
朝鮮半島の米中戦争と1981年の映画劇『インチャン』
マオ・ツオトン(毛沢東)
1941年5月16日、中華民国の47歳のマオ・ツオトン(毛沢東、1893年12月26日~1976年9月9日)が指導する中国共産党解放区のイェンアン(延安)で、中国共産党の日刊機関紙『解放日報』が創刊された。
1943年3月20日、イェンアン(延安)で、49歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が中国共産党中央政治局主席兼中央書記処主席に就任して中国共産党の独裁者となった。
1943年5月15日、評議会社会主義共和国同盟の一党独裁の全同盟共産党の最高指導者の64歳のヨシフ・スターリン(1878年12月18日~1953年3月5日)が支配下の多民界共産党(コミンテルン)を解散した。
1943年7月4日、『解放日報』に、36歳のワン・チアシアン(王稼祥、1906年8月15日~1974年1月25日)が「中国共産党が中国民族を解放する道を与える(中国共産党与中国民族解放的道路)」を発表し、中国的マークス主義は49歳のマオ・ツオトン(毛沢東、1893年12月26日~1976年9月9日)の「マオ・ツオトン(毛沢東)思想」だとした。
1945年4月23日~6月11日、イェンアン(延安)で、中国共産党第7期全国代表大会が開かれた。
マークス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を通して統一した思想であるマオ・ツオトン(毛沢東)思想を党の指導方針として党規約に盛り込んだ。
核兵器の時代の始まり
1945年8月6日、アメリカ連合国のB29が人口約35万の広島市に対して原子爆弾で核攻撃した。
人類史上初の核兵器による一般人の大量虐殺だった。
年末までの死者は10万人を超えた。
1945年8月8日、評議会同盟が大日本帝国に対して宣戦布告した。
1945年8月9日、午前11時02分、アメリカ連合国のB29が人口約24万の長崎市に対して原子爆弾で核攻撃した。
年末までの死者は7万人を超えた。
評議会同盟が大日本帝国との戦争を始め、南樺太の占領作戦を開始した。
1945年8月14日、評議会同盟と中華民国が友好同盟条約を締結した。
1945年9月2日、アメリカ連合国が65歳のダグラス・マカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日~1964年4月5日)を最高責任者とする大日本帝国の占領統治を始めた。
1945年9月6日、チョウサン(朝鮮)人民共和国が成立したが、評議会同盟とアメリカ連合国が南北で分断統治した。
1945年10月24日、戦勝国のアメリカ連合国や連合大君主国の脅威である敗戦国の大日本帝国、ドイチュ人帝界に対する戦勝国の軍事同盟の連合民界(Organisation des Nations unies、 United Nations)が設立された。
1945年11月2日、日本社会党が結党された。
1945年11月24日、東京・駒込の理化学研究所の54歳の仁科芳雄(にしな・よしお、1890年12月6日~1951年1月10日)が6年をかけて完成させた、電磁石で作った原子核の実験に用いる円形の粒子加速器「サイクロトロン」が、これを原子爆弾製造用と誤認した、アメリカ連合国の陸軍の命令により押収・破壊された。
1945年11月30日、陸軍省と海軍省が廃止された。
1946年1月1日、44歳の天皇(1901年4月29日~1989年1月7日)が詔書で自分の支配する皇民に向けて、天皇もただの人間の一人であることを宣言した。
1946年2月25日、評議会同盟の全同盟共産党の「労働者・農民赤軍」が「評議会同盟軍」に改称された。
1946年6月26日、中華民国で、中国共産党の人民解放軍と中国国民党の国民革命軍の内戦が始まった。

1946年7月1日、25日、マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカ連合国が原子爆弾の実験をおこなった。
1947年3月24日、中国共産党が中国解放区抗日軍を中国人民解放軍に改称した。
1947年5月3日、日本国憲法が施行され、大日本帝国が日本国に移行した。
1947年6月8日、日本教職員組合(日教組)が結成された。
1947年9月18日、アメリカ連合国の安全保障の最高機関、全国安全保障会議(United States National Security Council, NSC)が設立され、直轄機関「中央情報局(Central Intelligence Agency, CIA)」が設置された。
1947年10月5日、評議会同盟の全同盟共産党が支配する欧州各国の多民界共産主義革命運動組織の「共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)」が結成された。
これに、フランセ人共産党(PCF)、イタリアーニ人共産党(PCI)も参加した。
1948年8月15日、朝鮮半島南部にアメリカ連合国の同盟国のテハン(大韓)民国(韓国)が建国された。
1948年9月1日、アメリカ連合国の中央情報局が「政策調整局(Office of Political Coordination、OPC)」を設置した。
1948年9月9日、朝鮮半島北部に、評議会同盟の同盟国のチョウサン民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国された。
1949年4月4日、評議会同盟を仮想敵国とするアメリカ連合国との集団安全保障の軍事同盟、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization、NATO、Organisation du traité de l'Atlantique nord、OTAN)が結成された。
1949年8月1日、『人民日報』が中国共産党華北局の機関紙から中国共産党中央委員会の機関紙になった。
1949年8月29日、評議会同盟が原子爆弾の開発実験に成功し、アメリカ連合国に次ぐ核保有国となった。
1949年10月1日、55歳のマオ・ツオトン(毛沢東)を最高指導者とする中国共産党の一党独裁の中華人民共和国(中国)が独立を宣言した。
1949年10月2日、評議会同盟が中華人民共和国を承認した。
1949年10月6日、中華人民共和国がチョウサン民主主義人民共和国国(北朝鮮)を承認した。
1949年11月11日、中華人民共和国の空軍司令部が設立され、人民解放軍空軍が発足した。
1949年12月4日、社会党中央委員会が、講和問題に関する、評議会同盟を含む全面講和、中立堅持、軍事基地反対の平和3原則を決定した。
1949年12月18日、生まれて初めて外国に出て、マスクヴァを訪問していた55歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が71歳のスターリンに中華人民共和国の原子爆弾開発の援助を要請した。
朝鮮戦争の始まり
1950年1月16日、日本社会党が左派と右派に分裂した。
1950年2月14日、マスクヴァで、評議会同盟と中華人民共和国の友好同盟相互援助条約などが調印された。
71歳のスターリンは両国が戦争に巻き込まれた際、評議会同盟が引き続きルーシュンを使用できるという条項を加えていた。
この条項を活用し、ルーシュンを支配するため、スターリンはチョウサン民主主義人民共和国国(北朝鮮)をけしかけ、戦争を起こそうとした。
1950年4月3日、日本社会党が統一された。
1950年4月11日、日本国を仮想敵国とする評議会社会主義共和国同盟と中華人民共和国との間の友好、同盟及び相互援助条約が批准され、即日発効した。
1950年6月25日、56歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の許可を得ることを条件に、71歳のスターリンの許可を得た上で、朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍のテハン民国領への奇襲攻撃により、朝鮮戦争が始まった。
1950年6月27日、テハン民国の75歳の大統領イ・スンマン(李承晩、1875年3月26日~1965年7月19日)がテハン民国の社会主義政党の南朝鮮労働党の支持者の処刑を命じ、数十万人以上の民間人が裁判なしで虐殺された。
1950年8月4日、連合国軍政府により、沖縄群島政府が設立された。
1950年8月7日、連合国軍政府により、八重山群島政府、奄美群島政府が設立された。
1950年8月8日、連合国軍政府により、宮古群島政府が設立された。

1950年8月10日、共産主義勢力の拡大を警戒するアメリカ連合国の占領政策転換により、共産主義勢力に対抗する防波堤としての日本国の再軍備を整備する警察予備隊が発足した。
1950年9月15日、75歳のイ・スンマンから戦争指揮の権限を与えられた、日本占領統治の最高責任者の70歳のダグラス・マカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日~1964年4月5日)の指揮する連合民界部隊の名義を使用したアメリカ連合国軍が共産圏拡大の防波堤としてのテハン民国の防衛のため、朝鮮人民軍の背後を突き、インチャン上陸作戦を展開した。
1980年6月30日発行、朝鮮統一問題研究会編「シリーズ日韓問題」(全8巻、晩聲社)1、『腐敗する政治:機構と人脈』(1,800円)、Ⅲ「日「韓」をつなぐ裏の人脈」、(2)「児玉ルート」より引用する(112~113頁)。
児玉[児玉誉士夫(こだま・よしお、1911年2月18日~1984年1月17日)]氏はまた戦後もなお、米CIAの手足として日本の政治を汚したばかりではなく、その触手は朝鮮にまでおよんだ。米人記者タッド・シュルツ[Tad Szulc(1926年7月25日~2001年5月21日)](『ニュー・リパブリック[New Republic]』誌一九七六年四月一〇日)によれば、同氏は長い間CIAと関係があった。アメリカの情報機関が児玉氏と最初に接触したのは一九四八年末、戦犯容疑者だったかれが巣鴨拘置所から釈放された直後だった。その後新設された米CIA東京支局が児玉氏との接触を引き継ぎ、ごく最近までつづいていたという。
未確認情報だが、朝鮮戦争ぼっ発直前の一九五〇年六月、米国務省顧問ダレス[John Foster Dulles(1888年2月25日~1959年5月24日)]と統合参謀本部議長プラッドレー[Omar Bradley(1893年2月12日~1981年4月8日)]の三八度線視察の際、児玉氏とその子分、東声会の町井久之(鄭建永)[チョン・ゴニョン、정건영(1923年7月20日~2002年9月14日)]がつきそっていたというし、朝鮮戦争中は米軍の仁川上陸のとき、旧日本軍高級参謀の河辺虎四郎[かわべ・とらしろう(1890年9月25日~1960年6月25日)]元中将や服部卓四郎[はっとり・たくしろう(1901年1月2日~1960年4月30日)]元大佐らとともに作戦立案や仁川上陸作戦で米軍に協力しただけでなく、その手兵まで参戦させたといわれる。児玉氏が米CIAの要員であり、またかつて朝鮮と深くかかわり合ったばかりでなく、日本の保守政界における影響力などを考えるとき、米政府から協力を求められることは大いにありうることである。
1950年10月8日、71歳のスターリンの要請に応じて、56歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が各地の農民を軍事訓練もなしに動員した中国人民志願軍の編成を命じた。
1950年10月19日、中華人民共和国の名目上は非正規軍の中国人民志願軍が共産圏の朝鮮民主主義人民共和国防衛のため参戦した。
1950年10月25日、ヤールー川(鴨緑江)の南部で、中国人民解放軍がテハン民国国軍と交戦し、中華人民共和国とアメリカ連合国の交戦が始まった。
1950年10月26日、テハン民国軍6師団の先遣隊がヤールー川(鴨緑江)岸のチョサン(楚山)に達した。
1950年11月27日、最前線のユダムニ(柳潭里、류담리)に配備されていたアメリカ連合国海兵隊の第5海兵連隊と第7海兵連隊が、中国人民志願軍の夜間奇襲を受け、同じ頃22キロ南にあるハガルリ(下碣隅里、하갈우리)の連合民界軍補給基地も同様に奇襲された。
1950年11月30日、ユダムニのアメリカ連合国海兵隊の部隊に退却命令が出された。
1950年12月3日、ユダムニのアメリカ連合国海兵隊の第5海兵連隊と第7海兵連隊が、ハガルリまで退却した。アメリカ連合国空軍は退却援護のためにナパーム弾による空爆をおこなった。
1950年12月4日、ハガルリのアメリカ連合国海兵隊のコドリ(古土里、고토리)への南下が始まった。
1950年12月7日、アメリカ連合国海兵隊がコドリに到着した。同じ頃、中国人民志願軍も疲弊と消耗により撤退した。
1950年12月11日~25日、アメリカ連合国軍とテハン民国軍がフンナム(興南、흥남)興南から撤収した。
中国人民志願軍の死者の大半は餓死と凍死だった。
1951年1月21日、社会党第7回大会は、平和3原則および再軍備反対を決議した。
1951年1月24日、日教組が「教え子を戦場に送るな」の運動方針を決定した。
1951年10月24日、日本社会党が再分裂した。
1952年の映画劇『退却だと、こん畜生!』
1952年1月18日、テハン民国の76歳のイ・スンマン(李承晩)が大統領令「隣接海洋に対する主権宣言」で、テハン民国と日本国の海洋国境の設定を一方的に宣言した。
テハン民国の主権領界に、当時、アメリカ連合国軍の空爆演習区域となっていた日本国の竹島(テハン民国での呼称はトク(独)島)が含まれていた。

1952年2月19日、ニュー・ヨークのウォーナー劇場(Warner Theatre)で、朝鮮戦争における連合国海兵隊(United States Marine Corps、USMC)、第1臨時海兵旅団(1st Provisional Marine Brigade)の第5海兵連隊第1大隊 (1st Battalion, 5th Marines)を描く映画劇『退却だと、こん畜生!』Retreat, Hell!(95分)が公開された。
「退却だと、こん畜生!(Retreat, Hell!)」は、第5海兵連隊第2大隊の標語だ。
1918年6月3日、第5海兵連隊第2大隊第51中隊の指揮官の30歳のロイドゥ・W・ウィリアムズ(Lloyd W. Williams、1887年6月5日~1918年6月12日)大尉の言葉「退却だと、こん畜生! 今着いたばかりだぞ!(Retreat, hell! We just got here!)」に由来する。
撮影は1951年9月下旬~10月下旬におこなわれた。
制作・脚本は、39歳のミルトゥン・スパーリング(Milton Sperling、1912年7月6日~1988年8月26日)、監督は44歳のジョウゼフ・H・ルウィス(Joseph H. Lewis、1907年4月6日~2000年8月30日)だ。
第5海兵隊第1大隊(1st Battalion, 5th Marines)の大隊長スティーヴ・コーベトゥ大佐(Steve Corbett)を39歳のフランク・ラヴジョイ(Frank Lovejoy、1912年3月28日~1962年10月2日)が演じた。
第1大隊ベイカー(B)中隊(Baker Company)中隊長ポール・ハンセン大尉(Paul Hanson)を、39歳のリチャードゥ・カールスン(Richard Carlson、1912年4月29日~1977年11月25日)が演じた。
初めて戦闘に参加し、自信をなくす18歳の一等兵ジミ・マクダーミドゥ(Jimmy McDermid)を、16歳のラスティ・タンブリン(Rusty Tamblyn、1934年12月30日~)が演じた。
マクダーミドゥら新兵を鍛えるノヴァク軍曹(Novak)を、37歳のネドゥ・ヤング(Ned Young、1914年3月23日~1968年9月16日)が演じた。
映画劇『退却だと、こん畜生!』あらすじ(ネタバレあり)
冒頭から連合国海兵隊を讃える「海兵隊讃歌(Marines' Hymn)」が流れる。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、ワシントゥンDCの連合国国防部(United States Department of Defense)本部で緊急会議が開かれる。予備部隊、予備役の海兵隊員と世界中の海兵隊から派兵される海兵隊師団の兵員が急遽集められる。
欧州にいたスティーヴ・コーベトゥ大佐(Steve Corbett)、海兵隊一家に育ちながら、兵役経験のない18歳のジミー・マクダーミドゥ(Jimmy McDermid)も緊急召集に応じる。
「海軍海兵隊予備役訓練所(Naval Marine Corps Reserve Training Center)」から、除隊して5年になる電子通信が専門でデンヴァー在住の予備役のポール・ハンセン大尉(Paul Hanson)が出てくる。彼は妻と二人の子供を愛しているが、10日後にペンドゥトゥン基地で第5海兵連隊第1大隊 (1st Battalion, 5th Marines)に入隊する。
1950年7月7日、西海岸のキャリフォーニア国サン・ディエゴ郡の「ペンドゥトゥン基地(Camp Pendleton)」で、第1臨時海兵旅団(1st Provisional Marine Brigade)が臨時編成された。
第5海兵連隊第1大隊司令部で、ハンセン大尉は指揮官のコーベトゥ大佐に会い、自分の専門と無関係のベイカー中隊(Baker Company)の指揮官になると知り、失望する。
コーベトゥ大佐はハンセン大尉に、新兵の教練に長けた戦友の軍曹ノヴァク(Novak)を紹介する。
翌日から、ノヴァク軍曹は新兵のマクダーミトゥらに手榴弾の投げ方や柔術や火炎放射器の操作や突撃の仕方を叩き込む。
訓練を終えた翌日、第5海兵連隊第1大隊は朝鮮半島に向けて出航する。
1950年9月15日、艦船230隻によるインチャン(仁川)上陸作戦が始まり、艦砲射撃と空爆がおこなわれる。第5海兵連隊第1大隊は上陸用舟艇でインチャン(仁川)に上陸する。
上陸時、マクダーミトゥの前にいた兵士が撃たれて死んだのを見て、マクダーミトゥはおじけづく。
ベイカー中隊が出遅れたのを見たコーベトゥ大佐は塹壕のベイカー中隊に合流し、ハンセン大佐を叱責する。
塹壕で恐怖のあまり動けなくなったマクダーミトゥは他の隊員に遅れて一人で野営地に着く。彼は先に来ている海兵隊リカン(R)中隊(Recon Company)の中隊長で、コーベトゥ大佐の戦友でもある兄フレディ中尉(Freddy)に今の臆病な自分を見られることを嫌がる。
1950年9月15日、第5海兵連隊第1大隊はキンポ(金浦)飛行場に向かう。建物の2階の窓から軽機関銃で攻撃する朝鮮人民軍の兵士を見たマクダーミトゥは勇気をふるい、ノヴァク軍曹の援護を受けながら、一人でその建物に接近し、手榴弾で敵兵を殺す。
自信を取り戻したマクダーミトゥは、ハンセン大尉の許可を貰って師団本部の兄フレディに会いに行く。コーベトゥ大佐はハンセン大佐を連れ、指示を仰ぐためジープで師団本部の連隊長に会いに行くが、途中で、歩いて来たマクダーミトゥを拾う。
師団本部に着いたマクダーミトゥは戦死した兄フレディの遺体を見る。
満州国境まで進撃するよう命じられた第5海兵連隊第1大隊は、途中で小屋に潜伏した中国人民志願軍の戦車の攻撃を受けるが、マクダーミトゥがコーベトゥ大佐、ハンセン大尉に支援され、バズーカ砲で敵の戦車を破壊する。
コーベトゥ大佐は兄負傷したジープの運転手と伝令の代わりとして、ベイカー中隊からマクダーミトゥを引き抜いて採用し、マクダーミトゥを伍長に昇進させる。
コーベトゥ大佐は敵の死体を点検し、朝鮮人ではなく中国人だと気づき、それをハンセン大尉に教える。
1950年11月26日、第5海兵連隊第1大隊は、満洲国境近くの最前線のユダムニ(柳潭里)に野営する。
マクダーミトゥ伍長がコーベトゥ大佐の伝令としてハンセン大尉に、大隊会議に出席せよとの命令を伝えに来る。
家族で唯一生き残ったマクダーミトゥ伍長は、母親による大統領への請願が認められ、翌日の朝、ヘリコプターで帰還させられることになる。
マクダーミトゥ伍長はコーベトゥ大佐に、最後の夜をベイカー中隊で過ごさせてほしいと頼み、許可される。
その夜、丘の向こうの満洲方向から中国人民志願軍の大軍が押し寄せてくる。
夜が明けたが、ベイカー中隊の弾薬が尽き、ハンセン大尉は中隊に銃剣装着を命じる。
再び、丘の向こうから中国人民志願軍が近づいてきた時、ようやく友軍の飛行機がパラシュートで弾薬を落下させる。第1大隊の兵士たちは急いで弾薬の回収に向かう。
弾薬の補給が間に合い、第1大隊が反撃し、アメリカ連合国空軍の爆撃機が空爆で援護する。
ベイカー中隊は全員無事だった。帰還できなくなったマクダーミトゥ伍長は残念がるふりをして喜ぶ。
1950年11月27日、コーベトゥ大佐は第1大隊に撤退命令が出たことを伝え、「撤退だと、こん畜生! 別方面に攻撃しに行くだけだ!(Retreat, Hell! We're just attacking another direction!)」と言う。
中国人民志願軍の攻撃を受けながら撤退する第1大隊の10%は負傷者だが、20%は凍傷にかかっている。
ノヴァク軍曹は敵の手榴弾攻撃で脳震盪を起こし、失神するが命はとりとめる。
ベイカー中隊は志願者により負傷兵救出のため連合大君主国の大君主家海兵隊の協力を得て、大雪の降る丘に向かう。ハンセン大尉は倒れていたマクダーミトゥ伍長を見つける。その直後、中国人民志願軍の攻撃を受け、救助隊は反撃する。
車両に乗っていたコーベトゥ大佐は肩を撃たれ、その直後、中国人民志願軍が、道に仕掛けていた爆薬が車列の車両を爆破するのを見る。
第1大隊は負傷兵をの乗せる輸送機の停まる飛行場に着くが、意識を取り戻したコーベトゥは、ノヴァク軍曹から、ハンセン大尉たちが行方不明だと知らされる。
コーベトゥがハンセンたちの死を覚悟した直後、マクダーミトゥの寝かされた担架を運んできたハンセンたち救助隊が現れる。それを見たコーベトゥ大佐は元気を取り戻し、立ち上がる。
1952年4月28日、日本国がアメリカ連合国による占領統治から独立したが、軍事的にはアメリカ連合国の保護国のままだった。
また、アメリカ連合国と敵対する評議会同盟との講和条約は結ばれないままだった。
1952年5月29日、多民界通貨基金(International Monetary Fund、IMF)および多民界復興開発銀行(International Bank for Reconstruction and Development、IBRD)が日本国の加入を承認した。
1952年10月13日、評議会同盟の全同盟共産党が評議会同盟共産党に改称された。
1952年10月15日、警察予備隊を改編して保安隊が発足した。

1952年11月1日、16日、マーシャル諸島のエニウェトク環礁でアメリカ連合国が史上初の水素爆弾の実験をおこなった。
1953年3月5日、アメリカ連合国の軍事力を低下させるため、朝鮮戦争の停戦に応じなかった74歳のヨシフ・スターリンが死去した。
1953年7月27日、朝鮮戦争の停戦協定が結ばれた。和平協定は調印されないままだった。
1953年8月8日、評議会同盟が水素爆弾の保有を公表した。
1953年12月23日、テハン民国の内務部治安局警備課が、プサン(釜山)港で、領海を侵す日本国の船舶を攻撃するための海洋警察隊創設式をおこなった。
1954年3月1日、ビキニ環礁でアメリカ連合国が水素爆弾の実験をおこなった。

1954年4月26日~5月1日、松竹のSY系の新宿武蔵野館、テアトル銀座、テアトル渋谷、五反田セントラル、池袋ロサ、江東花月、浅草松竹座、松阪シネマで、映画劇『地獄への退却』Retreat, Hell!の日本語字幕版が公開された。
松阪シネマ以外の併映の短篇は『裸の貴婦人』だった。
松阪シネマの併映は『凸凹小僧宝島騒動』だった。
邦題は、配給会社の「映配」の宣伝部の嘱託だった33歳の児玉数夫(1920年4月30日~-2022年7月20日)が考えたものだ。
1974年10月20日発行、54歳の児玉数夫著『やぶにらみ映画史:戦後の記録』(読売新聞社、1,000円)、「昭和二十九年」、「洋画邦画雑文往来」より引用する(145~146頁)。
四月封切、『地獄への退却』の原名 Retreat Hell!は、ホントは兵隊語で〝なにくそ〟とか〝くそ食らえ〟といった『退却』とアベコベな気合いの入った文句だそうだが、日本の題名には使えない。題名づけには陰の苦心がいるものなのである。
1983年2月25日発行、「旺文社文庫」、62歳の児玉数夫著『映画雑学おもしろbook』(旺文社、480円)、PART1、「朝鮮戦争の奮起の合言葉から生れた映画」より引用する(58~59頁)。
戦場に於ける奮起の合言葉というのがあります。朝鮮戦争の際の、もっとも有名な言葉は、Retreat Hell!(なにしろ、やっつけろ)という、これはオリヴァ・P・スミス将軍のはいたもの。
クラシックなものには、Remember the Alamo!(アラモを忘れるな!)――シドニイ・シャーマン大佐。
I Have not yet Begin to Fight!(戦いはこれからだ!)――ジョン・ポール・ジョーンズ。
太平洋戦争では、マッカーサー元帥のI Shall Retern!(必ず帰るぞ!)は有言実行して有名になりました。
Retreat Hell!を題名にして、WBが52年に製作。邦題は「地獄への退却!」――この邦題、実は、(当時、映配在社の)私がつけたのです。前述の意味があることを知っても、映画の題名としては、この方が良いと思い、直訳的につけました。〝アジアのダンケルク〟といわれた国連軍撤退の悲劇を、南海岸に圧迫されたアメリカ海兵隊を通して描いていました。
1954年5月1日、テハン民国で、ムン・ソンミョン(문선명、文鮮明、1920年2月25日~2012年9月3日)が、共産主義を敵視する宗教組織「世界基督教統一神霊協会」を創設した。
1954年6月17日、テハン民国が、ドク(独)島を日本国の侵略から守るため、海洋警察隊の駐留部隊を派遣し、同島の軍事占拠を強行した。
1954年7月1日、日本国に国防軍事組織の防衛庁と自衛隊が設置された。
1954年7月21日、ジュネーヴで、フランセ人共和国、連合大君主国、ラーオ大君主国、カンプチア大君主国、ヴィエトゥ・ナム民主共和国により休戦協定が結ばれた。
ヴィエトゥ・ナム民界は、北緯17度線で南北に二分され、北に首都をハー・ノイに置くヴィエトゥ・ナム民主共和国から南の首都をサイゴンに置くヴィエトゥ・ナム国が分離した。
1955年8月8日~20日、ジュネーヴで第1回「原子力平和利用多民界会議 (International Conference on the Peaceful Uses of Atomic Energy)」が開かれ、73か国から原子物理学者など約3,800人が集まった。
1955年10月13日、日本社会党が再統一された。
1955年11月15日、自由民主党が結党された。初代幹事長に59歳の岸信介(1896年11月13日~1987年8月7日)が就任した。
1956年2月25日、マスクヴァで開かれた第20回評議会同盟共産党大会で、評議会同盟共産党第一書記の61歳のニキータ・フルシショフ(1894年4月17日~1971年9月11日)の秘密報告「個人崇拝とその結果について(О культе личности и его последствиях)がおこなわれ、スターリンに対する個人崇拝が批判された。
1956年4月17日、「共産党・労働者党情報局」が解散した。
1956年10月19日、日本国と評議会同盟が共同宣言を調印し、国交を回復した。この宣言は、12月12日に批准され、両国の交戦状態が終了した。
1957年2月25日、60歳の岸信介が第56代・内閣総理大臣に就任した。
1957年7月29日、「多民界原子力機関(International Atomic Energy Agency,IAEA)」が発足した。
1958年2月20日、東宝のTY系の新宿東宝、渋谷国際、池袋東宝、神田東洋、銀座コニー、江東リッツ、浅草大勝館、横浜スカラ座で、映画劇『地獄への退却』Retreat, Hell!の日本語字幕版と新谷圭介、井上勝太郎構成、36歳の宮田輝(みやた・てる、1921年12月25日~ 1990年7月15日)解説の記録映画『第二次大戦の悲劇』(93分)の2本立てが公開された。
1960年11月5日、中華人民共和国が初の短距離弾道ミサイル「トンフォン(東風)」1号の発射実験に成功した。
1960年12月20日、ヴィエトゥ・ナム共和国(南ベトナム)政府に対する反政府組織として、南ヴィエトゥ・ナム解放民界戦線が結成された。
1961年5月16日、テハン民国で、テハン民国陸軍の少将、43歳のパク・チョンヒ(박정희、朴正煕、1917年11月14日~1979年10月26日)が軍事革命をおこなった。
1961年6月10日、テハン民国で、共産主義に対抗する諜報組織「中央情報部(KCIA)」が発足した。
初代部長は35歳のキム・ジョンピル(金鍾泌、1926年1月7日~2018年6月23日)だった。
1977年9月20日発行、「新日本新書」、55歳の大野達三(1922年7月14日~ 2002年12月12日)著『謀略の軌跡』(新日本出版社、490円)、第3章「謀略の機関」、3「KCIA――朴正熙のファッショ支配の道具」より引用する(80~81頁)。
KCIA(Korea[Korean]-Central Intelligence Agency)は、一九六一年六月「中央情報局法」によってソウルに設立された。その組織・権限はすべてこの組織づくりを指導した米CIAそのままで、すべての国家機関・各軍の上に君臨し、スパイ・挑発・謀略・殺人・暴動その他あらゆる手段をほしいままにしている点はまったく同一である。ただし、この両者の相違は二つある。一つは米CIAが法的には国内での警察権がないのに、KCIAは「韓国」内で無限の警察権をもっていることであり、その二つは、米CIAが世界のすみずみまでくまなく組織されているのに、KCIAは主として日本、米国、西独など在外朝鮮人の多い国にその破壊活動が限られていることである。
1962年1月1日、ヴィエトゥ・ナム共和国でマークス・レーニン主義政党「ヴィエトゥ・ナム人民革命党」が結党された。
1962年7月5日、アル・ジャザーイル民主人民共和国(République algérienne démocratique et populaire)が独立した。
1963年4月、東京・六本木に、52歳の児玉誉士夫会長、町井久之こと鄭建永(チョン・ゴニョン、1923年~2002年9月14日)社長の「東亜相互企業(TSK)」が設立された。
1963年7月11日、東京・六本木に、「東亜相互企業(TSK)」が会員制高級社交クラブ「TSK・CCC(セレブリティーズ・チョイス・クラブ)」ターミナルのビルを落成した。
運営委員は東急電鉄社長の46歳の五島昇(ごとう・のぼる、1916年8月21日~1989年3月20日)、西武百貨店社長の36歳の堤清二(つつみ・せいじ、1927年3月30日~2013年11月25日)、三越社長の39歳の岡田茂(1924年3月2日~2011年5月9日)などだった。


1963年9月20日、TYチェーンの渋谷スカラ座、新宿劇場、池袋東急、江東リッツ、上野宝塚、目黒スカラ座、川崎映画、横浜相鉄映画で、ナンニ・ローイ(Nanni Loy、1925年10月23日~1995年8月21日)監督、レジーナ・ビアンキ(Regina Bianchi、1921年1月1日~2013年4月5日)主演の映画劇『祖国は誰のものぞ』Le quattro giornate di Napoli(The Four Days of Naples)のイングリシュ語音声版(124分)の日本語字幕版と映画劇『肉弾海兵隊』Retreat, Hell!の日本語字幕版の2本立てが公開された。
1963年12月17日、テハン民国のソウルで46歳のパク・チョンヒの大統領就任式がおこなわれた。
日本からは政府特使として、自民党副総裁の73歳の大野伴睦(おおの・ばんぼく、1890年9月20日~1964年5月29日)、自民党代議士の38歳の中川一郎(1925年3月9日~ 1983年1月9日)は、63歳の徳安実蔵(とくやす・じつぞう、1900年2月13日~ 1988年2月7日)、日韓会議首席代表の79歳の杉道助(1884年2月20日~1964年12月14日)、三井物産の西島東常務が出席した。
1963年12月20日、熱海のつるやホテルで、組織暴力団の親睦を目ざし、52歳の児玉誉士夫を世話役とする在日韓国人、40歳の町井久之の構成員1,320名の東声会など7団体による関東会の結成式がおこなわれた。
1964年4月1日、日本国で海外渡航が自由化された。
1964年7月1日、日本国で外国映画の輸入が自由化された。
1964年7月15日、日本国で世界基督教統一神霊協会が宗教法人の認可を受けた。
1964年10月16日、中華人民共和国が、アジアで初の原子爆弾の核爆発実験に成功し、世界で5番目の核兵器保有国となった。
1965年1月24日、関東会が正式に解散を決めた。

1965年10月、ニュー・ヨークで、アメリカ連合国が共産主義勢力の拡大を阻止するためのヴィエトゥ・ナム戦争に、連合国陸軍特殊部隊(US Army Special Forces)の隊員として従軍した、39歳のロビン・モーア(Robin Moore、1925年10月31日~2008年2月21日)著『緑ベレイ帽隊』Green Berets(Crown Publishing Group)が刊行された。
題名の「緑ベレイ帽隊(Green Berets)」は、連合国陸軍特殊部隊の通称だ。
1965年12月18日、ソウルで批准書が交換され、日本国とテハン民国との間の基本関係に関する条約が発効した。
これ以後も、テハン民国は竹島を占拠し続けた。
2016年8月20日発行、「新潮新書」、有馬哲夫(ありま・てつお、1953年~)著『歴史問題の正解』(新潮社、本体760円)、第10章「日韓国交正常化の立役者は児玉誉士夫だった」、「児玉が日韓国交正常化をリードした」より引用する(197頁)。
朴政権は正式の外交ルート以外にもさまざまなルートで日本側に日韓国交正常化を働きかけていた。そのルートの主なものが次のような児玉と岸の二つのラインだった。
1 金鐘泌(KCIA部長)-丁一権[정일권、1917年11月21日~1994年1月17日]-伊関佑二郎[いぜき・ゆうじろう、1909年12月1日~1999年1月17日](外務省高官)-児玉誉士夫-大野伴睦・河野一郎[こうの・いちろう、1898年6月2日~1965年7月8日]
2 李厚洛[이후락、1924年2月23日~2009年10月31日](大統領秘書室長)-金東祚[김동조、1918年8月14日~2004年12月9日](外務次官)-岸信介-矢次一夫[やつぎ・かずお(1899年7月5日~1983年3月22日)]
1965年12月25日、ロビン・ムーア著、仲晃(なか・あきら、1926年~)訳『グリーン・ベレー』(弘文社、540円)が刊行された。
1966年5月1日、テハン民国の聖火社(성화사)が、ムン・ソンミョン(文鮮明)の文書を元に、51歳のユ・ヒョウォン(劉孝元、유효원、1914年9月25日~1970年7月28日)らがまとめた、世界基督教統一神霊協会の教理である「統一原理」の解説書『原理講論』원리강론を刊行した。
1966年5月16日、中華人民共和国のペイジン(北京)で、72歳のマオ・ツオトン(毛沢東、1893年12月26日~1976年9月9日)が最高権力独占のため、敵対勢力の一掃を図り、「無産階級文化大革命」を都市部の若者に広め、知識階級の有力者たちを無差別に攻撃させた。
1966年6月10日、ロビン・ムーア著、仲晃訳『続グリーン・ベレー』(弘文社、540円)が刊行された。
1966年9月、東京の池上本門寺で、東声会の解散式がおこなわれた。
1966年末ごろ、東京・銀座の地上9階建ての東亜相互企業の銀座本社ビル「東亜相互ビル」の地下2階~地下1階に日本料理店「磯玄」、1~3階に大衆向けの韓国料理店「銀座苑」、4~6階に韓国高級料亭「秘苑」、7階に高級クラブ「シルクロード」が開店した。
1967年10月2日、東京の光言社が、世界基督教統一神霊協会編『原理講論』(1,200円)を刊行した。
1978年6月発売の日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』7月号(第427号)「特集:京都、横浜から何を学ぶか」、「特集:国際勝共連合との闘争の意義」(360円)、41歳の萩原遼(はぎわら・りょう、1937年2月3日~2017年12月22日)「暴かれた謀略と干渉の〝教義〟」は、日本語訳『原理講論』の改ざんを指摘した。
同号掲載の赤旗編集局訳・注「資料『原理講論』原本と日本語版の比較」より「第六章第三節 イエスはどこに再臨されるか」の日本語版での削除箇所を引用する(105~106頁)。
これがまさに日本帝国に属国とされ迫害を受けた四〇年という期間であった。
それでは、韓国民族はいかなる経緯をへて日本帝国のもとで四〇年間の苦役を受けるようになったのか? 韓国にたいする日本の帝国主義的な侵略の魔手は乙巳保護条約[1905年11月17日に締結]に依って伸ばされた。即ち一九〇五年に日本の伊藤博文[いとう・ひろぶみ(1841年10月16日~1909年10月26日)]と当時の韓国学部大臣であった親日派李完用[イ・ワニョン、이완용(1856年7月17日~1926年2月12日)]等に依って、韓国の外交権の一切を日本帝国の外務省に一任する条約が成立した。そうして日本は韓国に統監を置き、必要なそれぞれの地域に理事官を置いて一切の内政に干渉することによって、日本は事実上韓国から政治、外交、経済等あらゆる主要部門の権利を剥奪したのであった。これがまさに乙巳保護条約であった。
「第六章第三節 イエスはどこに再臨されるか」の日本語版での別の削除箇所を引用する(106~107頁)。
これを三十八度線で裂き、カインとアベルの二つの型の民族に分けたのである。したがってこの三十八度線は民主と共産の第一線であると同時に、神とサタンの第一線となるのである。それゆえ、三十八度線において勃発した六・二五動乱[朝鮮戦争]は、国土分断にもとづく単純な同族の抗争ではなく、民主と共産という二つの世界の間の対決であり、さらには神とサタンとの対決であった。六・二五動乱に国連加盟の国家が動員されたのは、この動乱が復帰摂理の目的のための世界性を帯びていたために自らも意識しえないうちにこの摂理の意志に合わせて祖国解放の事業に加わるためであったのだ。
「第五節 言語混乱の原因とその統一の必然性」の日本語版での削除箇所を引用する(111頁)。
それでは、その言語はどの国の言葉で統一されるであろうか? その問いに対する答えは明白である、子供は父母の言葉を学ぶのがならわしであるからである。人類の父母となられたイエスが韓国に再臨されることが事実であるならば、その方は間違いなく韓国語を使われるであろうから、韓国語はまさに祖国語となるであろう。したがってすべての民族はこの祖国語を使用せざるをえなくなるであろう。
1968年1月13日、テハン民国で、47歳のムン・ソンミョン(文鮮明)が、世界基督教統一神霊協会を母体とする政治団体でKCIAの諜報組織「共産主義に勝利するための国際連盟」を発足させた。
1968年4月1日、日本国でも、71歳の岸信介、68歳の笹川良一(ささかわ・りょういち、1899年5月4日~1995年7月18日)、57歳の児玉誉士夫らが発起人となり、個人のカネ儲けの自由を奪う共産主義に対抗する政治団体「国際勝共連合」が発足した。

1968年6月19日、ニュー・ヨークのウォーナー劇場(Warner Theatre)で、ロビン・モーア原作、60歳のジョン・ウェイン(John Wayne、1907年5月26日~1979年6月11日)監督・主演、62歳のレイ・ケログ(Ray Kellogg、1905年11月15日~1976年7月5日)共同監督、36歳のデイヴィドゥ・ジャンセン(David Janssen、1931年3月27日~1980年2月13日)共演の映画劇『緑ベレイ帽隊』The Green Berets(142分)が公開された。
撮影は1967年8月9日からおこなわれた。

1968年7月20日、東京の新宿ピカデリー、渋谷東急、東劇で、映画劇『グリーンベレー』The Green Beretsの39歳の岡枝慎二(1929年3月31日~2005年5月23日)訳の日本語字幕版が公開された。
1969年4月1日~24日、ペイジン(北京)で、中国共産党第9期全国代表大会が開かれた。
党規約に「マオ・ツオトン(毛沢東)思想」の語が復活した。
若者の暴力を抑制することに成功し、75歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の最高権力が復活したため、「無産階級文化大革命」は権威維持へと方針転換した。
1969年4月10日、国際勝共連合の旬刊機関紙『国際勝共新聞』が創刊された。
1972年初めごろ、東亜相互企業(TSK)が東京・湯島に、韓国人女性による政治家や官僚の性的接待の場として地下にVIP専用の特別室を増設した韓国料理店「秘苑」を開店した。
1972年9月29日、中華人民共和国と日本国の国交が成立した。
これにより、日本国と中華民国との間の講和条約は無効になった。
1973年1月24日、『国際勝共新聞』が『思想新聞』と改称された。

1974年4月、ニュー・ヨークで、46歳のレアドゥ・ケイニグ(Laird Koenig、1927年9月24日~2023年6月30日)著のニューヨークのロング・アイランドゥの小さな家に一人で住む13歳のブリティシュ人移民リン・ジェイコブズ(Rynn Jacobs)を主人公とする小説『小道の向こうに住む女の子』The Little Girl Who Lives Down the Lane(Coward, McCann & Geoghegan)が刊行された。
題名はイングランドゥの童謡「メーメー、黒ひつじ(Baa, Baa, Black Sheep)」の「小道の向こうに住む男の子(the little boy who lives down the lane)」に由来する。
1975年1月1日、世界基督教統一神霊協会の財政部門の最高責任者の日本人の38歳の石井光治(いしい・みつはる、1936年11月25日~2009年6月15日)社長の世界日報社が世界基督教統一神霊協会の日本語の総合日刊紙『世界日報』を創刊した。創刊当初は無料配布された。
1975年1月21日、東京の八幡山ボウリング場で、世界基督教統一神霊協会の54歳のムン・ソンミョン(文鮮明)が「1800組国際合同結婚式」のマッチングをおこなった。
1975年2月8日、ソウルのチャンチュン(奨忠)体育館で、世界基督教統一神霊協会の「1800組国際合同結婚式」が催された。
参加国は20カ国で、テハン民国の892組、日本国の811組、欧州とアメリカ連合国の111組、台湾の2組など、合わせて1816組が参加した。
1975年4月27日、東京・渋谷の山手教会で、世界基督教統一神霊協会の「原理運動」の被害者父母により「全国原理運動被害者父母の会」が結成された。
1975年4月30日、ヴィエトゥ・ナム民主共和国がヴィエトゥ・ナム共和国を併合し、ヴィエトゥ・ナム戦争が終わった。
1976年12月14日~20日、ヴィエトゥ・ナムのハノイで、ヴィエトゥ・ナム労働党の第4回民界会議が開かれ、ヴィエトゥ・ナム労働党をヴィエトゥ・ナム共産党と改称することを決めた。

1976年12月25日、スヴェリエで、レアドゥ・ケイニグ原作、44歳のニコラ・ゲスネール(Nicolas Gessner、1931年8月17日~2023年8月22日)監督、13歳のジョディ・フォスター(Jodie Foster、1962年11月19日~)、35歳のマーティン・シーン(Martin Sheen、1940年8月3日~)主演の映画劇『小道の向こうに住む女の子』Den lilla flickan i huset vid vägens slut / La Petite Fille au bout du chemin / The Little Girl Who Lives Down the Lane(94分)が公開された。
撮影は1975年11月17日~1976年5月におこなわれた。

1977年4月25日、レアード・コーニグ著、54歳の加島祥造(かじま・しょうぞう、1923年1月12日~2015年12月25日)訳『白い家の少女』 (新潮社、980円)が刊行された。
装画は福地靖(1933年~2019年10月8日)だ。
1977年6月2日、東亜相互企業(TSK)が倒産した。

1977年7月23日、東京・日比谷のみゆき座で、映画劇『白い家の少女』The Little Girl Who Lives Down the Laneのイングリシュ語音声版の59歳の野中重雄(1918年2月~1984年5月28日)訳の日本語字幕版が公開された。
1981年の映画劇『インチャン』
1978年6月発売の日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』7月号「特集:京都、横浜から何を学ぶか」、「特集:国際勝共連合との闘争の意義」(360円)に、日本共産党党員の50歳の山田和夫(1928年1月28日~2012年8月11日)「映画『仁川』とKCIA謀略」が掲載された。
1984年8月25日発行、56歳の山田和夫著『偽りの映像:戦争を描く眼』(新日本出版社、1,000円)、「1980年代・映画「右傾化」の新しい顔」、(八)「〝諸悪の根源は共産主義〟:反共主義と「ソ連脅威論」」より引用する(124~125頁)。
一九七五年一月、ソウルで開かれた「韓日協力委員会」第十二回常任委員会では、日本から岸信介会長らも出席、「映画交流小委員会」を設け、日本映画の韓国向け輸出と日韓合作映画の製作などが協議された。同三月、同協力委員会の矢次一夫日本側委員(国策研究会常任理事)と国際放映の安部鹿蔵[あべ・しかぞう(1911年3月26日~1994年10月6日]社長がソウルを訪問、韓国側の白斗鎮[ペク・トゥジン、1908年10月31日~1993年9月5日]委員(元首相)との間で、「日韓両国の若い世代に朝鮮戦争の実相と共産主義に対する警戒心を植えつけるために」日韓合作映画を製作することに合意した。その映画は、第二次大戦中のヤルタ会談にはじまり朝鮮戦争にいたる内容で、「北」からの侵略と「共産主義の残忍性」を強調する意図を明らかにしていたから、「仁川」の原形といえる。当初、この映画は一九七五年中に完成、日韓同時公開を予定していたが、「金大中[キム・デジュン、1924年1月6日~ 2009年8月18日)事件[1973年8月8日、東京のホテルグランドパレスで同氏がKCIAに拉致された事件]」などで日韓癒着への批判が高まったので一時棚上げとなる。一九七八年時点で東宝は「仁川」のことは「三年前からの話」と明言しているので、この韓日協力委員会レベルの「日韓合作映画」に当初から東宝がかかわっていたことがうかがわれる。
一九七七年一月、映画「仁川」のシナリオ準備稿(日本の「連合艦隊」などを書いた須崎勝弥[すさき・ かつや、1922年1月1日~2015年1月9日]が完成、同四月、ワンウェイ・プロと日本創造企画との間に「『仁川』の企画準備に関する覚え書き」が交わされ、六月には早くもアメリカ側スタッフが東宝砧撮影所を訪問、その間、須崎シナリオをもとにアメリカのシナリオ作家ロビン・ムーアが第一稿を完成、一九七八年二月三日、ワンウェイ・プロと東宝映画との間に「『仁川』製作準備に関する覚え書き」の調印が行なわれる。そして四日後の二月八日、「報知新聞」が芸能ページのトップに「東宝50億円映画『仁川』を受注――世界に見直されるJAPANの実力」の大見出しで、このことを報道、「仁川」問題は一気に表面化した。
製作を下請けする東宝砧撮影所の現場から反対の火の手があがり、東宝系企業労組の単一組織「全国映画演劇労働組合」(全映演)から、「映画演劇関連産業労働組合共闘会議」(映演共闘)、「民間放送労働組合連合会」(民放労連)、「マスコミ関連産業労働組合共闘会議」(マスコミ共闘)、そして「日本映画復興会議」へと抗議行動は広がった。「日本映画復興会議」(議長=山本薩夫[やまもと・さつお(1910年7月15日~1983年8月11日)])は同三月十二日、「映画『仁川』の製作に反対し、その中止を要請する声明」を出し、「私たち平和を愛し、アジアの諸国民と真の連帯を強めたいとねがう日本映画人は、KCIAの黒い手につながる映画製作に手を貸し、アジアと世界の平和をおびやかす謀略を促進するような『仁川』の製作に断固として反対し、東宝映画が直ちに製作協力を撤回するよう要請、同時にこの声明にたいする映画演劇人の賛同署名を広く求めた。それにたいし、黒澤明[1910年3月23日~1998年9月6日]、今井正[1912年1月8日 ~1991年11月22日]、山田洋次[1931年9月13日~]、岩崎昶[いわさき・あきら(1903年11月18日~1981年9月16日)]、仲代達矢[なかだい・たつや(1932年12月13日~)]ら、計六十八名の賛同と支持の署名が寄せられたし、東宝映画の田中社長[田中友幸(たなか ・ともゆき、1910年4月26日~1997年4月2日)]のところへは、千に百枚に及ぶ抗議のハガキが山積みされた。
1979年2月17日~3月16日、中華人民共和国の中国共産党の人民解放軍が、ヴィエトゥ・ナム社会主義共和国を侵攻する戦争がおこなわれたが、人民解放軍は短期間で撤退した。
1979年10月26日、テハン民国のソウルのKCIA所有の秘密宴会場で、KCIA部長の53歳のキム・ジェギュ(金載圭、1926年3月6日~1980年5月24日)が61歳の大統領パク・チョンヒ(朴正煕)と44歳の大統領府警護室長チャ・ジチョル(車智澈、1934年11月6日~1979年10月26日)を射殺した。
2023年11月22日公開のキム・ソンス(김성수、1961年11月15日~)監督の映画劇『ソウルの春』서울의 봄(142分)は、1979年10月26日の夜、ソウルのテハン民国陸軍の本部に大統領暗殺の第一報が伝わる場面から始まる。
1981年4月8日、テハン民国の「中央情報部(KCIA)」が「国家安全企画部」に改組された。


1981年5月4日、ワシントゥンDCのジョン・F・ケネディ実演芸術会館(John F. Kennedy Center for the Performing Arts)で、世界基督教統一神霊協会の61歳の教祖ムン・ソンミョン(文鮮明)が、神の啓示を受けて企画した、全15作からなる超大作映画「神の真理連作」の第1作目として、42歳の石井光治のワンウェイ・プロダクションに制作させた映画劇『インチャン(仁川)』Inchon(140分)が連邦議会議員向けに一夜限り公開された。
脚本はレアドゥ・ケイニグ、ロビン・モーア、監督は64歳のテレンス・ヤング(Terence Young、1915年6月20日~1994年9月7日)だ。

撮影は1979年6月4日~9月におこなわれた。
撮影監督は42歳のブルース・サーティーズ(Bruce Surtees、1937年7月23日~2012年2月23日)だ。
音楽は52歳のジェリー・ゴウルドゥスミス(Jerry Goldsmith、1929年2月10日~2004年7月21日)だ。
34歳のジャクリーン・ビセ(Jacqueline Bisset、1944年9月13日~)がアメリカン人のバーブラ・ホールズワース(Barbara Hallsworth)を演じた。
48歳のベン・ギャザーラ(Ben Gazzara、1930年8月28日~2012年2月3日)が連合国海軍のユージーン・F・クラーク(Eugene F. Clark、1911年7月18日~1998年6月26日)をモデルにした、バーブラの夫のアメリカ連合国軍海兵隊少尉フランク・ホールズワース(Frank Hallsworth)を演じた。
37歳のリチャードゥ・ラウンドゥトゥリー(Richard Roundtree、1942年7月9日~2023年10月24日)が、アメリカン人の黒人の海兵隊軍曹オーガスタス・ヘンダスン(Augustus Henderson)を演じた。
イングリシュ人の72歳のロレンス・オリヴィエイ(Laurence Olivier、1907年5月22日~1989年7月11日)が70歳のマカーサーを演じた。
ドロスィ・ジェムズ(Dorothy James)がマカーサー夫人の51歳のジーン(Jean MacArthur、1898年12月28日~2000年1月22日) を演じた。
韓国人系のアメリカン人の26歳のリディア・レイ(Lydia Lei、1952年10月15日~)が韓国人ミラ(Mila)を演じた。
韓国人の44歳のナムグン・ウォン(南宮遠、남궁원、1934年8月1日~2024年2月5日)が、ミラの婚約者で民兵団を率いる韓国人パク(Park)を演じた。
韓国人系のアメリカン人の21歳のキャレン・カーン(Karen Kahn、1957年10月31日~)がフランクの愛人の韓国人リム(Lim)を演じた。

日本人の59歳の三船敏郎(みふね・としろう、1920年4月1日~1997年12月24日)がリムの父の日本で生まれ育った韓国人サイトウ(Saito)を演じた。
48歳のジェイムズ・キャラハン(James Callahan、1930年10月4日~2007年8月3日)がアメリカ連合国陸軍の第10軍(X Corps)司令官の57歳のエドゥワードゥ・M・アーモンドゥ(Edward M. Almond、1892年12月12日~1979年6月11日)を演じた。
48歳のデイヴィドゥ・ジャンセンが東京駐在のアメリカン人新聞記者デイヴィドゥ・フェルドゥ・パーク(David Feld Park)を演じた。
40歳の映画評論家のレクス・リードゥ(Rex Reed、1938年10月2日~)がもう一人の記者ロングフェロウ(Longfellow)を演じた。
テレンス・ヤング夫人のフランセーズ人の39歳のサビーヌ・スン(Sabine Sun、1940年4月15日~2014年5月13日)が金髪女性の戦場写真家マーグリートゥ(Marguerite)を演じた。
イタリアーノ人の54歳のガブリエーレ・フェルツェーッティ(Gabriele Ferzetti、1925年3月17日~2015年12月2日)がトゥルキエ人共和国の准将(Turkish Brigadier General)を演じた。

『インチャン』あらすじ(ネタバレあり)
1950年6月25日、テハン民国の北端、プサン(釜山)に駐留するアメリカ連合国海軍少佐の妻で室内装飾家のバーブラ・ホールズワース(Barbara Hallsworth)は北緯38度線の国境から10マイル南の村のイングリシュ語を話す韓国人ジミー(Jimmy)の家具屋で家具を買い付けようとしていた。
そこへ突然、朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍の戦車隊が侵攻し、村人を殺しまくる。バーブラは韓国人運転手の運転するリムジンで南に逃げる。
一方、テハン民国のキョンギ(京畿)湾の近くではバーブラの夫のフランク・ホールズワース少佐が韓国人の若い女リム(Lim)と情事を楽しんでいた。
フランクは突発した戦争を受け、軍に戻る前に、リムに対して、必ず戻って来て、妻と離婚し、彼女をアメリカ連合国に連れ帰ると約束する。
フランクはリムの父のイングリシュ語を話す日本で生まれ育ったサイトウ(Saito)(三船敏郎)に挨拶した後、サイトウのモーターボートでインチャン(仁川)に向かう。
インチャン(仁川)では、ジープを運転する黒人の海兵隊軍曹オーガスタス・ヘンダスン(Augustus Henderson)がフランクを部隊に連れて行く。
朝、東京の日本占領軍司令部の70歳のマカーサーの共同記者会見会場に、アメリカン人新聞記者デイヴィドゥ・フェルドゥ(David Feld)ともう一人の記者ロングフェロウ(Longfellow)、金髪女性の戦場写真家マーグリートゥ(Marguerite)がいる。
マカーサーは自宅で妻ジーン(Jean)と朝食を取りながら、戦場のフランクと電話で話す。
その後、マカーサーは占領軍司令部に出勤する。
南に向かうテハン民国北部の難民の行列に巻き込まれたバーブラの車はほとんど前に進めない。途中で朝鮮人民解放軍空軍の爆撃機の攻撃を受け、運転手とバーブラは車を飛び出す。爆撃機が去った直後、バーブラは運転手が死んでいることに気づき、そこからは自分が車を運転する。
1950年6月28日、フランクとオーガスタスは、結婚式を挙げるという若い娘ミラ(Mila)を拾い、ジープでソウル駅に行く。駅で待っていた青年パク(Park)はミラと会うことができた。
パクはフランクとオーガスタスに感謝する。
フランクはバイクに乗りスウォン(水原)空軍基地に向かい、いったんオーガスタスと別れる。
ソウルのハン川(漢江)の人道橋を難民の行列に混じってバーブラの車が渡る。それに気づいたオーガスタスはジープを降り、バーブラに会いに行き、護身用の拳銃を渡す。
人道橋の上でバーブラの車の前に韓国人の老人が立ちふさがり、バーブラが老人をどかすため車を降りた隙に、老人の孫の5人の女の子が車に乗り込む。バーブラは仕方なく、子供たちを乗せて橋を渡る。
アメリカ連合国陸軍が朝鮮人民軍の侵攻を阻止するため、人道橋に爆薬を仕掛けていたが、すぐ側まで来た朝鮮人民軍の戦車隊が人道橋を砲撃し始める。オーガスタスはハン川(漢江)に飛び込む。戦車が人道橋を渡って来たのでアメリカ連合国陸軍は急いで人道橋を爆破する。バーブラの車はギリギリで人道橋を渡り切ることができた。
パクとミラも橋を渡っていたが、別れ別れになる。
朝鮮人民軍は捕えた韓国人を強制的に入隊させ、逆らう者は処刑する。捕虜になったパクは銃で脅され、韓国人捕虜を射殺する。
東京の占領軍司令部のマカーサーに、ワシントゥンのトゥルーマン大統領が電話し、連合民界軍が結成され、司令官にマカーサーが任命されたと伝える。
バーブラの車は朝鮮人民軍の兵士に検問されるが、バーブラは拳銃で兵士を射殺し、逃走する。その直後、車のエンストを直そうとバーブラが車の外に出ると、バイクのオーガスタスが通りがかり、故障を直す。バーブラはプサンに向かう。
1950年6月29日、フランクは朝鮮人民解放軍空軍の爆撃機の攻撃を受けながら、スウォン(水原)空軍基地に着き、オーガスタスと合流する。
東京羽田空港から専用機バターン号(Bataan)で視察に来たマカーサーが空港に降り立ち、75歳のイ・スンマン大統領に出迎えられる。マカーサーはフランクに歩み寄り、フランクの軍服の胸に銀星章を着ける。
その後、ソウル近郊上空を飛行中、マカーサーはインチャン(仁川)を見て、上陸作戦を思いつく。東京から来たアメリカン人記者たち、フランクも同乗している。
1950年7月5日、ソウル南方のオサン(烏山)で朝鮮人民軍の戦車部隊とアメリカ連合国陸軍部隊が交戦し、アメリカ連合国軍は惨敗する。
ソウル南部で、難民の行列に混じってバーブラの車が進む。バーブラの車は、重傷を負った黒人兵の介護中に失神したミラを拾い、連合民界軍の前哨基地のプサン(釜山)に近い孤児の養育をおこなっているローマ普遍教会の女子修道院の伝道所に着く。
フランク、オーガスタスらは、朝鮮人民軍から逃れてきたパクが韓国人の農民たちで編成した非正規軍の民兵たちと田んぼで朝鮮人民軍の部隊を待ち伏せして急襲する。
1950年8月15日、9月15日予定のインチャン(仁川)上陸のための第10軍が編成され、日本占領軍参謀長の57歳のエドゥワードゥ・M・アーモンドゥ(Edward Almond)が司令官に任命された。
1950年8月23日、東京の占領軍司令部にやって来た軍首脳部は、リスクの大きいこの作戦に反対する。
トゥルキエ人共和国の准将(Turkish Brigadier General)も作戦会議に参加している。
マカーサーが東京の司令部に出勤する。アメリカン人記者たちが待っている。
1950年9月13日、プサン(釜山)港に、フランクとオーガスタスがいる。5人の女の子とミラを乗せたバーブラの車がボロボロになってプサン(釜山)に着く。豪邸に戻ったバーブラは、フランクとオーガスタスに再会する。オーガスタスはすぎにその場を離れる。フランクとバーブラは和解し、久しぶりにベッドを共にする。
1950年9月14日、早朝、インチャン(仁川)に近い朝鮮人民軍の要塞が築かれたウォルミ(月尾)島に、ゴムボートで接近したフランクとオーガスタスとパクが上陸する。フランクはリムと再会する。
夜が明ける前に、フランクとオーガスタスとパクが朝鮮人民軍の占拠する灯台を奪取する。その後、突然、サイトウが灯台に現われ、フランクに、海峡に浮遊機雷が敷設されていることを教える。
フランクはパクとオーガスタスに灯台を託し、サイトウと共にゴムボートで浮遊機雷を爆破しに向かう。
機雷が爆破されたのを見て、オーガスタスとパクが灯台の信号灯を点灯する。それを見た朝鮮人民陣が灯台に攻撃を始める。
灯台の下にリムが現れ、韓国人民兵を指揮する。フランクとサイトウも銃撃戦に加わる。リムが撃たれ、倒れる。
信号灯のある部屋も爆破され、明かりが消える。それを見たサイトウは灯台の階段を駆け上がるが、朝鮮人民軍兵に背後から撃たれる。サイトウは朝鮮人民軍兵を撃退し、最上階に上がる。
重傷を負ったパクは信号灯を再び点灯させようとするが力尽きて息絶える。
サイトウは何とか信号灯を再び点灯し、261隻の連合民界軍艦隊を無事に航行させることに成功する。
1950年9月15日、午後5時30分、連合民界軍のインチャン(仁川)港への上陸が始まった。
午後6時33分、連合民界軍のウォルミ(月尾)島への上陸が始まった。
1981年9月27日、『朝日新聞』朝刊にフジテレビの「楽しくなければ、テレビじゃない」の広告が掲載された。
1982年5月25日、中央公論社が隔月刊の高級女性ファッション誌『marie clair Japon(マリ・クレール日本版)』を7月号(480円)で創刊した。
1983年2月28日、『marie clair Japon(マリ・クレール日本版)』が4月号(480円)から月刊になった。

1990年12月5日、東芝EMIが、「ハリウッド・スーパー・スターズ」、『地獄への退却』Rewtreat Hell!のVHS(TOVE-3077、税込9,780円)を発売した。
1990年12月25日発売の『marie clair Japon(マリ・クレール日本版)』1991年2月号(700円)に、54歳の蓮實重彦(1936年4月29日~)の連載、第18回「世紀末のビデオテーク通信」、「ジョセフ・H・リュイス監督の『地獄への退却』をビデオで見直しながら、彼の傑作『拳銃魔』の日本再公開を祈らずにはいられなくなった。」が掲載された。
1991年11月25日発行、蓮實重彥著『映画に目が眩んで』(中央公論社、本体2,864円)に「ジョセフ・H・リュイス監督の『地獄への退却』をビデオで見直しながら、彼の傑作『拳銃魔』の日本再公開を祈らずにはいられなくなった。」が再録された。
2021年の映画劇『チャンジン湖』


2021年9月21日、第11回ペイジン(北京)国際映画祭(新型コロナウイルス流行のため会期が9月21日~29日に延期された)で、中国共産党成立100周年祝賀作品として製作された「中国勝利三部曲」の第2作の1950年11月27日~12月11日の「チャンジン湖の戦い」を中国人民志願軍の視点で描く映画劇『チャンジン湖』长津湖(176分)が公開された。
撮影は2020年10月25日~2021年5月25日におこなわれた。
制作総指揮は67歳のホアン・ジェンシン(黃建新、1954年6月14日~)だ。
脚本は、66歳のホアン・ジェンシン(黃建新)と47歳のラン・シャオロン(蘭曉龍、1973年5月26日~)、監督は、68歳のチェン・カイク(陳凱歌、1952年8月12日~)、ヴィエトゥ人の70歳のトウ・ハク(徐克、1950年2月15日~)は、56歳のリン・チウイエ(林超賢、1964年7月1日~)だ。

中国人民志願軍第9兵団第7中隊を率いる中隊長ウー・チアンリー(伍千里)のモデルは、中国人民志願軍第27軍第80師団第239連隊第2大隊第4中隊の22歳の中隊長リー・チャンイェン(李昌言、1928年7月~2022年11月22日)だ。2020年10月25日~2021年5月25
ウー・チアンリー(伍千里)を37歳のウー・ジン(呉京、1974年4月3日~)、チアンリの弟のウー・ワンリー(伍萬里)を20歳のイー・ヤンチェンシー(易烊千璽、2000年11月28日~)が演じた。
中華人民共和国内で映画劇『チャンジン湖』长津湖を批判する文章を載せたウェブ言論は、中国共産党政府により検閲された。
1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍のテハン民国領への奇襲攻撃により、朝鮮戦争が始まった。
中華人民共和国のチョーチアン(浙江)省ホウチュウ(湖州)の貧しい漁民ウー(伍)夫婦と三男ワンリ(萬里)が水上生活をする家に、休暇を貰って久し振りに帰郷した中国人民解放軍の次男チアンリ(千里)がアメリカ連合国の支持する国民党軍との戦争で戦死した長男バイリー(百里)の骨壺をもって帰る。
しかし、朝鮮戦争が始まったため、帰省休暇は中止となり、チアンリーはは軍に戻る。
1950年9月15日、インチャンに70歳のマカーサーの率いる連合民界軍が上陸し、9月28日にソウルを奪還した。
連合民界軍は北進を続け、中華人民共和国辺境のヤールー川(鴨緑江)流域も、空爆されるようになる。
1950年10月4日、ペイジン(北京)のチョンナンハイ(中南海)で、56歳のマオ・ツオトン(毛沢東)に朝鮮戦争の戦況が報告される。
1950年10月5日、マオ・ツオトン(毛沢東)は51歳のポン・ドーファイ(彭德懷、1898年10月24日~1974年11月29日)を自宅に呼び、北朝鮮に援軍を送る決意を告げる。
ポン・ドーファイ(彭德懷)は、チャンジン湖(長津湖)で連合民界軍と交戦すべきという考えを話し、中国人民志願軍の司令官に就任する。
1950年10月9日、連合民界軍が北緯38度線を越え、北朝鮮を北進する。
1950年10月20日、連合民界軍が北朝鮮の首都ピョンヤンを占領する。北朝鮮は首都を中華人民共和国との国境にあるシニジュに移す。
1950年10月24日、70歳のマカーサーが連合国陸軍第10軍団長の57歳のエドゥワードゥ・M・アーモンド少将らに、北朝鮮全土の制圧を命じる。
中国人民志願軍の副司令官の43歳のソン・シルン(宋時輪、1907年9月10日~1991年9月17日)が中華人民共和国と北朝鮮の国境付近のチャンジン湖(長津湖)に派遣される第9兵団の全権を任される。
中国人民志願軍第9兵団第7中隊のチアンリ(千里)のもとに、親にも内緒で志願したワンリ(萬里)がやって来て、共に列車で出征する。
1950年11月27日、チャンジン湖(長津湖)国境付近で、中国人民志願軍第9兵団第7中隊が、アメリカ連合国陸軍第31歩兵連隊(31st Infantry Regiment)の陣地を奇襲し、司令官アラン・マクリーン大佐(Colonel Allan MacLean)を捕虜にする。
1950年11月28日、70歳のマカーサーが連合民界軍の南への撤退を許可する。
1950年12月24日までに105,000人のアメリカ連合国軍兵士が撤退し、中国人民志願軍第9兵団がフンナム(興南)を占領した。
2021年11月3日、『現代ビジネス』(講談社)に、古畑康雄(1966年~)「悲惨な勝ち戦「長津湖」:中国が戦意高揚狙う朝鮮戦争映画のきな臭さ:真相の暴露を恐れ、相次ぎネット統制」が掲載された。
2022年の映画劇『チャンジン湖の水門橋』

2022年2月1日、中華人民共和国で、映画劇『チャンジン湖』长津湖の姉妹篇の映画劇『チャンジン湖の水門橋』长津湖之水门桥(149分)が公開された。
撮影は2021年におこなわれた。


2022年9月30日、TOHOシネマズ 日比谷ほかで、映画劇『1950 鋼の第7中隊』の河合彩子訳の日本語字幕版がR-15指定で公開された。
日本語字幕では漢字の人名は日本語音読み平仮名ルビで表記された。


2022年12月9日、シネマート新宿ほかで、映画劇『水門橋決戦』长津湖之水门桥の河合彩子訳の日本語字幕版がPG-12指定で公開された。


2024年8月23日、新宿バルト9ほかで、映画劇『ソウルの春』서울의 봄の福留友子訳の日本語字幕版が公開された。