも湯を上げる。
M 敬さんは23才を一期として戦死されしとの公報ありし由。云ふ言葉をしらぬ。お別れしたのは先月の11日の事。任地への帰路の事でもあらうか。生きてはお目にかゝりませんと悲壮な決意を眉宇にただよはしてぐっと胸をえぐられたあの日の事がものかなしく浮かんでくる。幼い時からよく知っていたひと故にかなしみも一入だ。あんな可愛ひかった坊ちゃんがわづか1,2年見ぬ中にすっかり変わって、おそろしくてまともに見られなかった事など思ひ出す。一人息子をなくされた両親の心中いかばかりか・・・。
 
昭和19年7月18日
ブールジェの“姉妹”をひろひ読みして印象をかいた。雨はものかなしくも私の故しらぬノスタルジャをかきたてる。
新京の計理学校に来してふ次兄と、新屋浜にてタコ部屋の連中と水汲作業のため四斗だるをかつぎいるといふ長兄の事など偲ぶ。
私は情にもろい。それなのに愛する事を恐れていた。冷淡と見える様に行動して来た。愛しはじめれば火の様に激する事を自分自身知っている。今私はどんな障壁をもこえて胸の灯をもしつづける事だらう。
 
昭和19年7月20日
やうやく平衡を保っていた私の心が母の唯一言で大地にもんどりうってたゝきつけられる。根性がくさっている、性格が悪化している。そしてお前の我儘な性格が大切な人を不幸にするといはれた時に、私は母が私のためを思って痛いところを忠告してくれたのだと感謝しつゝも涙がとめどなく流れて来た。あの方を不幸にする・・・その言葉は強く私をせめた。おことはりしてしまはうかしら。でも私には出来ない。
霧雨がまだ降りもやまず茅屋根にしきっている。そゝげ、私を浄めてくれるまでに。白い雨粒を無心にみつめる。
そんな私を急に明るくして下さる一さんからのお手紙。こんな愚かしい私を信じて下さるお心持。自分を信じろと力強く叫んで下さる。有難う。どんなにしても私は明るく素直な幸福な家庭をつくりませう。
夜、東条内閣瓦解、大命は米内、小磯の二大将に降下すといふ。時局のますます多端なるを知る。
 
昭和19年7月23日
胸おどらせ涙しつゝ朝より“姉妹”と“母”に耽溺した一日。妻として母としての女のいきゆく喜びやかなしみや悩みがあまりにも様々に表現されていて、私はそこに私の内なるものを貫き尊くも綴られし真理の姿をまざまざとやきつけられる。愛している、それだけが結婚生活のすべてではないといふ。私はあの方を幸福な家庭人としてあげねばならぬ。いくら明朗なあの方にも孤独もあらう、寂寥もあらう。まして時代の大涛の最中ををゝしく前進々々する人であってみれば・・・。多感で陰影にとむ私が果してあの方を慰めてあげうるかどうか、小説的な空想にふけった。
閣僚の顔ぶれ22日に決定の由を新聞で見る。
 
昭和19年7月29日
雨をはらんだムンムンたる夏の空気をゆり動かして雷鳴、電光のその凄さは爽快な自然の魅力だ。その後を追うかの様に足早にかける雨が家を樹々を大地をこっぴどくたたきつける。一瞬にして煙にとじこめられた緑の山々の影が白い雨の太い強い線の彼方に薄漠としてこもっている。木々はゆれる。池は数しれぬ白い波紋を躍らして雨を吸ってゆく。吹きつける一陣の涼風。夏日亦楽しみあり。
身体の倦怠も解消。午前中“妹の力”を読破。午後よりぬひものに専念せり。
 
昭和19年7月31日
暑気あたりにて体のだるさ。
昼近く思ひがけずに小泉氏来訪。6月より来訪されるとの由であったがあまりにものびのびのため此頃は誰もあてにせずにいた事とて大いにあはてる。戦局や東京の有様などをおきゝして時を過す。此の間の八幡の空襲など2千人からの負傷者なりしとか。いろいろ考へさせられる事のみ多き此頃となった。H子さんも挺身隊に加はりし由に今更の如くおどろく。あの有閑令嬢もやはり国の大事に奮起せしやと。
思い出の白百合が咲いた。ポッカリと大輪の白い白い百合の花が池に影をやどして。

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