最後の連休
今日は、五連休の最後の日。社会人になってこれ程長い休みは中々ない。折角そんな長い休みの最終日だから、家から出て自由に過ごそうと思う。
外は陽光が眩しく強い光を浴びせて来るにも関わらず、氷を押し付けられた様な寒さが私の胸部を襲って来た。
そこで、自販機に向かい、百五十円を入れて温かいペットボトルの緑茶を手にした。飲めば瞬く間に寒さは温もりへと塗り替えられていった。
都営新宿線で目的地に向かうが、驚く程車内は静かであった。人々の会話が耳に入らないのだ。人から生じる音は、私の斜めの席に着く男性の咳や、幼稚園位の男の子が母親に何かボソボソと話かけるくらいである。
各駅停車に対して、私は事情を土台としての色々な想いを持つ。これから出勤であったり、誰かと待ち合わせをする時には、もどかしいな早くしろと、うずうず不満や文句を抱くが、今みたいに別に急いでいる訳でないなら、昔貴族が牛車に乗り、ゆっくり流れる景色を目に映し、優雅に過ごすのに重ね合わせられると想う。
私が向かった船堀タワーは、煙突を四角にした様な、スラッと軽快に感じる格好で、船堀駅を見下ろす様に聳え立っている。
ここは、東京の三大タワーの一つとされているが、東京タワーやスカイツリーと違い、金は一銭も取られずに絶景を堪能する事が出来、私みたいな金無しだけど外出したい者への気持ちに完璧に応えているのだ。
早速、景色を目に入れて見ると、授業の無い日ならではの有様である生徒一人も見受けられない校庭、大都市には付き物のしょっちゅう往来する地下鉄の屋根、そして象の群れみたいな夥しい建築物が黙って佇んでいた。
船堀タワーの近辺には、高層ビルが建っていない為、遙か遠く広く爽快に見渡す事が出来る。私は、西側の森林地帯みたいにビルの群がる都心部を見て、あんなエリアにこのタワーを建てても、台無しでしかないなと心中で呟いた。
私の居る百三メートルの展望室は、初めは定年を既に迎えたに違いない人達ばかりであったが、それも軈て入れ替わっていき、最早就学もしていない幼い子ども達と付き添いの母親だけになっていった。
矢張り、私より前の世代より、後の世代の人の方が、盛んに声を放つ。世代ごとの共有の点を掘り出すのも面白い。かつての私、いずれはの私と捉える事も出来る。
そろそろ、展望室を後にしようかと思った。だけど、これで帰宅という訳ではない。これからタワーの一階に在る店でコーヒーを口に与えながら、目に本を与えるつもりである。その後でまた、展望室に舞い戻るのも良いだろう。
コーヒー店で私が頼んだトーストは、パンとチーズにハムが挟まれおり、口に入れると厚みが齎す充実感と、温もりと一体化された丁度良いしょっぱさが、味覚的な快感を誘った。トーストを凄い甘い菓子でも食べた後に食すれば、更に美味くなるだろう。
丁度、その時ひと月前に買った新しいスマホにメールが訪れた。くれた人は去年三月まで働いていた埼玉県の職場で出会った青年だった。内容は、さっきここからの眺めを撮った写真のお礼である。
彼は、現在タクシードライバーであるが、間も無く家庭事情も有り仕事を変えねばならないのだ。素直で純粋な性格だから、敵を作る事無く新しい職場でも上手くやれるだろう。
仕事探しで疲れたら、送った景色の写真でも眺めて、希望と壮快をものにして欲しいと思った。 完