人間であるということ
はじめに
こういう話に需要があるか分かりませんが、友人と話していた時価値観が違ったので、これは興味深いと思い私の人間に対する価値観を記します。
なお、あくまで私が思った事を書き散らしているだけなので、いかなる思想を批判したり擁護したりするものではありません。
人間について
人類は自然界の敵だという人もいます。仰る通り、人類が破壊してきた自然は数多く、人間のせいで絶滅した動物や失われた楽園は多いと思います。しかし、私はこれもまた自然の在り方なのでは無いかと考えます。
さて、私は無宗教者ですが、仏教や神道的な感性が備わっていると考え、その理論には大変興味を持っています。とはいえ割とざっとした理解しかしてませんので悪しからず。
仏教より。世界と人間について
ここで、仏教について自分の論を述べます。ここで話すのは釈迦の仏教についてです。釈迦は生・老・病・死を苦しみとし、これから逃れる術を考えました。釈迦は生きることそのものを苦しみとしたんですね。その結果、涅槃に至る事を思いつきます。
涅槃に至るとはどういう状況かと言いますと、火の消えたロウソクをイメージすると良いでしょう。火がないから火は消えませんし、火がないのでロウソクは溶けず、ただそこには静寂と安念があります。釈迦は死後、そのような境地に至ることを目的としました。
知っての通り、仏教には輪廻転生という概念が存在します。六道や十界という世界の層があり、死んでも何処かに生まれ変わります。それこそ、獣に生まれ変わることもあるでしょう。そう考えれば、個はどうしようもなく世界の一員であり、動物であれ人間であれ、魂を共有する社会と一員と見なせます。であれば、広い目で言えば我々は生きる中で常に同族殺しの罪を背負うのかもしれません。
日本人と自然の関係性について
さて、自然と人の関わりと言えば神道を思いつくのは不自然ではないでしょう。日本において神とは自然の体現者であり、しかしやたらと人間くさいのです。まぁ人間くささは日本人の擬人化文化のはしりだと思うのでここでは言及しません。ですが、自然を恐れながらもそれを利用し、程々に付き合いながら生きる人々が見られます。
里という言葉がありますが、これが日本人と自然の関係性をよく表していると思います。一見自然に囲まれているイメージがあるものの、内実は自然を破壊しそこに住まわせて貰っているのです。それが土砂崩れに巻き込まれたとしても、山に対してキレはしません。つまり、我々日本人は自然に対しお互いさまの精神で共存しているのではないでしょうか。
まとめ
さて、2つの宗教を見てきましたが、つまるところこのような考えを根底に、私は、人間は世界に存在する命の一員であり、そこに善悪は存在しないと考えてます。
しかし自然に対する罪悪感を忘れてはいけません。それは我々にできる自然への精一杯の誠意であり、知性ある人間としての矜恃だと思うのです。
長々と僕の思考を読んでいただきありがとうございました!
それでは、おつかれサメです〜〈 ᵕ ´ ›› ∋ )≪