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キズナイーバー-思索公開メモ帳1-

Collector/Corrector of <the political>さんに。

 本ノートは、アニメ『キズナイーバー』について思索したことを公開メモ帳的にまとめさせていただくものです。随時更新するかもしれません。また他のものがまとまったのち、そのうちにそれぞれ深めるかもしれません(何とも言えない)。とりあえず、見方が考え方を形成するのではなくて、考え方が見方を形成する、ということで、考え方を提示することにとどめます。なお、本ノートは、本アニメを考察しつつご紹介くださったCollector/Corrector of <the political>さん(@nocitponap 波野淵 紺さん)のノートに対する感謝の意を込めて、応答する側面をも備えさせたいと思っています。この応答は、勝ち負けを競うような論争を狙うものではありません。論争とか炎上とかが見世物的にもてはやされているように思われる昨今ですが、私には何も面白くもありませんし、興味もありません。いみじくもミシェル・フーコーが「論争家にとってゲームは、相手を発言する権利を持った主体として認めるということではなく、可能な対話の相手としては否定しさることにあり、その最終目標は、困難な真理に出来る限り近づくことではなく、彼が最初から振りかざしている正義に勝利させることです」(ミシェル・フーコー『論争・政治・問題化』)と述べていますが、私はこのような論争家となることには全く興味がありません。恐らく普段のご様子から、波野淵 紺さんもそうであるようにお見受けいたします。むしろ私はそうであるくらいなら、爆発物製造技師として、相手の考察をあたかも火薬庫のように見立て、その火薬を利用した花火を打ち上げて華やかに咲かせることを狙いたいと思います。この公開メモ帳のノートはそれを願ってのものだとご理解いただきたく思います。

1.本作品の主題は〈社会的絆〉というよりも〈共-出現〉ないし〈分割=分有〉である

 共同体、或いは存在それ自体の脱自的-存在とは?これが問題となるだろう。(ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』)

 紺さんが仰っているように「『キズナイーバー』は痛みを分けあうキズナシステムで結ばれた少年少女の群像劇である。このことから、みんなや仲間といった他者との関係性(その中でも、3・11以降、繰り返し取り持つことが奨励された〈絆〉)が作品テーマであると見られている」、とひとまずいうことはできるかもしれない。私はひとまずこのような〈絆〉のことを「諸力と諸欲求と諸記号の分離する結合」という意味で〈社会(Gesellschaft)的絆〉と表記することとしたい。しかし、本作品は、紺さんがご指摘されているとおり、実際にはこの〈社会的絆〉よりももっと根源的なことが描かれており主題化されているということを読み取ることができる可能性があるのではないかと思っている。私の見立では、本作品の問題の核心は、表立って主題として謳われていそうな〈社会的絆〉のことよりもさらに根源的な次元の問題、つまり〈共-出現〉のほうが強く描写されているのではないかと思われる。〈共-出現〉とは何かというと、「それはそのものの出現である。つまり、君私(我々の間で)は、が並置の価値を持つのではなく、露呈の価値を持っている定式である。共-出現のうちに露呈されているのは、可能なあらゆる結合に従って、「君(と)(は)(全く別の)私」ということを、或いはもっと簡単に、君が分有する私を読み取らねばならない、ということである」(ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』)。この〈分有〉はpartageの訳語である。ナンシーのいうpartageは「人と何かを分かち持つ」といった主体的な関係を始めから想定しているのではなくて、ひとまずは〈分割〉と言う単純な語義で捉えて置くことが必要となる。その際問題となっているのは、人称的な誰かが何かを分割するというのではなく、〈分割〉という非人称の出来事によって複数の誰かたりうるものが生ずるといった事態である。〈分割〉は、あるものを複数に分離する。しかしそれは単なる分離ではなくて、分離がそのまま結合と不可分であるようなあり方を作り出すということである。言い換えると、〈分割〉は、分離する境界そのものが分離されたものを結び付けているような、複数の存在のあり方を生み出すということである。翻ってその複数の存在が、〈分割〉という境界を「分かち合う」ことになる。そしてこの「分かち合い」が〈複数性〉の成立の契機となる。これが〈分割=分有〉と訳されるpartageの意味である。この〈共-出現〉=〈間そのものの出現〉=〈分割=分有〉が〈社会的絆〉よりももっと根源的な問題であることが提示されているということは、まず、ストーリーの冒頭において描き出される歩行者横断歩道の信号機から見出すことができる。赤信号が腕を交差しあっているバッテン印で示されてるのと青信号が握手してるのは、人々の〈間〉そのものをよく表しているように思える。そこから〈共-出現〉=〈間そのものの出現〉=〈分割=分有〉が〈社会的絆〉のことよりもより根源的な主題であると読み取っておく。そしてこのことはストーリー全体を通してより明らかになっていく。ヒロイン・園崎法子によって選別され、ある空間に集合させられた少年少女たちは、現存在同士(共現存在)として、或いは他者と〈有限性〉を分かち合う誰とも置き換えのきかない〈特異存在〉同士として、〈境界〉で分け隔てられている(soluないしsolvere)ということ、そしてその〈境界〉で分け隔てられている現存在同士ないし〈特異存在〉同士の〈交流(communication)〉が問題の核心であることを示唆しているのである。これらが主題であることは、少年少女たちが〈キズナイーバー〉と呼ばれること、彼らが「痛みを分け合う〈キズナシステム〉」による強制的に特殊な状況に巻き込まれたこと、その〈キズナシステム〉の効果が切れた後のこと等、ストーリー全体を通して一貫した主題となっていると思われる。〈キズナイーバー〉と呼ばれる彼らにおいて生じている「痛みを分け合う」ということから、〈キズナイーバー〉はそのカタカナ表記からは〈キズナ・イーバー〉、つまり「痛みを分け合う(evenにする)絆で結びつけられた者」、といったんは解しえそうだが、むしろ私は〈キズ・ナイーバー〉という解し方をしなければならないと思う。つまり〈傷にナイーブな(繊細な)者〉ということである(なお、英語ではKiznaiverと表記するらしいのでこちらのほうが正しいだろう)。〈キズ・ナイーバー〉は肉体レベルでの痛み、感情レベルでの痛み、思考レベルの痛みまで、様々な次元の痛みを〈分割=分有〉するのだが、この〈分割=分有〉は、〈有限性〉の〈共-出現〉=〈間そのものの出現〉を問題としているのであって、この問題における〈境界〉と〈交流〉は〈社会的絆〉の形成に関係するのではない。ナンシーによれば、〈有限性〉の〈共-出現〉というのはつまり「露呈する」とか「曝し出される」ということであって、それが〈共同体(共同性:communauté)〉の本質であるとされる。何に対するものでもない〈共-出現〉、つまり〈無〉において〈共-出現〉することしかできない現存在同士ないし〈特異存在〉同士は、お互いに、その各々の「内」の一切が「外」に曝し出されている。それは、「何ものの引き裂きでもなく何ものとの引き裂きでもない引き裂きがある」ということである。〈傷口〉という〈裂け目〉はそのように現存在同士ないし特異存在同士の「外」への露呈の中にしかないのであって、現存在ないし特異存在の裂け目というものはない。〈有限性〉の〈共-出現〉における現存在ないし〈特異存在〉の〈境界〉そのものが〈傷口〉なのであり、〈裂け目〉なのだ。これが作中において、キズナシステムによって肉体に刻み込まれた傷の模様として象徴的に表現されているとみるというのはどうであろうか。現存在同士ないし特異存在同士の〈傷口〉は「外」に「内」を曝し出している。しかしその「内」はこの露呈なしには存在しない。〈交流〉はこの〈傷口〉の連接のなかで成立する。劇中においてこれはキズナシステムが介在していようがなかろうが変わらないが、私の見立てでは、キズナシステムが介在することによって、この〈傷口〉の連接が「意志/感情/思考」(いわゆる知情意)のレベルでのそれに推移していっているということが言えるのではないかと思われる。キズナシステムは現存在同士ないし特異存在同士の〈社会的絆〉の営為を促進させているのではなくて、このような〈傷口〉の連接としての〈交流〉の次元を推移させていっているといえるのである。私はこのようなキズナシステムの介在を、ある意味で〈神秘的融即〉のレベルを推移させるものであると見立てている。ストーリーの過程で彼らの間に友愛や恋愛といった絆が生まれるとしても、その絆は、こうした〈有限性〉の〈共-出現〉における「曝し出される」ことを本質とする〈共同体〉への目覚めにおいて培われたものであり、それは「みんなや仲間といった他者との関係性(その中でも、3・11以降、繰り返し取り持つことが奨励された〈社会的絆〉)」とは次元を異にする、むしろそのような〈社会的絆〉の営為の奨励に対する〈対抗導き〉として〈無為=脱営為の共同体〉に目覚めたという次元の問題なのではないかと思われる。ついでに付け加えて言えば、この〈無為=脱営為の共同体〉への覚醒は、ある意味フーコーが〈自己の技法〉として説明していたことにもかかわってくると思われる。

 あらゆる哲学的課題の内最も確かなのは、今という時の問題、まさしくこの瞬間において我々が何者であるか、という問題である。[それは我々が統治者側が規定づけるような何者かであることを見出すのではなく、そのような]何者かであることを拒むことであろう。(ミシェル・フーコー『主体と権力』※フーコーが〈自己の技法〉と呼ぶものの定義。カントが問うたことだとされる)

2.〈絆の会〉という帝国的統治者の代行的遂行を担う組織

 〈絆の会〉は統治心性の権力ゲームにおける帝国的統治者の代行的遂行を担う組織である。帝国的統治者とは、帝国的統治者が被統治者とみなす者たちを、「おのれの軍事力と威光とに従属させようと操行する者たち」のことである。それは共同体を解体させようともする。帝国的統治者には人々の生そのものを権力の対象とし、その人々の生を調整管理(或いは規制)する、管理社会を狙う生政治的な側面があるとみてもよいかもしれない。また洲籠市はそれ自体が一種の〈強制収容所〉ないし〈例外状態〉であるとみてもよいだろう。『キズナイーバー』のストーリーの場合、被統治者は〈キズナシステム〉によって繋がれる少年少女たちである。作品のテーマを「「みんなや仲間といった他者との関係性」(その中でも、3・11以降、繰り返し取り持つことが奨励された〈絆〉)」とみなすならば、まさにそこでは帝国的統治者による〈社会的絆〉を結ぶことの強制が働いているという側面を見て取ることができるかもしれない。しかし、ストーリー全体を通してみると、〈絆の会〉はあくまで帝国的統治者の代行的遂行者であって、帝国的統治者そのものと同一ではないところがあるように思われる。というのは、〈絆の会〉のメンバーたちには、単なる悪役とはいえないような、いかにも自分が悪(ワル)であると悪ぶって見せようとする側面(ヤーマダを見るとむしろノリノリな気がしなくもないが、ストーリー中よくよく見ていけば、彼もまたそう演じていた側面があることがわかる描写がある)があり、そこには帝国的統治者の〈社会的絆〉を強制する操行に、反感を買うような側面があることを、少年少女たちにわざと強調して見せているところがあるように思われるからである。この少年少女たちに、わざと反感を買うような言動や振る舞いをしてみせることに、〈絆の会〉が狙っているのは帝国的統治者が狙いを定めているような管理社会の形成ではなく、むしろそういう帝国的統治者の強制(3・11以降、繰り返し取り持つことが奨励された〈社会的絆〉の強制)をみてお前たちはどう思う?どう感じる?反感を覚えるだろう?といったことを強調して見せることで、被統治者たちの〈対抗導き〉を見越した〈反操行〉としての〈本来的共存在〉の共生起ないし〈本来的共同体〉への覚醒を期待していたのではないか、というところまで読んでみるのはいかがだろうか。そしてこれが先に挙げた、〈無為=脱営為の共同体〉であると。そして、今しがた私は、「〈絆の会〉のメンバーたちが〈対抗導き〉を見越した少年少女たちの〈反操行〉としての〈本来的共存在〉の生起ないし〈本来的共同体〉への覚醒を期待していた」と仮定したわけだが、これは「期待していた」のではあっても、結果として何が起こるかまでは彼らの思い通りになっているという側面はないという形で描かれているからこそ、このように述べているということをご理解いただきたい。少年少女たちは、帝国的統治者、及びその代行的遂行者たる〈絆の会〉のどちらに対しても、一方的に思い通りになっているわけではない。むしろフーコーが〈自己の技法〉と呼ぶところのもの、つまり、被統治者に対して統治者が被統治者を規定づける「こうした者であれ」という強制に対し、被統治者の側が自らの頭で熟考して、「何者かであることを拒み」統治者が強いる導きとは別の可能性としての、ナンシーが〈無為=脱営為の共同体〉と呼ぶところのものへの導きを得て、彼ら自身でその可能性を現実性へと導くことを、皆でやってのけたのだと言わなければならない。〈無為=脱営為の共同体〉がそういわれるところの〈無為=脱営為(désœuvrement)〉というのは、文字通りに本当に「なすべきことが何もない」というわけではない。むしろ「社会的・経済的・技術的・制度的な営為の解体」としての〈脱営為〉の意味を込めての〈無為〉である。この〈無為=脱営為の共同体〉は、まさに帝国的統治者による社会的・経済的・技術的・制度的な営為の強制に一方的には従わないがゆえに「帝国的統治者にしてみれば被統治者が当然なすべきであるはずのことが何もなされない」という意味で〈無為=脱営為〉と呼びうると言えよう。「社会的・経済的・技術的・制度的な営為の解体」という意味では、この〈無為=脱営為〉というのは極めて能動的な営為なのである。〈絆の会〉及び〈キズナシステム〉は少年少女たちにその覚醒のきっかけとなることを生じさせたに過ぎないのではあるまいか。

(以下思索段階)

3.自己忘却と〈自己(へ)の気遣い〉の関係
 
紺さんによれば、「根本には(他者というよりも)むしろ自己の問題、あるいは自己との対話(もっとはっきり言えば「自己への配慮(気遣い)」)が問題の核に据えられていると言える。つまり、一般に関係性という言葉から連想されるような他者との関係から自己を捉えるのではなく、自己と向き合うことを通じて、他者と向き合い、延いては世界と向き合っていく――言い換えれば、この様に自己―他者―世界と向きあいながら真理を語る主体が描かれる可能性を秘めている」。このご指摘自体が、実は「本当の罪が忘却ぶりっ子である」ということと強くかかわっている。だがその前に、ここで〈忘却〉と〈気遣い〉の関係について取り上げておきたい。
 まず、〈気遣い〉はギリシャ語でのmeletêであると解釈する。これは他に関心、準備、学習の意味を持っている。これに対して忘却はlêthêである。meletêは、母音の長短はあるけれども、mê lêthêに似て響く言葉である。 mêは否定辞であり、mê lêthêは〈忘却の内に消えない〉となる。つまり〈気遣い〉と〈忘却の内に消えない〉は共鳴し合っている言葉だとみるのである。さらに、〈真理〉のギリシャ語がalêtheiaであり、aが否定接頭辞であって、〈忘却されざる(非忘却)〉或いは〈覆い隠されざる(非隠匿)〉を意味することから、これもまた〈気遣い〉と関係する言葉と捉えておくべきことである。つまり〈自己(へ)の気遣い〉(ここではLe souci de soiのdeを「への」と「の」の両方の意味を持つことを含ませるため〈自己(へ)の気遣い〉と表記させていただく)の問題は、〈自己の真理〉の問題であり、さらには〈自己の非忘却・非隠匿〉の問題でもあるということを汲み取っておいていただきたい。ちなみにこの〈自己(へ)の気遣い〉の問題提起は、フーコーの指摘に従えば、ソクラテスの〈魂の気遣い〉に淵源を見ることができる。プラトンの『饗宴』207E-208Bにおいて、ディオティマがソクラテス相手に時間の流れの中の同一性と不死の欲求に関して示しているが、これはどんな事実の記憶でも知識でも、時間の流れとともに少しずつ緩み解けて影が薄くなり、変形して曖昧になっていき、忘却されていく、というようなことを言っている。忘却は知識と記憶の消失である。〈気遣い〉を欠くということは、この時間の流れの力による忘却に抗う術を持たないということである。それが〈自己(へ)の気遣い〉ということになると、当然自己について忘却してしまうことに抗う術を持たないということになる。この実存の問題が、まさしく『キズナイーバー』においてよく描き出されていることである。たとえば、主人公阿形勝平が自分について全く思い出せなくなっていることや、皆が自分のことについて普段は隠匿していること、天河一がキズナシステムでつながれていたことについて、つい先日のことであるにも拘らずよく思い出せない、といったことを漏らしていたりするのは、この〈自己(へ)の気遣い〉が問題となっていると見る必要があるだろう。

 

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