言語の幅

 最近、気になることが一つある。とある人がネットで話した自分は英語ばかり学んで、いよいよ母語より上達になったってこと。そのコメントに、一番多くいいねされたのは、「大体二歳くらいすでに英語系の国にくらし始めたことでなければ、母語より英語の方が上達のわけがねえ。かっこうつけんじゃねえ」って。

 普通からいえば、この人のコメントは尤もだと問題はない。だけれど、元々理想的な状態で下したものだから、私もここで理想的な状態の上で自分の考えを下すーー今の時代では、学ぶ言語は母語より上達のことは可能である。

 言語がどれほど上達でしたか、その判断することはその人が話した言葉或は下ろした手書きから分かれることでしょう。母語話者だって、だれでも自分の母語を全ての部分を分かりきったとは言えないだろう。古典、専門的な術語、或は複雑な意味を表すとき使う言葉、その中に必ずその人が使えないまた聞いたって分からないものが存在しえる。

 そこに、私が話したいのは、「言語の幅」っていうものなんだ。

 それぞれの人の使える言葉、実は幅があるのだ。その幅、或は境界線、それを決めたものは、大体その人のくらしてる環境やら、受けた教育やら、自分の勉強やら、そして現代しかないもう一つの媒介ーーインターネットである。然もこれらの影響は不変ではなく、過去は自己に対する教育の熱心家だとしても時間の作用によって変わる可能でもある。

 そこで、外国語の学ぶは自己教育の中の一つとして話してみよう。

 最初に、どの外国語でも、既に母語そして母国と違う文字、発音、くみ上げ方、考え方、乃至文化が乗せておる。外国語を学ぶことだけで、その人の使う言語の幅、すでに広がってゆく。

 その次、「自分の言葉の幅」を決定するのは、母語と学んだ外国語で共同的に決めること。先に言った母語の幅を決めたことはもちろん外国語に適用ーーけれど、外国語の幅を決めることは、母語より自由だことは一つの違うところ。確かに、自分の母国のどこで住むか、どのような人たちとつきあって近い言葉を交わすか或はどのようなネット生活をするかみな人それぞれが、たれだってお金持ちではないし、誰でも仕事のあとで枕草子などを捲る趣味はないしーー全てのものは、なんとなく知らぬ間に決めてたの感じ。また、前にも話したことのあるインターネットが人々の使う言葉の多様性を減らすことも、その実、母語の幅の縮まること。

 もちろん、母語話者が古典など、またほかの母語の文豪たちが書いた作品などを読むのも言うまでもなく母語の幅の拡大することが、みんなができて、またみんなが考えるのならなおのことだが。

 外国語を学ぶこと、それはすでに自由な選択である。どの言語を学ぶか、どんな形で学ぶかまたどんな材料を使って学ぶか、そこに学んだ外国語つれて拡げた言語の幅以外、いろいろの選択そして決めること自身、それが言語の幅の縮めることへの挑戦だ。言葉には思想が乗ってる、そして思想を現すものである。言語の境界は思想の境界である。「語りきれぬものに沈黙を保つしかない」だけれども、普通には語れるものに対して使える単語、本音を表す言葉が見つかれず、人々曖昧な言語でそれを表し、使ってる言語、母語であろうか外国語であろう、実は幅が縮まってくる。

 母語より外国語の方が上達の可能性はある。言語の幅は縮める存在だからまた拡げる。自分から違うものを見て、新しいものに興味を持って、学んで、そんなことで既に言語の幅が拡大できる。慣れた環境にいて、繰り返した言葉を使って、時間の経つことに思想でも縮まっていて…

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