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応援団にかけてきた今まで



パンクロッカーの井下斗和です。

今日はPLATHOMEのプールデイがありました。ちょうど良い気温の中で、プールに飛び込んだ瞬間の爽快感は何とも言えないものでした。普段着のままプールに入るというのは、正直少し気持ち悪さもありましたが、その違和感さえも含めて夏の思い出になりました。

さて、本題に移りたいと思います。今回のテーマは「応援団にかけてきた今まで」です。

私が初めて応援団に入ったのは、小学5年生の時でした。実際は、小学4年生から応援団になることが可能だったのですが、最初の挑戦で私は惜しくも落選してしまいました。悔しかったのは確かですが、それでも翌年には見事に応援団に入ることができました。これが私の人生の大きなターニングポイントになったのです。

応援団に入った時、私を待っていたのは一人の熱い先生でした。その先生は常に魂を燃やし、全力で叫んでいました。時には厳しく、時には優しく接してくれるその姿勢に私は心を打たれました。応援団の活動を通じて、私は「この先生に負けたくない、他の団員に負けたくない」と強く思うようになり、全力で頑張りました。そして、迎えた本番の日。緊張の中、魂を込めて応援をしました。

しかし、ここで私は衝撃的な出来事に直面しました。自分の同じ組の団長の子が、突然「お前うるさいから出るな!」と言ってきたのです。今まで全力で頑張ってきた分、その言葉は胸に突き刺さり、涙が止まりませんでした。さらに、先生までもが「迷惑だから追い出そう」としてきました。その時の怒りと悔しさは今でも忘れられません。それでも、出ると決めた以上、途中で投げ出すわけにはいかないと思い、気持ちを切り替えて最後まで全力で応援し続けました。結果として、たくさんの方々から「よく頑張ったね」と声をかけてもらい、自信にもつながりました。

小学6年生になると、私は再び応援団に立候補しました。今度は団長にも挑戦しようと決めましたが、団長立候補の際、緊張してしまい、話す内容が頭から飛んでしまいました。その結果、支離滅裂な言葉を口にしてしまい、あの時の悔しさは今でも忘れられません。しかし、それでも気持ちを立て直し、本番まで全力で頑張ることを決意しました。練習の途中、声を出しすぎて声が出なくなるというトラブルもありましたが、なんとか本番の日を迎えることができました。今回も、5年生の時以上のものができたと思っています。

しかし、この時も一筋縄ではいきませんでした。団長から「もう少し声量を下げて」と指摘されましたが、そんな調整はできませんし、手を抜く方が恥ずかしいと感じました。だからこそ、私は全力で応援し続けました。その後、また多くのフィードバックをもらうことができ、非常に嬉しかったのを覚えています。

そして、中学1年の秋。私は生徒会選挙に立候補しました。公約の中には、「応援団を作る!」という目標も掲げましたが、具体的な公約を言ってほしくない先生たちが私を止めにかかりました。その結果、内容をぼやかすことになり、悔しさが募りました。結局、生徒会選挙は落選に終わりましたが、応援団への想いは消えることはありませんでした。

中学2年生の秋にも、再び生徒会長選挙に立候補しました。再び「応援団を作る」という公約を掲げましたが、今回も先生に止められてしまいました。それでも、私はどうしてもこの夢を実現したいと思い、強く想いを伝え続けましたが、先生の反対は頑なでした。そして迎えた本番の日、私は堂々と自分の公約を発表しました。しかし、今回もまた落選してしまいました。生徒会の立場で応援団を作るという目標を達成することができず、悔しさが募るばかりでした。

そこで、私は新たなアプローチを考えました。それは、署名活動を通じて応援団を作るための支持を集めることでした。結果として、学校の8割の方々が賛成してくれました。しかし、それが先生にバレてしまい、無理やり署名を奪い取られてしまいました。この時も本当に許せない思いでいっぱいでした。私は強く反論しましたが、先生は感情的に対応し、納得のいく説明は一切ありませんでした。その悔しさを胸に抱えたまま、私は体育祭実行委員に名乗りを上げました。内部から応援団を作るための活動を続けようと考えたのです。

体育祭実行委員の先生に「応援団を作りたい」と伝えましたが、「ほとんどの人が反対しているから」と意味の分からない言葉を言われました。署名でほとんどの人が賛成していることは明らかだったのに、それを無視されることに対して怒りが湧き上がりました。

その悔しさを抱えたまま、私は世田谷総合高校に進学しました。高校でも先生に直談判し、「応援団を作りたい」と訴え続けました。世田谷総合高校では、援団という伝統的な応援ダンスが行われていましたが、私はどうしても応援団の部を作りたいと思っていました。しかし、これもまた受け入れられることはありませんでした。

それでも、私は応援団にかけた熱い想いを持ち続け、今の音楽活動にその魂が引き継がれています。私は、応援団という形にこだわることなく、ライブを通じて誰かの心に届くような応援をしています。今振り返ってみると、私は永遠の応援団として、音楽を通じて人々にエネルギーを届け続けているのだと思います。

これが私の応援団にかけてきた思いです。


井下斗和でした。



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