「初音ミクと、相対化される近代」について感想メモ


以下のとりとめない文章は、psy39さんの上記論考への感想というか、思いついたことの書き散らかしになります。

興味のない人には全く役に立たないので、先に注意書きしときます。

**

難しい用語が頻出するので、論の方向性を追うだけで精一杯になりました。
とりとめなく感想を述べるだけになりますが、ご容赦ください。
念のために書いておきますが、以下の文章はpsy39さんの主張が間違いだと言っているわけではなく、より理解しやすい説明が欲しいなあ、という話なのです。

初音ミクのキャラクター・作品・概念が、それら自身を経由して、再帰的に創出されていく(自己創出)プロセスの連鎖をもって、初音ミクのキャラクター・作品・概念を「ミーム生命体と見做す」。ただし、ここで実際にエネルギー源として稼働しているのは、初音ミクに関わる人々(作り手・受け手)になります。
初音ミクが「イマジナリーフレンドとして誰かの心に登場する」とは、「個人にとっての初音ミク」イメージを起点にして、その個人の中で解釈された初音ミクとその物語が再生産されていくことを意味する、とも言い換えられます。それを初音ミクの自己創出の一形態と考えても良いでしょう。

実際に起きていることを把握するうえで図式化も必要ですから、上記の現象を「初音ミク論のオートポイエーティック・ターン」と名付けてまとめることが、議論にとって有意義であれば良いと思います。

ただ「オートポイエーシス」についてはまだ成書を読んでいないのですが、生命が構成要素を回帰的に産出する自己創出システムという考え、で良いのでしょうか。生命の一面をそう捉えることに異論はないのですが、意識や社会のシステムにオートポイエーシスの考え方を適応していくのには異論もあるようですね。もともと生命に対しての考えですから、意識や社会に対してそのまま当てはめられるかどうか。「ミーム」もそうです。遺伝子(gene;ジーン)を模倣し類推して作られた概念ですから、それを「生命体論」として概念同士の関係に適用していくのは、一種の比喩です。遺伝子について得られた知見が、そのまま「ミーム」にも適用できるわけではありませんよね。考えをまとめる際の方向性を示唆する、いわば思考の補助線として「オートポイエーシス」や「ミーム」などの術語を使う分には良いと思いますが、実際の概念同士の関係を記述するのであればもっと分かりやすく説明してほしくなります。

「近代」に関してもそうです。「何か思想とか哲学とか科学とか教育とか家族とか信仰とか言葉とか価値基準とか習慣とか常識とか、そのほか色々なものを含めたパッケージ」であることには賛成ですが、そのように表現するのであれば、「現代」だって「何か思想とか哲学とか科学とか教育とか家族とか信仰とか言葉とか価値基準とか習慣とか常識とか、そのほか色々なものを含めたパッケージ」です。各項目(思想とか~常識とか)について時代ごとに代入する変数がどう変わっていったのか、知りたいところです。

psy39さんの文章から近代の特徴を指している言葉を抜き出すと、「画一・普遍・合理・客観」「理性的」「直交座標」「古典力学」「要素に還元」「確定的・効率的に処理」「大量生産・大量消費」あたりでしょうか。近代国家(官僚制・分業制)、資本主義、科学技術、理性主義・合理主義・還元主義、進歩主義、個人主義などが近代的特徴であるという事については、特に異論ありません。

あ、シンギュラリティは私も読んでないので分かりませんが、『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ)に関してはぜひ読んでほしいです。帯の煽り文で誤解されていると思うのですが、『ホモ・デウス』には「完全で全知全能な存在(=神)に直線的に近づいていく未来や物語」は描かれていません。むしろ、神という概念が消失し、自由主義・人間至上主義が生命科学により引き裂かれている今、そのうえで辿り着く未来について考察している本です(簡潔にまとめづらい……)。必ずや、psy39さんの論考に役立つ本だと思います。

近代から現代への移行がどの辺りで起こったかについては、時代区分の目的によっても定義が変わってくるとは思いますが、1970~80年代あたりに定める論者が多いようです。

ただ、私は現代=脱近代(ポストモダン)とは考えていません。あくまで、ポストモダンとは近代の進歩主義・啓蒙主義に対する批判や近代から脱却しようとする諸々の哲学的・思想的運動を指すのであり、時代区分とするのは誤解が生じると思います。ポストモダン自体も一つにまとまった運動ではなく諸派に分かれていますし、諸論に対してもやはり批判があります。ポストモダンを、何か確立した定礎のように扱わない方が良いかと思います。個人的にも、ポストモダンを標榜する人士の、科学に対する無理解や事実に関する無作法な取り扱い方を一通り見てきましたので、ポストモダンを単純に受け入れるのには抵抗があります。

コトバンクによれば、「現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。」とありますが、あくまで「特徴づけようとする」ですので。この意味での実現が証明された言葉ではありません。


「喩えれば地面がまったいらだと思っていた人が、実は球形をしているのだ」については、最初拝見した時には「中世から近世」への移り変わりでは……? と思ってしまいました。
また、地球儀とメルカトル図法では、地球儀の方が先にできています。メルカトル図法は、地図彫版師ゲラルドゥス・メルカトルが「コンパスだけで遠洋航海する」のを可能とするため、目的地まで地図上に直線を引いてその向きに航海すれば到達できるよう作成したものです。メルカトル図法では、地図上の直線は地球儀上の最短距離(大圏コース)ではありませんが、それは承知の上で作られたものでした。

もちろん脱近代のイメージを説明するための比喩なのは分かっていますが、仮に脱近代のイメージを地球儀や地図で喩えるのならば、むしろ地球儀・地図そのものの意味・意図を問い直し、客観的対象として地図化することそれ自体に疑問を持っていく方向性になるかと思います(これもまた私のポストモダンに対するイメージにすぎませんが)。

量子力学・数学・抽象絵画に関しての指摘は、そういう繋げ方もあるのかと感じました。ただ、ヒルベルトの望んだ完全で一貫性のある公理系も、ゲーデルの不完全性定理により破棄されましたから、そのような極めて限定された意味では「構造のみの世界」は幻想なのでしょう。また、ポストモダン側に立つのであればポスト構造主義によりむしろ「構造主義の形而上学的思考」が批判されそうですが……この点に関しては、まったく知らないので踏み込まずに置きます。


ちょっと話が飛びますが、落合陽一氏は、近現代的パラダイムに対置して計算機的多様性の世界を提唱していますね。

これが果たしてすんなり実現するかどうかはともかく、一つの未来の方向性としては考慮すべきでしょう。『ホモ・デウス』の方が、より詳細で具体性に富んだ示唆をしていますが。


「おそらく数十年は『近代』と『脱近代』とがマーブル模様やグラデーションのように並立し、その交錯や界面、すなわち差異の中で新しい概念が産み出されていくのだろう。」

ラストのここには異論はありません。世界中において、特に日本においては、近代は乗り越えるどころか、全うされてさえいないのですから。初音ミクの立ち位置には様々なものがありうるでしょうが、どれかを選択して実現していくのではなく、マーブル模様のモザイクとなって立ち上がっていくのだと予想します。

まだまだpsy39さんに追いつけませんが、自分なりに考えていくつもりです。それでは、また。

いいなと思ったら応援しよう!