好きな服を集めて、好きな服に囲まれているのが幸せ

いい服を着たい。
いつも、自分がその時思い描く、最高の服を。
私が好きなのは、レースの服。薄い布地の繊細な服が好き。
もともと、シルク、薄手の綿、高級レースなどの繊細で儚い素材が好き。
そんな繊細な素材をふんだんに使って作られた、丈の長い優雅な服が好き。
自分が着ているそういう服が、風にたなびいて揺れるのを見下ろしていると、幸せな気分になる。
だから、いつでも、そういう服を、着ていたい。

レースの服は美しい。この上なくロマンティック。
レースが透けているさまは、日に透ける蝶の羽のよう。
自分にとって、自分が普段着ている自分の気に入った服は、天の羽衣みたいなものである。

毎日、自分の気に入った、美しい格好をしたい。
よくピンタレストでモデルや、コレクション、オートクチュールの服を見て、憧れてる。
きれいな服、きれいな人を見ると、世界にはこんなにきれいな服があるんだ、こんなに美しい人がいるのだ、と言葉にできないほどただ感嘆する。
そんな人たち、そんな服にはとてもかなわない。
でも、自分は自分に出来る限りいい服を集めたいし、いい服を着れる見た目、体型を維持したい。

こんな夢を見たことがある。
自分はまだ幼稚園児くらいの女の子で、やっぱり、自分がきれいだと思う服が欲しい子だった。
中国の伝統的な中庭のある立派な家に連れてこられて、その家の衣裳部屋に来た。
きれいな衣服がラックにいっぱいかかっていて、それを見て、「こんなにいっぱいきれいな服がある!どれも全部着ていいの!?」と言いながら、衣装のかかってるバーの端から端まで駆けて、引き出しを開けて中を検分していた。
小さい女の子の姿のままで。
心の中は、大人になった今でもそういう心境なのだと思う。

今、たくさん服をもっていて、全ての服を服の寿命、モノとしてダメになるまで着るのかどうか疑問なほどの量持っている。
欲しいと思った服を手に入れたいのは、一度逃すと、同じものは二度と手に入れられないから。
昔欲しかったのにお金がなく、買う自由もなく、手に入れられなかった、記憶にしか残ってない様々な服の事を考えると、買える時に買っておくしかない、という結論になる。
実際、買っておかないと、二度と同じものはない。
いいものは基本的には中古には出ないし。
服というのは完全に出会い物で、その時市場に出ている、その時の自分に買えるものしか手元に来ない。
だから、運命的なもの、偶然の采配で手持ちの服たちは、私のところに来ていると思う。

自分の気に入る服ってなかなかない。こだわりがあるから。
自分のサイズに合った服もなかなかない。
だから、いいと思った服は買っておきたい。
服を買うとは、いつでも似合う服、折々の気分に合う服が十分に揃っている、という安心を買っているということでもある。
だから服をたくさん集めてしまう。

それほどたくさん集めた服を、眺めて、袖を通した自分の姿を鏡で確認するのが楽しい、幸せ。
それは、自分が美しいと思って満足しているのでは断じてない。
そうではなく、自分がいいと思う服を持っていて、着たければいつでも着れる状態であることに安心している。
自分がすごく気に入っている服を、たくさん所持して、いつでも好きなだけ着れることに安心感を覚える。
クローゼットを見て、いい服がたくさんあるのを確認すると、嬉しい。好きなものに囲まれて幸せ。
今まで生きてきて、そんな状況だったことはなかった。
幸せを感じる。充足感を覚える。
子どもの頃からずっと、きれいな服をいっぱい集めて、いつでもその中からその時の自分の気分に合った服を選んで、着れるようになりたかった。
家で、気に入ってる服をとっかえひっかえ着て、鏡でその服を着ている自分の姿を確認すると、こんな信じられないほどいい服が自分のもとにあるんだ、そしてそれを今自分は着てるんだ、と思って、安心感と幸福感に満たされる。
家で一人でファッションショーをしていると、どこを探してもないようないい服をたくさん持っているぞ、と思う。

所有しているにもかかわらずなお実在するのか疑わしいほど美しい服がある。
存在を疑うほど美しい服でありながら、同時にこれは自分のために作られた服だ、と思う。
そのような服は、何度も家で試着してしまう。
着ている自分のその姿を鏡で確かめては、嬉しくなる。
その服と自分が一体化していることにありがたさ、嬉しさを常に感じる。
この宝物のように美しい服を何度も着て、いつか私と言えば、あの服を着ている人、と誰にでも思ってもらえるようになれば、完全にその服が自分が一体化したと言える。


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