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写真を撮らないことについて~インスタ世代の視点から~

 みなさんは、目の前に美味しそうな料理がある時に写真を取りますか?

ここでハイと答えた方

私と同じです。(ハイタッチ)

巷では、食事が目の前に出てきて、写真を撮る人のことを「インスタに洗脳された哀れな人」と揶揄し、蔑んでみる傾向にあります。(そう感じるのは私だけでしょうか?!笑)

そう思われても、私は写真を撮るこの手をやめませんでした。なぜなら、写真を撮ることによっていつでも鮮明に思い出を甦らせられると信じていたから!

だけど最近、思い出って、そもそも蘇らせるためにあるものなのだろうかと考えました。

思い出は、それらが入り混じって曖昧な集合体となって自分の中に蓄積され、巨大な活力となって自分の生を支える、そういう捉え方もあるのかなと最近は思うのです。

それともう一つ、逆に写真を撮らないことによって、人間の『思い出す能力』が鍛えられる、というパラドクスもあるなと思いました。

村上春樹は言っています。

紀行文を書くときは写真は取らない。
撮ってもせいぜい1、2枚だと。その方が鮮明に記憶に残るし、それは匂いや空気にまで渡る。と。

こんなことを考えたのも、先週、実家に帰って母と話をしたからでした。

母が「最近、旅行をした」と言ったので、その時の写真を見せてよ、と言ったら「写真は撮らないタイプだ」というので、私は熱心に写真を撮るメリットについて演説し、あげくには「じゃあ台湾旅行(母と一緒に行った旅)で何食べたか覚えてる?!」と聞いたら、なんと私よりも母の方が覚えていたので驚愕しました。

自分の脳ではない外付けハードディスクに(スマホのこと)、記憶を収納することは、一見便利で効率的に見えますが、それによって失っているものはないか、自分自身の能力形成の機会を摘んでいるのではないかと、

時には振り返ることも大切なのかなと思いました。

脳はいつになっても鍛えられるということですし、負担をかけることも時には大切…かも⁈

 まあともかく、自分の考えを母に押し付けて演説してしまっていたことを後悔…。やっぱり何事も、自分が正しい、教えてあげようと、たとえ善意でもそう思うのはやめようと思いました。

以上、最近、写真を撮ることについて考えたことでした。

夏が来てますね。

夏のHeineken。最近人生初のクラブに行きました。すっぴんで。

Bye~

※タイトルの写真は、応援しているイラストレーターのakilandさんのものです。


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