マンクの週末は父によって埋葬される
昨日、今日とやむを得ない理由で久しぶりにオフィスで仕事をした。改めて着替えや移動によって、1時間ほど在宅勤務より時間が取られることを実感した。初日の大事なミーティングには見事5分ほど遅刻した。ただ、オフィスの下のシアトル系カフェチェーン店の店員は、私の「ヴェンティ・アイスアメリカーノ オンザロック 2エクストラショットのちょい足しミルク」というカスタムオーダーとプラスチック容器に記載する私の名前を覚えていてくれた。また、一緒にたまたまエレベーターに同乗したオフィスの警備員さんも何も言わずに8階のボタンを私の代わりに押してくれた。総じて、なんとなくいつもより仕事がはかどった気がした。久しぶりのオフィスでの勤務だったためか、何か「働いた感」を実感している自分がいる。帰宅後の一人飲みは、いつも以上においしく感じている私が存在している。その勢いで、あと6日間で2本書く予定の1本を書き始めている。
在宅勤務とNetflix
コロナ禍以前は、映画館で最新の映画を年で100本観るという目標(必達は50本)を掲げ、毎年70本ほどは見ていたが、去年はそうもいかず10本以下(正確にいうと6本)という悲惨な結果になった。今年もその傾向が続きそうで憂鬱になりそうだが、ホームシアターで何とか凌いでいる。世界中に飛び回りながら、溜まりに溜まった映画リストの蕩尽や、周りからのオススメ映画の視聴に当てている。いまや、世界がドゥルーズ的な「動きすぎてはいけない」なのである。(ちなみに、福尾氏の『眼がスクリーンになるとき』は去年読んだ本の中でも抜群に面白かった、哲学と映画が好きと言いつつ『シネマ』は挫折した人間として。思考を運動化させるための身体を与え、その「愚かものどもとともにある」ことで、この生を、この世界を信じられるようになり、人間と世界との紐帯は時間的イメージによって繋ぎとめられると、それが映画だと。だから映画史と哲学は一直線だと。Superb。)
Mank/マンクについて
最近観て印象に残っているのは、『Mank/マンク』という映画。Netflix Originalのデヴィッド・フィンチャー監督、ゲイリー・オールドマン主演で、『市民ケーン』という作品でアカデミー脚本賞(9つのノミネート中の唯一)を受賞したハーマン・ジェイコブ・マンキーウィッツという脚本家についての伝記映画。ただ、多くの映画評論家が指摘しているように、伝記映画だからといって史実に基づいているわけではない。(Pauline KaelのRaising Kane vs. Peter BogdanovichのThe Kane Mutinyを、または私のように英語版のWikiを参照せよ。)というか詳しい解説については、TBS Radio信者として、町山智浩氏や佐々木士郎氏の解説に耳を貸すべきだと思う。
Wikiにもあるようにフィンチャー監督の主眼はそこにはなく、なぜマンクが誰でもない誰かで了承していたはずの案件に対して、「ハーマン・ジェイコブ・マンキーウィッツ」という固有名を責任者としてCredit(Creditとはそもそも「信」の意味だ!)に入れるようにと依頼するに至ったのかに興味を持っている。
アル中と信(しん)
ハリウッドの雇われ脚本家とアルコール依存症の同僚(とそのキャラクター造形)ということで『バートン・フィンク』との類似性を挙げる人が多かったが、私が最初に思い浮かんだのは、ビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』とスタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』である。アル中の脚本家(小説家)が書けに書けずに酒と狂気に溺れ、前者については結局タイプライターという自身の身体まで売ってしまし、後者は家族に危害を加えようとする結末である(一応、前者は「更生します」的なエンディングだったと思うが)。ただ、以上の2本の主人公と、本作のマンクは違った。アル中の書けない作家にマンクを陥れていたのは、当初彼が気づけなかったハリウッド特有の政治経済学的な訳があった。そして彼はそこから、ただ「書く」ということと、自分のCredit(信)がある上で「書く」ということの間にある大きな溝がその原因だと気づき、いかにそれらと立ち向かうかのかという過程を描いたのが本作である。端的に言うと、彼は権力者に寄り添う道化師を降りたのである。そうではなく、愚かども(ペテンとでも言おうか!)である私たちと世界が改めて繋がれるように、Credit(信)を、身体を賭けて残したである。
父への弔い
ちなみに、本作の脚本はジャック・フィンチャーで、デヴィッド・フィンチャー監督の父である。物語は父殺しのためとは言われるが、マンクに自分を重ねた父・ジャックというジャーナリストを、子・デヴィッドは本作によって彼らを上手く成仏させ、弔ったのだと思う。『ゲーム』や『ファイト・クラブ』がしっかりと示したように、人間と世界とが信(しん)によって一旦繋ぎとめられること経由させ、それによる世界が信じられなくなる映画的体験を味合わせることによって、改めて人間と世界が非/信によって繋がるという映画群。そういった、一貫性を持ってして父への弔いは成功したのだ。
さて、最近、歯が痛くなってそれらがどんどん抜けていくという夢を見なくなった。他の夢を見るためにもそろそろ寝る。
先週の爆笑問題カーボーイのスペシャルウィーク(あ、TBS Radioにはもうないのか)が最高だったが、今日は田中さんの復帰戦なので。それにしても勢いで書けたな、アル中かもな。