
声を出すこと・伝える意識 〜声が小さいことに悩んでボイトレを始めた話〜
声が小さいと言われて悩んでいる人。
しかも、気がついたらそう言われるようになっていた、無自覚だったという人。
そんな人間の1人として、その経験を書いてみたいと思う。
声が小さいことも1つの個性であって、他人からとやかく言われる筋合いは、本来ないのだと思う。
けれど、声は重要なコミュニケーションツールの1つだから、本人にとって大きな悩みの種になり得る。
現実問題として「声の小ささ」が課題となったから取り組んだ、これはその1例というだけ。
まだ気づきの過程の中にあるけれど、同じような経験をしている方の、何かしらの参考になれば良いなと思う。
ボイトレはじめました
この夏、ボイストレーニングに通い始めた。
歌う練習ではなく、純粋に声を出す練習をするのが目的である。
日常生活の中で当たり前に行なっている、行えているはずの『声を出す』ことの練習である。
そして、物心ついた頃から当然のものとして行なっているはずの『声を出す』ことがあまり上手くできていない、という現状がわかったのである。
きっかけ 「いつもそんなに声が小さいんですか?」
社会人になって気づいてみると、公私問わず、声が小さいと言われること・聞き返されることが増えていた。
職場での朝礼やミーティング、プライベートでのお買い物やメニューの注文…などなど。
特に困るのが仕事の時で、朝礼で何回か言い直したり、ミーティングで聞き返されたりすると、もどかしくストレスに感じる。
とりわけ(職場の中では暗黙のうちに)時間の相対的な価値が高い役職者と接する時は、勝手なプレッシャーを感じていた。相手にとっても、聞き取りづらいわ、聞き返すのは手間だわで、恐らくストレス要因であると思う。
ある時、中途社員を対象とした社内研修で講師を務めた際に「いつもそんなに声が小さいんですか」と聞かれた。
まったく他意の無い質問だとわかっていたのに、つい先日まで知らなかった中途の方の客観的な視点から声が小さいと言われたという事実が、質問のストレートさと相まって、ボディーブローのように後からじわじわと心を苛んで、1人しょげた。
他にも色々あったのだが、これが最も印象的で決定的な、ボイストレーニングに通おうと決めたきっかけであった。
「ボイトレは歌やナレーションの練習」だと、何かしらきらびやかなイメージを持っていた自分にとっては、「声が小さい悩みでボイトレ?」とハードルの高い決断ではあった。
ただ、自身では声を出せているつもりだったので、誰かの力を借りるしか改善方法が思いつかなかった。
イメージと違わず、簡単に調べると歌唱やナレーション教室の華やかなサイトばかり目につくが、適切なキーワードで検索すれば、『声を出すこと』自体の改善に取り組む教室も見つかった。
『ボイトレ』は『声を出すこと』自体のトレーニングでも通える!!
こんな小さな発見が、今に繋がっている。
声が小さいと悩んでいるがボイトレは敷居が高いという方には、知っていただければなと思う。
(自分が世間知らずだっただけかもしれないが…)
自覚の無い「いつから声が小さいのか?」
おかしいな、と思う。
小さな頃は、内気ではあったが、家では喧嘩や遊びで騒がしくして叱られたものだったし、外でも気が乗ればテンションは上がる方で、むしろうるさいと言われることの方が多かった。
学生時代にスピーチやナレーションで人前に立った時も、緊張し、早口だと指摘は受けたが、声が小さいと言われたことはなかった。
大学入学後に1人暮らしを始めてからも、日常生活で初めましての方々とのやり取りが増えたが、今のように聞き返されることはなかったと記憶している。
とすれば、社会人になるまでは、普通に声を出せていたのだということになる。
はて、では、いつから声が小さいと言われるようになったのだろう?
・・・
それが「いつから」にまったく自覚がない。
聞き返される・声が小さいと度々言われることに、ふと気がついて、それからやっと、そういえば喉がつっかえているような感じがしなくもないのかな、と感じ始めるという体たらく。
この変化に、本人はまったくの無自覚だった。
振り返ると、この、自覚の伴わない無音の変化が、恐ろしい。
状態は外から見ると明らか
こんなにも本人は自覚できていなかったのに、レッスン初回、挨拶の第一声で、先生にはわかってしまった。
・息が出るのと声が出るのとでタイミングがずれて、声が出るのが遅くなっていること
・声の音そのものや喉の筋肉等を後ろに引っ込めてしまっていること
…ん?
息と声は、一緒に出るものではなかったか?
喉が下がっているとは?
疑問符だらけになりながらも、声の小ささは身体の癖によるものなのだと理解した。
こんな癖が気づかぬうちに身についてしまっていたとは。
こんなにも自覚なく、声を出せなくなっていたとは。
期せずして全く別の機会に、関連する気づきがもたらされた。
先日、通っている心理学の講座で「最近あった嫌だったこと」がシェアの課題になった。これは聞き手が話し手の身体状態にも思いを巡らすワークだった。
自身は、上司に急ぎの要件を何回か催促しなければならなかったことをシェアしたのだが、その際、相手の方から「喉が苦しい感じがする」「言いたいことを喉元でぐっと抑えている感じ」とのフィードバックを受けてハッとした。
もしかしてこれだろうか?
振り返ってみると…
社会人になり、会社という「効率的に利益を出すことが存在価値」である環境で働く中で、周囲や上司に気に遣ったり、自分の発言の意味と相手の時間コストを考えたり、そんなことを繰り返すうちに、「言っても良いのだろうか?」という意識が芽生えていた。
上司はただでさえ忙しいプレイングマネージャー。
部署が大きくマネジメント対象が多いことや差込依頼が多いこと等々の事情も加わり、ピリピリしていることも稀ではない。
新人の頃は、勝手がわかっていなかったこともあって地雷を踏み抜いたことも多々。躊躇いと共に、恐れも感じ始めていた。
元々、他人の状況や機嫌を気にするタイプだったので、社会人という立場で相手が上司や同僚だったら尚更のことだと思っていた。
過去、仕事で忙しい母親に話しかけて怒られたことがひとつの教訓として記憶にあり、とりわけ忙しい人に話しかけることには注意を払っていた。
それが、気づかぬうちに「言ってはいけない」という意識として固定化されて、それが身体の使い方(声の出し方)にも影響し、最終的には身体の癖にまでなってしまったのではないか?
加えて、社会人になった後の帰省時に、父親から「言葉の最後がごにょごにょしていて、言っていることが分かりにくい」と指摘を受けたことを思い出した。
日本語は文末で意味が変わる言葉。きちんと言い切らないと意味が通りにくくなってしまう。
言い切れない、末尾が尻つぼみになる癖、
これこそまさに「人に自分の言葉を伝えることを恐れている」癖だ。
自信なく言葉を引っ込めて、相手の解釈に任せ、相手の反応をうかがう。
この「言葉を引っ込める」感じが、音や喉を引っ込める身体感覚とリンクした。
そうか、徐々に強くなった発言忌避の「意識」から、「身体の癖」が作られていったのだな。
原因が腑に落ちた。
「意識」と「身体の癖」、それぞれにできること
出発点である「意識」。
「意識」に思い至ったのはボイトレに通い始めた後のことで、身体の問題を解決すれば良いと思ってしまっていたが、根っこには「意識」があるのだから、ここにもアプローチが必要だろう。
この「意識」は会社という環境で育まれたのだから、別の環境で解けないだろうか。
安全安心に伝えられる、伝えたいと思える場所を見つけて、そこで引っ込めることなく伝える意識を育むのだ。
「言っても良いのだろうか?」という意識を引っ剥がすのだ。
その意識を無くして、初めて、自然体に「言える」状態になるのではないか。
これはもしかすると、内向型の自分に取って、ボイトレに通うことより難しい問題かもしれない。
ただ、ボイトレという、声を出して良いことを前提とした場所・時間自体が、1つの安全な環境であることは確か。
一石二鳥と思って気長に励みつつ、自分の安全な居場所づくりに取り組めばよい。
そして、そもそもの出発点は「意識」だとしても、意識改革だけでは直らない「身体の癖」は、
それこそボイトレでプロのお力をありがたくお借りするとしよう。
ボイトレに通ってみて…
その練習は、限りなく必死でかっこ悪い。
そして、その必死さが楽しい。
月に1度のレッスン、少しずつ少しずつ練習を重ねる。
大人が必死になって、子どもの遊びにあるような呼吸や発声練習も含めて、体当たりで試みているのは、客観的に少し滑稽でもある。
身体の意識していない癖はなかなか体感できず、ご指摘を受けながら手探りで練習し、終わりの時間になって違いに気づくということの連続である。
気づきには退化もあって、高校の音楽の時間では歌えていた範囲の音程が取れない、なんてことに気づいてしまったりする。内心へこむが、ご指導についていくのに精一杯で、気にし続ける余裕はない。
少しでも出来るようになったとご指摘いただくと、出来るということを素直に受け取るのは難しいけれど、少し嬉しくなる。
小さな声から脱却し、気持ちの良いコミュニケーションが取れるようになる、というゴールまでの道のりは、まだまだ長い。
けれど、幼い頃の自転車の練習のように、大人になって身体の「できないこと」を直視し、必死に練習すること自体も悪い経験ではないと思う。