福音(ふくいん)とは何か
こんにちは。お読みいただきありがとうございます。
私はプロテスタントのクリスチャンで、聖書やイエスさまのことを、このnoteに綴っていく予定です。
さて、今日は、ものすごく大切なお話をしようと思います。テーマは、福音とは何か、です。
福音という言葉は、良い知らせ、といった意味の言葉で、英語では「Gospel」とか「Good news」と言われたりします。
では、その「良い知らせ」「グッドニュース」とは一体何なのか?
簡単に言ってしまうと、「イエス・キリストを自分の救い主、神と信じるだけで、救われる」というのが、その内容です。
でも、それって一体何からどう救われることなのか、そもそも救われる必要なんてあるのか、だって別に私そんな悪いこともしてないし、人生も楽しくやってるし、そう思われた方もおられるかもしれません。
実は、この福音、グッドニュースを理解するには、もう一つ、バッドニュース、「悪い知らせ」を知る必要があります。
詩篇の一節に次のような言葉があります。
詩篇 14:2-3 口語訳
「主は天から人の子らを見おろして、 賢い者、神をたずね求める者が あるかないかを見られた。 彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。 善を行う者はない、ひとりもない。」
悲しい話ですが、本当の神さまの基準で見れば、正しい、善い行いをする人は一人もいないようです。
それは当然のことなのかもしれません。アダムとエバの話は知っておられる方も多いことでしょう。最初の人間からして、堕落してしまった、そこから人に罪と死が入りました。その性質は現在に至るまで脈々と受け継がれているわけです。
人は人生が終わったとき、誰もが神の前に立たなければなりません。自信、ありますか?
果たしてそのとき一体誰が、神さまから「正しい(義)」と認められるでしょうか。
しかし、神さまから「正しい(義)」としていただく方法は、あります。それも、自分が善行を積むとかお金を積むとかじゃなく、神さまご自身が用意された方法があるのです。
パウロの書いた、新訳聖書のローマ人への手紙という書があります。そこに、こう書かれています。
ローマ人への手紙 3:21-26 口語訳
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」
少し難しい書き方がされていますが、イエス・キリストは、十字架で人間の罪の罰を受けてくださいました。神さまは、イエス・キリストを信じる人の罪をゆるし、「義」として下さるのです。
私たちは、みんな多かれ少なかれ「罪」を犯したことがあります。でも、イエス・キリストをほんとうに信じるなら、人生の終わったとき、神さまの前に立っても、罪に問われません。その罪の罰は、すでにイエス・キリストが受けて下さったからです。地獄に行かなくて済みます。
これが福音、グッドニュースがグッドニュースと言われる理由です。
長くなりましたが、お読みいただきありがとうございます。
さて、そんな「福音」をあなたは、受け取りますか?捨てますか?
イエス・キリストを信じますか?やめときますか?
もちろんあなたの自由です。
しかし私たちだれもが、明日も生きている保証はありません。
今日、信じてみませんか。