モノクローム専用機の魅力
「ユーザーの声に耳を傾ける」というマーケティングの法則に則ったかのような勘違いをして、いらぬ機能をトッピングしてしまい本来の味が消え失せてしまう料理を作るような真似をおかすメーカーが多い中、「モノクローム専用デジタル一眼レフ」という「新しいマーケット」を作るイノベーションを起こしたK-3iiiモノクローム。麺に拘りました、というアプローチは、動画も夜間撮影も複写も何でもござれぃのミラーレスの風潮に釘を指すようで面白い。
ミラーレス競争から早くも離脱してしまい(Qという名機があった歴史を忘れてはならない)一周遅れの感もあるペンタックスが取った理念と戦略は素晴らしいものだ。誰もいなくなったらブルーオーシャンなのだ。
単機能がもたらす利便性や身体性は価値は高い。カラーが撮れないというのは、モノクロームユーザーを色彩の呪縛から解放したのだ。
カラーの撮れるカメラを持っているおかげで〈カラーで撮ったほうがきれいだな〉という雑な情報が(ただでさえ失いつつある)集中力を削り取る。研ぎ澄まされたであろう視神経をナマクラなまなこにしてしまう。
カラー情報がありのままであり、白黒写真というのは墨絵の様に世界をグレーに落とし込んだものと捉えられるかもしれない。
しかし、カラー情報というのは、人間の脳が勝手に色付けている幻想に過ぎない。好ましいものにはきれいな色を、危険なものには派手やかな警戒色を…といった具合だ。陳腐な夢でさえ、脳のシナプスがゼロイチ情報だけで、立体ホログラムを脳内で構築してしまう。現実世界とて同じことだ。
動物の中にはカラー情報がないものもいるが、それは嗅覚などが優れていて、視覚情報に過度に頼らなくていいだけの話だ。日中しか役に立たない光子に依存するより臭覚は信頼度が高い。
モノクロームこそが、身勝手な脳という演出を取り除いた本来の造形を捉える方法なのかもしれない。可愛そうな恐竜は陳腐に色づけられてしまい、恐ろしい竜から道化まがいの生き物に変わってしまった。モノクロームこそ、造形物をきらびやかさから解放して、正しい姿を具現化する方法なのかもしれない。