昭和のOL 年末といえば、”最強タッグ”
私は昭和の終わり頃に、営業事務として商社で働いていました。そのころの仕事術で昭和と令和との違いを書いています。ときどきは、2000年以降のことも書いています。時々は趣味についても書いています。
昭和のOLはプロレス女子歴40年です。寒さが増してくると、最強タッグの季節だと思っています。セルジオ・メンデスの「オリンピア」を耳にすると、「ああ、もう今年もあと、1か月しかないんだ。最強タッグを視なくては・・・」独り言をつぶやいてしまいます。
長州力の乱入
昭和59年12月8日の愛知県体育館のことです。メインイベント終了後に、長州力らジャパンプロレス勢が乱入してきたのです。当時専門学校生だった私は、プロレス女子友と、愛知県体育館の2階で見ていました。試合はどれも、ドキドキするような展開で、「馬場&木村」が仲間割れしたり、旧国際プロレス軍団が暴れだしたりと、今考えてもとんでもない展開でした。
メインイベントも終わり、帰り支度をしていたら、1階の客席が、騒ぎだし何事かと思ったら、長州力の姿がありました。その頃は、長州力は新日本を退団した長州し、その動向が注目されてきました。まさかの全日本プロレス参戦とは、夢にも思いませんでした。私も友人も、大興奮で手を取り合ってキャーキャー騒いでいました。
馬場さんはすごい興行主
昭和59年の最強タッグには、ザ、ファンクス、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス&ニック・ボックウィンクル、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス、タイガー・ジェット・シン&マイク・ショーなど、外国人レスラーはとんでもなく豪華なメンバーでした。
スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ組を直に目にすることができたことは、私にとっては、すばらしい財産だと思っています。こんなすばらしいレスラーを日本に連れてきてくれた、ジャイアント馬場さんには、感謝しかありません。馬場さんは、やり手の興行主でした。レスラーであり、興行を盛り上げることのできる有能な社長でした。
国際プロレス軍団
長州力が、全日本プロレスに参戦することで、日本人選手にも注目が集まります、長州力とともに、新日本プロレスを退団した谷津 嘉章、小林邦明なども、翌年から全日本プロレスで活躍します。旧国際プロレス軍団も元気でした。旧国際プロレス軍団では、私は、鶴見五郎が好きでした。(2001年から10年間、鶴見五郎のリングネームの元となった横浜市鶴見区で暮らしました。何か縁を感じます。)
最後に・・・
この昭和59年の最強タッグに参加レスラーのうち、お亡くなりになった方もいます。あの、とんでもない迫力は、誰でも一度は見ておくべきだと思っています。12月8日ということで、愛知県体育館での興奮を思い出して書きました。本当な涙ながらに書いていたことは、家族には内緒です。
次は2001年頃、アメリカのプロレス団体、WCW が解体し、WWEに吸収され、さらに旧ECWの選手も参加した、バッファロー大会について書く予定です。この大会は、WCWやECWのメインイベントレスラーが、場外乱闘要員として参加するような、とんでもなく贅沢なイベントでした。これもビンスマクマホン Jr.会長の手腕が実現させた夢のようなプロレスでした。
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