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漫画「逃走」のキャプション

 今作のタイトルにもなっている'逃走'は社会システムからの逃走、自己意識からの逃走という構造と実存へのアンチテーゼ的意味合いがふくまれている。
 今作を描くきっかけは、社会的な弱者が起こした陰惨な事件への関心から始まる。トレンドの言葉をもちいるとすれば「無敵の人」ということになるだろうか。秋葉原での殺人事件や京都アニメーションでの放火殺人事件など、誰もが「無敵の人」がおこした事件は一度は聞いたことがあるだろう。私は彼らがそこに至ってしまった根本の原因として複雑に構造化した社会と妄想的-分裂的、破滅的自己との間に強いギャップが生じてしまったからだと考える。ギャップにより社会と折り合いのつかなくなった彼らは社会という構造から抜け出すことになる。それは自殺という形で自己の消滅によってか、何かしらの事件を起こすことにより社会から追放されることによってなされる。フーコーは「狂気の歴史」にて正気と狂気が科学的に分離可能であるとする考えは近代になってからだと述べている。中世の狂人は地域社会において固有の役割を持っていたという。狂人は悪魔という超自然的な力に取りつかれた人とみなされ、信仰の重大性を説く生きた教訓として道徳的な機能を果たしていた。それが近代になると彼らは精神病棟や牢獄のようなものに追放されてしまう。社会から狂人は必要とされなくなってしまった。それはすなわち近代社会は狂人を非神聖化することによって社会の理性化を断行したということだ。このことは現代社会にも尾を引くことになる。表面上は多様性を叫び、差別や偏見をなくす動きになってはいるが、社会的な弱者に対する風当たりは厳しい。むしろインターネットが発達した今、それはますます加速しているように思える。社会からの追放と自己の崩壊により彼らは「無敵の人」になってしまう。それは急速的なものではなく、長い時間をかけてグラデーションのように。
 今作の内容を説明するにあたり主人公の状況を説明しなければならない。彼は薬物、アルコール中毒であり暴力的な父と小心的で父にDVを受けている母、そして愛猫の「胡桃」という家庭の中にいた。主人公は幼いころから父からは暴力を振るわれ、母はネグレクト的で家族からの愛情を受けず育っていた。彼の心の支えは「胡桃」だけであり、それに対してある種の母性のようなものを感じていた。
 そのような家庭の中でもなんとか高校には通い続けて三年生になった。主人公は進路の岐路に立っていた。進学を望んでいたが家族からの支援の可能性は薄く、働くにしてもやりたいことがないため自己嫌悪に陥ることになる。「社会」という「敵」にはさまれた彼は統合失調症を発症する。幻覚と幻聴に苦しむ彼を更なる悲劇を襲う。それは「胡桃」の死である。放し飼いをしていたため自由に外を徘徊していた「胡桃」はある日車にひかれて死んでしまう。その現場を偶然目の前で見てしまった彼は錯乱する。それは絶望的な社会と彼をつなぎとめていた最後の糸がこと切れる瞬間を意味していた。家に帰ると酒と薬物によって昂揚していた父が彼を襲う。結果として彼は父を殺すことになる。「無敵の人」のイニシエーションを通過した彼はその後「敵」をその象徴的行為によって完全に消し去ろうとするのだろう。
 マンガで描かれていることは彼によるこの一連のストーリーの分裂的な回想だ。作中冒頭の彼を諭す男と彼を襲う男は彼にとっての「敵」の擬人化である。表象は黒く塗りつぶされるか、ズームアップがなされており判別できないようになっている。なぜならば彼にとっての「敵」は父のような特定の個人だけではないからこそ特定の記号を持ちえないからだ。それに対して少女として登場する「胡桃」は具体的な表象を持っている。それは彼にとって「胡桃」だけが社会と接続するものを包括していたことを象徴している。
 「逃走」において自‐他の崩壊、それを契機とした「無敵の人」を描くことへの意義は、私たち個人個人が自己と他者への意識を見つめ直すひとつのきっかけとして作用することにあるだろう。

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