装甲騎兵ボトムズ考察5:ワイズマンが構築したアストラギウス銀河における〈存在の連鎖〉と「神の眼」
(無料で全文読めます。なお、この論考は、『装甲騎兵ボトムズ』の元ネタの一つ(特にキリコの人物設定に関わっている)として製作陣が提示している映画『ランボー』のエンディングテーマ曲“It's a long Road”を聴きながらお読みいただくと、より拡充を効かせることが可能です)
5.ワイズマンが構築したアストラギウス銀河における〈存在の連鎖〉とその「神の眼」
宇宙は、巨大な長さを持つように引き延ばされ、その中では各部分はいずれも系列の中での部署があり、各部分は全て異なり、しかも全体は連続で、先に立つものは決して後から来るものに完全に吸収されることはない一種の生命体である。(プロティノス『エネアデス』五巻二章1-2節)
帝国は錯乱状態の制度でありその符合化である。それは狂っていて、暴力を通じて自分の狂気を我々に押し付ける。というのも帝国の性質は暴力的なものだからだ。(P.K.ディック『ヴァリス』)
我々の居場所は円形劇場の階段座席でも舞台の上でもなく、一望監視の仕掛けの中であり、しかも我々がその歯車の一つであるがゆえに、我々自身が導くその仕掛けの権力効果によって、我々は攻囲されたままである。(ミシェル・フーコー『監視と処罰』p.217)
あなたはこうお考えになったらよい。帝国のいかなる部分といえども監視を逃れるわけにはいかず、いかなる重罪、いかなる経済、いかなる微罪といえども追求されぬまま放置されるはずはない、しかも全てを明るくするすべを心得る天才の眼は、この厖大な機械装置(帝国の機構)の総体を一目で掌握する、にも関わらず、どんなに些細な細部といえども見落とされることはありえないのだと。(J・B・トレヤール『犯罪訴訟法典の根拠』p.14=フーコー『監視と処罰』p.217)
ボトムズ本編の時代から三千年前の、ラ・ロシャットら異能者たちの反乱は、彼らの敗北に終わったが、彼らの野望が潰えたわけではない。敗北後の異能者たちの幾人かは、アストラギウス銀河の各所に追放され、また幾人かはクエント星の地下深くに逃れた。後者は、類まれなる忍耐力を持ってクエントの地下深くに身を潜め続け、再びこの世を支配せんとする野心を抱き続けていた。一方前者は、アストラギウス銀河を構成する各星系に散り、各々の星系の未開の人々にアプローチを試み、長い時を経て、文明を築き上げることに貢献した。中には戦争などで自滅する文明もあったが、多くの星系の未開人種たちは異能者の技術を受け継ぎ、現地民と交わり、同化し、更に戦争を遂行することで発展していき、それがアストラギウス銀河を二分する「ギルガメス」と「バララント」という二大勢力を生み出すに至る。そして、彼らは密かにクエント星へと帰り、身を潜めて生き延びた異能者たちと合流して、かつての反乱とは異なる仕方でアストラギウス銀河を支配する方法を画策し、実行に移した。クエントの地下深くに眠る古代テクノロジーを用いて、彼ら異能者たちの自らの身体と精神(ないし記憶)とを分離し、原形質保存装置にその精神(ないし記憶)を集積し、発展させていったのである。このようにして、自我を持ち、自らのことを「ワイズマン」ないし「神」と名乗る巨大なコンピューターシステムが誕生した。ワイズマンは、クエントの地下に潜みつつ、自らが生み出すに至ったギルガメス及びバララントという二大勢力を影で支配し、この二大勢力を使いつつ、各星系で起こる内乱や戦争を遂行した。ワイズマンがこのようにただ単に異能者による銀河支配というだけでなく内乱や戦争を遂行するものとなったのは、「自分たち異能者が生み出されるのは戦いの中によってである」という異能者たちの思想からであった(この思想は、教義として、宗教結社マーティアルの信仰方式の源流でもある)。ワイズマンはこの思想に基づいてアストラギウス銀河の各星系に干渉し、かつて自らが築き上げ発展させてきた文明に、戦争を起爆剤として注入し、戦争という戦争を遂行していくことになる。しかし、三度にもわたる銀河大戦と、その戦争の歴史の長さから、それらアストラギウス銀河における戦争のすべてがワイズマンという「この世」の影の支配者によるものだということを知る者はほとんどいない。ストーリーの冒頭で第三次銀河大戦について「ギルガメスとバララント。この二つの星系は、原因も定かでない戦いを100年も続けている」と言われていることの原因も、ワイズマンなのである。そして第三次銀河大戦末期、つまりボトムズ本編のストーリーが始まるにあたり、ワイズマンは自らの野望と目的達成のため、その指令を伝えるに相応しい人材を選出した。それが元ギルガメス軍少将であるアルベルト・キリィと同軍情報将校のジャン・ポール・ロッチナであった。ワイズマンは、キリィには自らの戦争計画や任務遂行をスムーズに行わせるために秘密結社を設立させた。これは銀河結社「マーティアル」から分離して出来た一種の宗教的な秘密結社である。ギムアール・イスクイ元少佐、セルジュ・ボロー元少佐、シムカス・フットー元大佐など、この秘密結社を構成するメンバーはワイズマンを崇めており、そのワイズマンの意を受けて行動し、百年戦争末期から、休戦中にかけて暗躍していた。彼らはワイズマンから提供されたテクノロジーを用いて様々な新兵器を開発したり、また、様々な兵器などを各国に供給していた。彼らがワイズマンによって与えられた役回りは、「自分たち異能者が生み出されるのは戦いの中によってである」という異能者たちの思想に基づいて戦争を遂行するワイズマンが異能者を生み出そうとした計画をより確実にこなすための土壌造りである。この秘密結社は、キリコ・キュービィーとは当初「敵対する」という形で常に関わりを持っていた。彼らはキリコを組織にとって危険な存在とみなし、殺害も辞さない態度でキリコを襲撃・迫撃した。もちろん彼らは本気でキリコを危険な存在とみなして殺しにかかっていた。しかしそれがワイズマンの狙い目であった。秘密結社を構成する者たちの意向がどうであれ、ワイズマンは彼らにキリコを組織に危険な存在と位置づけさせ、キリコを迫撃させることで、キリコの異能者としての超人間的な力を覚醒させ、自分の後継者として相応しい者に仕立てあげようとしたのである。この意向はストーリー当初では明らかでないし、秘密結社の者たちも、自分たちはワイズマンの意向に従っていると信じているにせよ、キリコに関してその真の意図まで把握していたとは言いがたく、彼らにおいてもその意図が徐々に明かされていったといえる。なにはともあれ、この秘密結社は「神の手足」としての役割を担い、ボトムズ本編の大半を通してキリコと敵対し、ストーリー冒頭からキリコがどれだけ無実を訴えようとも問答無用に迫撃し続けた。ストーリー冒頭から始まるその凄まじさたるや、キリコとキリコを迫撃する者の間にまるで通訳不可能な絶対的な裂け目があるかのようであった。その迫撃はどこへ行こうと手の緩むことを知らないものであった。それはギルガメスやバララント双方を直接的にまたは間接的に巻き添えにしながらのものであり、その有様は、パスカルのような言い方を真似るとすれば、キリコというたった一人の人間を押し潰すために「世界」=「この世」全体が武装して襲いかかるといった体をなしていた(パスカル『パンセ』§347)。「空間によって「世界」=「この世」は私を包み、一つの点のように飲み込む」(パスカル『パンセ』§348)。一方、ワイズマンは自らの「眼」(「神の眼」)として選定したジャン・ポール・ロッチナには、時にはギルガメス軍人として、ギルガメスの内情を探らせ、また、時にはバララント内においてもバララントの動向を探らせるだけでなく、バララント軍人としての活動も行わせていた。そしてキリコの動向を監視する意味で彼はキリコのもとに差し向けられた。彼自身の思惑としては、ワイズマンに自らが「神の眼」として選ばれたということと、そのように背後からの得体のしれないものの意志に従うこと(ロッチナも当初はワイズマンの正体については不明瞭であった)、そしてキリコの「生まれながらのPS」「異能生存体」という特殊性に興味を持ち、時に彼に敵対したり、彼の導き手となったりすることにスリルや愉悦を覚えていたように思われる。彼は「神の眼」として、神出鬼没にキリコの前に現れた。それがギルガメス側であれ、バララント側であれ、どこにでもである。この「神の眼」である神出鬼没なロッチナの有様は、キリコにしてみれば、「自分は常に監視されながら生かさず殺さず泳がせられている」という印象しかなかったのではあるまいか。ちょうど開高健が『輝ける闇』において次のように記しているように。「どこからか凝視されているのを感じた。全身にその鋭い眼を感じた。いきなり裸にされたようであった。朝、砦を出た時から耳の後ろにその眼は漂っていたのだが、この時ほど痛覚を覚えたことはなかった。彼らはどこか近くにいる。我々のことを知らせあっている。我々は監視され、包囲され、ただ彼らだけの知っている理由から射たれないだけだ。我々は泳がせられているのだ」(開高健『輝ける闇』)。
前章において私は、ラ・ロシャット対ト・メジ師の戦争を、マンダ教文書における「光と闇の戦い」の第一ラウンドにあたる擬態であることを指摘しておいた。上記に端的に素描したワイズマンが誕生するに至る経緯と、そのこの世を支配する構造を形成する過程は、総じてこの「光と闇の戦い」の第二ラウンドの開始と、その第二ラウンドそのものに相当する擬態とみなすことができる。この「光と闇の戦い」の第二ラウンドにおいては、目下のところ闇の勢力が優勢となる。異能者たちはアストラギウス銀河内の諸々の星系に文明を築き上げ、ワイズマンとなることでそれらを影から支配した。「世界」とここでカギカッコ付きで言う時、それはハイデガーがいうところの「世界内部的な存在者の総体」を表している。ワイズマンがアストラギウス銀河に形成した「世界」の支配構造に見て取れるのは、「世界」を構成する組織体のそれぞれが自己完結した形で鎖のように繋がっている様相を持っている一つの権力体系である。それは力を具え、傾向性を帯び、強制的に行動する一つの生き物の如き有様をしているということである。我々はここにアーサー・O・ラヴジョイが〈存在の大いなる連鎖〉ないし〈存在の連鎖〉と呼んだ観念を見て取ることができる。『観念史事典』の〈存在の連鎖〉の項目においてリア・フォルミガリは次のように記述している。「宇宙に対する解釈として西洋科学、西洋哲学が考えだしてきたものの中でも、〈存在の連鎖 Chain of Being〉ないし〈被造物の階梯 Scale of Creatures〉という観念は強力なものの一つである。[…]〈存在の連鎖〉とは、それこそ最下位にあって最も取るに足らない存在者から、自らは被造物ではないがあらゆる創造の営みがそこを目指す到達点、終着目標であるところの最も完全なるもの(ens perfectissimum)に至る、一個のヒエラルキーの形に被造物を整序する連鎖ないし漸次移行であるとして、宇宙を有機的に捉えようとする観念である。この観念は西洋形而上学史の中でこの観念を構成する一連の観念群――漸次移行(gradation)、充満ないし横溢(plenitude, fullness)、連続性(continuity)、そして充足理由律(sufficient reason)といった諸原理――を必然的に内包せざるをえないし、それはまた宇宙の中の人間の位置というものを明らかにするが、そこには思想史にとって非常に重要な心理学的、道徳的な、いや時には政治的でさえある意味合いが色々と孕まれることになる」。既に『間奏』の章において「充満」及び「充足理由律」という単位観念については、プラトンの『ティマイオス』を取り上げるところで触れておいた。「連続」とは、宇宙の必然的な「充満」というプラトンの説と融合した単位観念である。「連続」はアリストテレスにおいて出現し、「充満」のなかには「連続」が含まれているとみなされるようになっていった。アリストテレスは、「全ての量――線、面、立体、運動、一般的に時間と空間――は連続でなくてはならず、不連続であってはならない」と主張している(アリストテレス『カテゴリアイ』4b二〇-5a五)。またアリストテレスは被造物を何らかの決定因としての属性に照らして分類しようとし、種類の線的な系列を作り出した。そして、そのような系列は「ある種類のものの性質は次の種類のものの性質との間に明瞭な境界を示すよりはむしろ徐々に移行していること」、つまり「漸次移行」を示す傾向があることを、彼は観察した。彼によれば、自然は「無生物より生物へと極めて徐々に移っていくのでその連続が境界を曖昧にする。そして両者に属する中間種がある。何故なら植物が無生物の直後に来、植物は生命にあずかる度合いにより相互に異なる。(植物の)種類全体としてみれば、他のものと比較すれば明らかに生きているようだし、動物と比較すれば生きていないようだ。そしてこの植物から動物への移行は継続的である。何故ならある種の海洋生物は動物か植物か疑問がある。何故ならそれらの多くは岩にくっついていて岩から離すと死んでしまうからである」(アリストテレス『動物誌』八巻一章五八八b)。また彼は次のようにも述べている。「どのように宇宙の本性が善と最も優れたものに関係しているか、物は各々一つずつ個別に存在するのか、それとも秩序のある構成をなすのか、それとも軍団のように両方の性質を持つのか、我々は考えなければならない。……万物はある方法で秩序づけられているが、皆同じ方法ではない――鳥と獣と植物。万物は互いに関係する点が全然無いようには配列されてはいない」(アリストテレス『形而上学』十一巻一〇七五a一〇)。「間奏」においてプラトンの『ティマイオス』から取り上げた「充満」及び「充足理由律の妥当性」から、アリストテレスのこの「連続」及び「漸次移行」の単位観念は直接に演繹できる。二つの与えられた自然的な種の間に理論的に可能な中間的タイプがあるとすれば(実際にアリストテレスは他の基準に基づいた分類の中でそのような「連続」ないし「漸次移行」の例を多数見出したわけであるが)、そのタイプは実現されざるをえない。そうでないとすれば宇宙に空隙ができることになる。また、そのように宇宙に空隙ができているということであれば「この世の創造」の充足理由律に妥当性がないということにもある。それは『ティマイオス』における宇宙の源または世界創造者が、同書においてその形容詞が持つ意味での「善い」のではないという結論を暗黙に引き出すことにもなってしまう。ラヴジョイによれば、プラトンとアリストテレスにおいては、これらの単位観念はそれぞれまだ漠然と現れていたに過ぎないが、このような単位観念の複合体の由来は明らかに彼らにあるとしている。そして、彼らにおいてこのような単位観念が現れてきたことで、結果として、「中世を通じ十八世紀後半に至るまで多くの哲学者、ほとんどの科学者、そして実にほとんどの教育のある人々が疑わずに受け入れることになった宇宙の構造の概念、即ち巨大な、または――連続の原理の厳格ではあるがほとんど厳密に適用されることのない論理によれば――無限の数、階層的秩序の配列され、下はほとんど非存在すれすれの極めて乏しい存在物から「あらゆる段階」を通って完全に極めたもの(ens perfectissimum)――即ち、もっと正統的な言い方によれば、それと絶対者との間の相違は無限だと考えられているところの最高度に可能な被造物――に至る鎖の環から成り立っていて、その環の各々が直ぐ上のものと直ぐ下のものと「可能な限り小さい」程度の相違によって隔てられているような、〈存在の大いなる連鎖〉という宇宙観」が現れたのだとしている(ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』p.90)。この「充満」「連続」「漸次移行」「充足理由律の妥当性」の四つの単位観念からなるとされる〈存在の大いなる連鎖〉ないし〈存在の連鎖〉は、いわばこの世の宇宙における〈被造物の階梯〉である。「充満」「連続」「漸次移行」「充足理由律の妥当性」という四つの単位観念から構成される〈被造物の階梯〉=〈存在の連鎖〉という観念が、プラトンにおける「充満」の説から直接演繹できるということ、そしてラヴジョイが言うように中世を通じて十八世紀に至るまで受け容れられた宇宙構造の観念であること、ここではこれをラヴジョイも取り上げているアレキサンダー・ポープ『人間論』(1732-1734)からの引用で示しておこう。
存在の巨大なる連鎖よ、神より始まり、
霊妙なる性質、人間的性質、天使、人間、
けだもの、鳥、魚、虫、目に見えぬもの、
眼鏡も及ばぬもの、無限より汝へ、
汝より無に至る。より秀れしものに我等が
迫る以上、劣れるものは我等に迫る。
さもなくば、作られし宇宙に空虚が生じ、
一段破れ、大いなる階梯は崩れ落ちよう。
自然の鎖より環を一つ打ち落とせば、
十分の一、千分の一の環にかかわらず
鎖も壊れ落ちよう。
(ポープ『人間論』第一書簡23-32行)
さて、ここでリア・フォルミガリが〈存在の連鎖〉について、それが「宇宙の中の人間の位置というものを明らかにするが、そこには思想史にとって非常に重要な心理学的、道徳的な、いや時には政治的でさえある意味合いが色々と孕まれることになる」と言っていたことと同時に、私が「間奏」の章で述べておいたことを思い出していただきたい。私は「間奏」の章において、プラトンの充満の原理、及び彼の弁証法に見られる「充足理由律の妥当性」について、それは誰をも納得させることのできるようなものではなく、多くの「反抗者」を生み出し、またそれが逆にその「擁護者」を生み出していったと述べておいた。当然のことながら、「反抗者」の立場であるグノーシス主義者からしてみれば、「充満」の原理から直接演繹することのできる、宇宙の構造を表す〈存在の連鎖〉ないし〈被造物の階梯〉は、そっくりそのまま悪ないし闇の勢力に属するものということになる。「私はといえば、善は世界(この世)の中に存在しえないという、善のグノーシスに関わることまで私の叡智に授けてくださった神に感謝している。なぜなら、世界(この世)は悪の充満であるが、これに対し、神は善の充満、善は神の充満であるから」(『ヘルメス選集6』)。以下にグノーシス文書が闇の勢力の権能によるものとして描き出した〈存在の連鎖〉について、その表象を空間面からみた場合と時間面からみた場合とから取り上げてみよう。これは先々章において述べておいた「グノーシス文書においては「この世」=「世界」の時間も空間も、諸々の闇の勢力下にある一つの権力体系として描き出される」といったことの補足以上に拡充させる意味を持たせることになる。
マンダ教文書は「この世」=「世界」を「諸々の世界」という複数形で表す。「他所ものなるいのち」が歩んでいく道のりは、この「諸々の世界」を貫くものである。この「諸々の世界」はそれぞれ闇の勢力として擬人化されている。この「諸々の世界」は、「この世」=「世界」が地下迷宮のようであり、見渡し難く複雑多岐にわたっており、道を誤らせるものであることを表している。闇の権能に支配されている「諸々の世界」にあって、「他所ものなるいのち」は道を失い、出口を求めて彷徨う。出口を探しだしてそこから脱出すると、またもや別の世界に入り込む。そこもまた「この世」=「世界」であることに変わりはない。言語表現上のこの現象が意味するところは、闇の勢力の権力体系が複雑多岐に分化し、その中に「他所ものなるいのち」が投げ込まれているということである。このモチーフが多くのグノーシスの体系の性格を決定している。マンダ教文書が「諸々の世界」というところのそれがまさに〈存在の連鎖〉にあたる。ヘレニズムの領域のグノーシスでこれにあたるのが「諸々の低次のアイオーン[=アルコーン]」である(ここで「低次」というのは、「この世」=「世界」を構成するアルコーンたちが、同じ「アイオーン」でも「あの世」=「光の超越的世界プレーローマ」を構成する「高次のアイオーンたち(諸至高霊)」と比較して貶下する意味で用いられている)。多くの場合、それは七つの遊星天(或いは一週間の日数)ないし黄道十二宮の獣帯の数に対応して「七」或いは「十二」となっている。「デーミウールゴスは火と霊気の神であって、ある七人の支配者を造り出した。この者たちは感覚で把握される世界(コスモス)を円周によって包んでいて、その支配は宿命(ヘイマルメネー:εἱμαρμένη)と呼ばれている(『ヘルメス選集1』)。「……この天幕は、獣帯から成り立っていたのだ。そしてこれ(獣帯)は数で十二のものからなっており、一つの性質を持ちながら、人間を迷わせるためにあらゆる相貌をするのだ」(『ヘルメス選集13』)。ここで言われていることでのミソは、闇の勢力の〈存在の連鎖〉が「世界」=「この世」に貫徹している法則と宿命を執行する者たちだということである。体系によってはこのような〈存在の連鎖〉を構成する闇の勢力の数が眩暈と悪寒と吐き気を催す次元にまで増殖されることがある。『「ヨハネのアポクリュフォン」のアルコーンたち』をご覧いただきたい。おぞましい限りだが、ここではその闇の勢力の権能である〈存在の連鎖〉がマクロコスモスとミクロコスモス(人体を構成している各部)の隅々にまで及んでいることを見て取ることができるだろう。これはマクロコスモスとミクロコスモスの間で、全ての闇の勢力の作用が「連続」的に、相互に関連し合い積み上げられてるさまを表している。また六の十二倍(本当は遊星天の数との関わりで七の十二倍なのだが数が誤魔化されている)として、「イスラエルの完全無欠を表す数」にして「後期ユダヤ教の神秘伝承であるカバラのなかで聖数」とされる七十二が貶下的に用いられることもある。「……光の子らにいつも苦難の杯を与えるのは彼女(エルサレム)なのだ。彼女は[十二の]アルコーン(この世の支配者)たちの住居である。[…]広がりは七十ニの天であり、それらは彼ら(十二のアルコーンたち)の僕である。それらは彼らの力の諸力であり、彼らによって立ち上げられた。そして、それらはあらゆる場所に分散されている――十二人のアルコーンの権威のもとに。彼らの中のより劣った力が自らのために御使たちと無数の軍勢を生み出した」(『ヤコブの黙示録』§7-11)。一年の日数である三百六十五という数に対応している場合もある。バシリデース派はそれをアルコーンたちの頭領である「アブラサクス(希:αβρασαξ)/アブラクサス(希:αβραξας)」の名前で表している。「……彼ら(バシリデース派)によれば、無数の被造物と世界と支配と勢力と権勢があるのである。それらについて彼らのもとには多くの言葉で言われた実に巨大な説明がある。そこには三百六十五の天があって、それらの大いなる支配者はアブラサクスであると、彼らは言う。その名前は三百六十五という数を含んでいるからである」(『バシリデースの教説』(ヒッポリュトス『全異端反駁』二十六章)※アブラサクスのギリシャ語アルファベットの綴りを数価に換算すると「Α・α(アルファ)=一」×三、「Β・β(ベータ)=ニ」、「Ρ・ρ(ロー)=百」、「Ξ・ξ(クシー)=六十」、「Σ・σ・ς (シグマ)=二百」となり、その合計が三百六十五となる。ただしこの教説の場合のアブラサクス/アブラクサスは至高神に属するものではないが、必ずしも貶下的な扱われ方をされているわけではない)。『ピスティス・ソフィア』という文書では、無窮の数の「アイオーン」が語られて、もはや見通しがきかない。このような「この世」=「世界」の構造である「諸々の世界」=「諸々の低次のアイオーン[=アルコーン]たち」は、互いに上下に〈存在の連鎖〉を構成しており、同心円状に重なり合いながら、光から遠ざかっている距離を表現しているのである。「この世」=「世界」を構成する「諸々の世界」に投げ込まれている「他所ものなるいのち」がこのような状況にあるのは、まさに「この世」=「世界」そのものが「この世」=「世界」のなかに彼を惑わし、繋ぎとめておこうとしたがためである。その際、闇の勢力の〈存在の連鎖〉は、先々章において述べておいた「「無感覚」「無知」「眠り」「酩酊」「死」という象徴語群によってあらわされる「本来的自己」の隠匿・忘却(λήθη:レーテー)と言う闇の毒がもたらす定型的な伝染病」を蔓延させるべくその権能を振るう。「[「世界」=「この世」に貫徹している獣帯(黄道十二宮)からの法則と宿命がミクロコスモス(人間の身体)に十二の懲罰的作用を加える]。子よ、無知が第一の懲罰である。第二は悲嘆、第三は無節制、第四は欲情、第五は不義、第六は貪欲、第七は虚偽、第八は嫉妬、第九は計略、第十は怒気、第十一は軽率、第十には悪意であって、これらは数で十二になる。子よ、これらの配下にさらに多くの者どもがおり、内なる人間(アントローポス)を強いて、身体という牢獄によって感覚的に苦しませている」(『ヘルメス選集13』)。「アルコーンたちは人間を惑わそうと欲した。なぜなら、彼らは見たからである。彼が至高至善なるものと同一なる本性を所有しているのを。彼らは善きものの名前をとって、善ならざるものに与えた。それはそれらの名前によって、彼らが彼を欺き、それらを善ならざるものに繋ぎとめるためであった。それからまた、あたかもそれらに恵みが発せられるかのように見せかけて、それらが「善ならざるもの」の間から遠ざかって、「善きもの」の中に置かれるかのようにするためであった。これらのことを彼らアルコーンたちは知っていたのである。なぜなら、彼らは自由なる者を奪い去って、彼ら自身に永遠に仕える者として据えようと欲していたのであるから」(『フィリポによる福音書』§13)。「ルーハー(闇の女王・ヘブライ語で「神の霊」「息」を意味するルーアッハに当たるマンダ語で、旧約のそれを貶めている)と惑星たちは企みを練り始めた。彼らは言った、「我々はアダムをひっかけて捕まえ、ティビル(この世)に繋ぎとめて、我々のそばに置こう。もし彼が祝宴で飲み食いするなら、我々は世界を捕まえよう。世界の中で互いに抱き合って結合し、世界の中に我々の集団を造ろう。我々はアダムを角笛や横笛で捕まえよう。そして彼がもはや我々から離れられないようにしよう。……我々はいのちの種族を誘惑しよう。そしてそれを断ち切って、この世界の中で我々の側に置こう」(G113ff)。「「さあ、立て。我々は祝宴を催すのだ。さあ、立て。我々は酒宴を開くのだ。我々は互いに愛欲(エロース)の奥義を交わしあい、世界全体を誘惑するのだ。……我々はいのちからくる呼びかけ(グノーシス)を閉め出して、家(この世・世界)の中に争いを投げ込むのだ。それも永遠まで鎮められることのない争いを。あの他所者(この場合「あの世」から「この世」へと派遣されて到来する啓示者のことで「グノーシス」そのものが擬人化された表現。アダムを覚醒させるのがその使命)を我々は殺すのだ。我々はアダムを我々の付属物にしてしまおう。……我々は世界全体を掻き回し、大いなる愛欲のわざで捕まえよう。我々は、あの他所者が打ち立てる党派を混乱させ、彼がこの世界に幅を効かせることがないようにするのだ。この家(世界・この世)全体は、この我々のものなのだ。……」そこで彼らは活ける水(マンダ教徒たちが行っていた沐浴儀礼の水)を持ってきて、その中に濁りを注ぎ込んだ。彼らはいのちの種族の頭を連れてきて、その身にあの愛欲(エロース)と欲望の奥義を行った。その奥義によって、すべての世界(存在)が欲望の炎に燃え上がった。彼らは彼を誘惑した。その誘惑で全ての世界が我を忘れた。彼らは彼に酩酊の奥義を施した。その奥義ですべての世界が酔っぱらった。……諸々の世界がそれに酔い、自分たちの顔をスーフの海(終末と死の海)へ向けた」(G120ff)。「ニムルス(ルーハー)は自分の息子たちに言った。あの選ばれた者が我々の手に落ちた。来なさい、我々は彼を縄で縛り付けて大いなる恐怖に陥れてやろう。そして、天上のことについて語るのを忘れさせてやろう。彼を我々の……罠で捕まえ、いつも祈ることを忘れさせてやろう。……我々は彼を泣き叫ぶ暗闇の中に放り込み……、彼がそのもとからやってきた神のことを忘れさせよう。……我々は彼を我々の大いなる奥義で捕まえ、彼がもはや自分の助け手について訊ねることがないようにしてやろう」(J62ff)。「彼らは彼らに向かって欲望と激情を揮い、彼らを世界の滅亡の中へ投げ込む。彼らはこの世界の子らを酔わせる。すると世界の子らは世界の中に取り残される」(J211)。ここで「エロース」と言われていることにひとつ注釈をつけておく。これは前章において『ヘルメス選集1』を引用しながら取り上げた「愛欲(エロース)」が根源的悪・罪として人間を支配しているという思想」と同じである。「エロース」とは「世界」=「この世」を支配する闇の勢力が大いなる忘我境をもたらすのに用いられる主な権能である。これはただ単に「性と感覚の欲望」ということにとどまらない。これは世界と可滅性の中へ巻き込まれた現存在の実存を表すために好んで用いられる象徴語である。「エロース」とは、世界内存在としての現存在そのものへ欲望であり、また世界内存在としての現存在を拘束している衝動である。それは世界自体が常にそう誘惑しているがゆえに存続している。「世界」=「この世」を支配する闇の勢力は、そのようにして人間を自分に縛り付け、自分に属する者の一人とするのだ。「この世」=「世界」が前章で扱った根源的悪ないし罪として位置づけられる「ナルキッソスモチーフ」に端を発していることそれ自体に見て取れるように、「エロース」とは、逸脱した欠陥のある実存の様態としての「現在」を示している実存カテゴリーそのものとしての「頽落した在り方」への欲情なのだ。「他所ものなるいのち」(グノーシス者)は、この「エロース」の権能を振るう闇の勢力の〈被造物の階梯〉=〈存在の連鎖〉=「諸々の世界」=「諸々の低次のアイオーン[=アルコーン]たち」に攻囲されており、これらを全てかいくぐり、突き抜けていかなければならない。だが、その際、当然のことではあるが、「他所ものなるいのち」に対してこれら「諸々の世界」を支配する闇の勢力の権能は、襲撃・迫撃等、敵対的で妨害的な働きを加えることになる。「子よ、分かるか。一にして唯一なる方(至高神)を追い求めるためには、どれだけの天体を通過し、どれだけの悪霊(ダイモーン[=アルコーン])の群勢と、どれだけの桎梏の連鎖、星辰の行路を突破していかなければならないのかを!」(『ヘルメス選集4』)。ここでの「天体」「星辰」は「諸々の世界」を表す。「連鎖」は厳密な意味では宇宙の絶対的な「連続」を意味しており、七つの遊星天及び月下界を成している、火・空・土・水の各層間の連鎖状態を含んでいる。このように天体・星辰・ダイモーンが至高神のもとへと帰昇する光の存在にとって忌避去るべき敵対的なもの(つまり悪ないし闇の原理)と化するのはグノーシス的特徴の一つなのである(ただしマニ教などこの限りではないものもある)。グノーシス者がこのように描き出す「世界」の空間的表象は、まさに「光」から遠ざかっている距離の途方もなさを、その空間領域とその境界に存在する闇の勢力の権能そのものである〈存在の連鎖〉=〈被造物の階梯〉=「諸々の世界」=「諸々の低次のアイオーン[=アルコーン]たち」の厖大さをもって表しているのである。このような「世界」=「この世」に投げ込まれている状況について、マンダ教文書を書き記した者は、「これらの闇の世界の境界はなんと多いことか」(G155)、「我々が行くべき道は遠くて終わりがない[ほどだ]」(G433)と悲嘆にくれたかのような心境を吐露している。『ナハシュ派の詩篇』も次のように語る。「不幸な者(グノーシス者)たちは出口を見つけられず、迷い込んだ迷宮の中で道を失って、悲嘆にくれる。……彼らは苦渋なるカオスから逃れようともがいても、どう抜け出せばよいのか分からない」。「世界」の空間の中にいる個々の存在ではなく、「他所ものなるいのち」(グノーシス者)が今いるその空間そのものが闇の勢力の権能なのである。そして闇の勢力は人格化されていると同時に、空間的な概念でもある。我々はここにパスカルの『パンセ』における「武装する宇宙」の想念と同じく、グノーシス者における「この世」=「世界」についての空間的表象が、人を浮き立たせるものではなく、抑圧するものとして描き出されているのを見て取ることができるであろう。そして、そのように描き出されるグノーシス者の空間的表象としての〈存在の連鎖〉は、彼らの「世界」=「この世」における抑圧的な闇の勢力の権能の途方もなさに対して想像力を働かせたものであるが、それは「この世」の宇宙の無限の広大さについて想像力を巡らせたパスカルの〈存在の連鎖〉についての思索に勝るとも劣らぬものといえるのではなかろうか。彼らグノーシス者のそれはパスカルのそれと同じように「想像がそれを頭に入れるのに疲れてしまう」ほどに圧倒してくるものである。「全てこの眼に見える世界は、自然の巨大な懐の中では目にも止まらぬほどの一つの線に過ぎない。我々の持ついかなる観念も自然に近づくことはない。我々が、想像しうる限りの空間よりもさらに向こうへ、我々の想像をいくらふくらませていったところで無駄である。事物の実際に比べれば、我々は原子を想像しているに過ぎない。自然は中心がどこにでもあり、円周がどこにもない無限大の球である」、それは、「我々の想像がその思考の中に自分を見失ってしまう」ほどのものなのだ(パスカル『パンセ』§72)。グノーシス者の「存在しない神(真の至高神)」と「造物主(偽りの神)」のような峻別はないが、パスカルの神は世界創造神であると同時に「隠れた神」である(パスカル『パンセ』§518・585)。しかし、パスカルはグノーシス者と同様の〈存在の連鎖〉の歴史のある皮肉な面を明らかにしている。既に〈存在の連鎖〉を構成する単位観念の一つに充足理由律の妥当性があるのは見てきたであろう。これは知覚されるこの世の宇宙の真の実在と形而上学的必然性を意味するもので、そのような宇宙の創造の内に神的な完全さを現実に増強するものである。ところがパスカルの場合、この無限大なるこの世の宇宙の充足理由律の原理をその究極的な結果にまで追求したことで、「あの世的傾向」に奉仕することになった。充足理由律の妥当性は一種の合理主義の表れでもある。それは、実在の性質中においては本質的に合理性があり、だから具体的に存在するあらゆるものの充足理由律が、知覚できる宇宙の中にあるのだという確信をも表している。しかし、パスカルのように、この世の宇宙が量的または数的な無限大の現実の存在を意味するものとして解釈された時に、それはむしろいたるところで逆説や矛盾だらけで、実在を人間の理性とは本質的に縁のないもののように思われた。パスカルは次のように問うている。「人間は自分自身に立ち返り、存在しているものに比べて、自分が何者であるかを考えてみるがいい。そして、自分をこの自然の辺鄙な片隅に迷い込んでいるもののようにみなし、彼が今住んでいるこの小さな暗い牢獄、私はこれを宇宙の意味で言っているのだが、そこから地球、諸々の王国、諸々の町、また自分自身をその正当な値において評価するのを学ぶがいい。無限大の只中にあっては、人間とは一体何なのか」(パスカル『パンセ』§72)。これに対してパスカルは次のような答えを開陳している。「存在する全ての物体、天空、星、大地とその王国は、いと小さき精神より価値がない。何故なら精神は、それらの全てと自身とを認識しているが、それらのほうは何も認識していないからだ」。ここにはパスカルの言う「武装する宇宙」の正体がなんであるかが記されている。パスカルは人間を、不毛な軌道を無限に移動する、人間に似たものはその中に一つもない、無限の量の無機物(それは人間のように精神がない)の中にいる孤独なものとして捉えた。「武装する宇宙」のなかでの人間は、その「武装する宇宙」の巨大な万有の力によっていつでもへし折られる葦でしかない。このようなパスカルの結論は、充足理由律の妥当性を徹底的に追求した果てに、逆にその妥当性をむしろ破壊してしまいかねないものであった。この点にパスカルにおける、グノーシス的な擬態が認められる。そしてそれらは同時にボトムズに認められる擬態でもある。キリコにおいてもグノーシス者においてもパスカルにおいても、「世界」=「この世」=「世界内部的な存在者の総体」=〈存在の連鎖〉そのものとの間に通訳不可能な絶対的な裂け目が生じており、かつその「世界」そのものが自らに対して武装し、ゆえなく自らを抑圧し、襲撃・迫撃を加えてくるという構図が見て取れるのである。グノーシス文書に見いだされる闇の勢力は、罪深き悪の勢力でもあり、それは超克されるべきものである。彼らを超克するということは、彼らの襲撃・迫撃を退けつつ、彼らの間を突き抜けていくことにほかならない。彼らの空間的な境界を突破すれば、それは彼らの力を打破したことと同じであって、彼らが張り巡らせている権能の囲みから脱出することになるのである。以下の引用はグノーシス文書における〈被造物の階梯〉=〈存在の連鎖〉=「諸々の世界」=「諸々の低次のアイオーン[=アルコーン]たち」をかいくぐり突き抜けていくグノーシス者(マンダ教文書における「他所ものなるいのち」に該当)のさまについての記述である。「……人間は(月天と月下界の)境界面を突き抜け、更に上へと急ぎ、第一の層(月天)には増減の作用を、第二の層(金星天)には悪の企みを、計略を、無作用のまま、第三の層(水星天)には欲情の欺きを、無作用のまま、第四の層(太陽天)には支配の顕示を、もう願わしくないまま、第五の層(火星天)には不遜な勇気と敢てする軽率を、第六の層(木星天)には富の悪しき衝動を、無作用のまま、第七の層(土星天)には隠れ潜んだ虚偽を返す。すると、彼は[世界を構成する]組織体の作用力から脱し、本来の力となって第八のフュシス(第八の層・オグドアス)に至り、存在する者たちとともに父(至高神)を讃美する」(『ヘルメス選集1』)。ボトムズにおいては全四パート・全五十二話で構成されている本編の物語そのものがまさにワイズマンがアストラギウス銀河内に構築した〈存在の連鎖〉=「諸々の世界」=「諸々の低次のアイオーン[=アルコーン]たち」の一部であり、キリコがそれをかいくぐり、突き抜けていく物語であると一括しておくことができる(全五十二話構成の一話一話それぞれがそうであると捉えても差し支え無いであろうし、或いはこの全五十二話構成を製作陣が編成しているとおりに「治安警察と暴走族が牛耳る街「ウド」(第1話 - 第13話)」、「反政府軍との内戦が続く熱帯の王国「クメン」(第14話 - 第27話)」、「砂漠の惑星「サンサ」(第29話 - 第39話)」、「キリコ出生の秘密が隠された惑星「クエント」(第41話 - 第52話)」からなるものとして捉えても構わないだろう)。ボトムズにおいてはその〈存在の連鎖〉は上下に階梯を構成しているというよりは、アストラギウス銀河という銀河系を構成する周縁部の星系から、この銀河系の中心部にあるクエントに向かって行くという構成となっている。それはちょうどミルトンが『失楽園』で記しているように、「中心より周辺へと掛けられ、それにのり、つくられし物を観照しつつ、一歩一歩神へと我々がよじ登る、自然の梯子」(ミルトン『失楽園』五巻509-12行)のようなものであった。
ところで、以上は表象を空間面から見た場合であるが、この世界の中の存在は、本質的に時間的なものである。「子どもの頃から私は、どんな註釈とも、どんな行為とも、どんな大事件とも更に縁のない形で、時間が流れ去ってゆくのを知ったものだ。これは時間が、時間ならざるものから分離し、自立した存在となり、固有の定款を、自らの帝国を、専制政体を持つということである」(E.M.シオラン『生誕の災厄』)とシオランは述べているが、この「時間」は、第三章において述べておいた「クロノス時間」に相当する。グノーシス文書においては人間が時間の中にある存在だという次元もまた闇の勢力として人格化されている。シオランが「固有の定款」「帝国」「専制政体」というところの時間性のたとえ(クロノス時間)に相当するところは、グノーシス文書においては一定の人格性を帯びた闇の勢力の秩序にほかならず、グノーシスの「他所もの」体験に対応する特定の性質を備えている。ヘレニズム領域での「アイオーン」は、空間的な概念であると同時に時間的な概念でもある(アイオーンには「時間」「世代」等、多岐にわたる意味がある)。空間的表象において我々は多数の闇の勢力を見てきたが、それは同時に時間を支配する一連の勢力の出現でもあって、それらが多数であるということは、彼ら闇の勢力が手にしている宇宙規模での権能がどれほどのものであるかを特徴づけている。闇の勢力のこの権能は「諸々の世代」にもわたっているということである。グノーシス者は「世界」の空間のあまりの巨大さと見渡しがたさによって不安な心境を掻き立てられていた。それと同時に彼らは「世界」の時間の無窮さとそれに耐えていかねばならないことにも不安な心境を掻き立てられている。「世界不安」とはこのように空間の不安と時間の不安とが合体している不安なのだ。グノーシス者の時間経験がどのようなパニックをもたらすものなのかは、次のような記述に見て取ることができる。「あの闇の世界の中に、私は万の千倍の年々住んでいた。しかし私が底にいることを知る者は誰もいなかった。……くる年々もくる年々も、くる世代もくる世代も、私はそこにいた。しかし、私が彼らの世界に住んでいることを誰も知らなかった」(G153f)。「さあいまや、我等の慈悲深い父よ、……私たちがあなたから切り離されて以来、数知れぬ無窮の年々が過ぎ去りました。私たちはあなたの優しい、光り輝く、活ける御顔を仰ごうとして、ひたすらやつれゆくばかりです」(『プロイセン学士院紀要』所収 マニ教断片)。グノーシス者のこのような心境の吐露は、数えきれない長さの時間にわたる世界の存続が、至高神から引き離されているということを表現している。階梯状をなす世界空間の〈存在の連鎖〉も同様である。ワイズマンは、ボトムズ本編のストーリーが始まる前から、約三千年間の長きにわたってアストラギウス銀河の統治を遂行している。そのワイズマンの「帝国」においては、時間的にも空間的にもグノーシス文書における闇の勢力と同様の権能を振るうものであり、その権能は、人間に対する支配と強制への意志に発する暗い暴力というかたちで顕現しているというほかないものだろう。
光と闇の戦いの第二ラウンドに当たってワイズマンは〈存在の連鎖〉を構築しただけではない。先に見たように、ロッチナを見出し、彼に自らの眼(「神の眼」)としての役割を担わせている。この「神の眼」の役割について、その意味を拡充しておこう。『ゾーハル』は「神の眼」について、まず『詩篇』121章4節の「まどろみもせず、眠りもしない」という記述、及び『エレミヤ書』32章19節の「あなたの眼は[…]開いており[…]」という記述に引き寄せて、「その眼には瞼も睫毛もない」と語る。記述中ではラビ・シモンがラビ・アッバに「それを示すものは何処にあるか」と尋ねると、ラビ・アッバが「海の魚にある」と答えるという仕方で、神の眼は「魚の眼」に譬えられる。曰く、「魚は眠らず、魚の眼は保護するものを必要としない」。神についてはなおさらそのように言えるのであって、神は「全てに眼を配り、全てのものは彼から養分を得る」。だからこそ、神の眼については「まどろみもせず、眠りもしない」と言われるのだと。『ゾーハル』において「神が全てに眼を配り、全てのものは彼から養分を得ている」と言われていることに関しては、『詩篇』33章18節の「見よ、主の眼が彼を畏れる者たちに[向けられる]」という記述、及び『ゼカリヤ書』4章10節の「見よ、主の眼、それは全地を見渡している[…]」と言われているところに引きつけて語られている。『ゼカリヤ書』3章9節や4章10節において「眼」は「七つ」だと語られている。「七」という数は、実際の数というよりはあくまでも象徴的な表現として理解される。その数によって象徴されているのは神の「完全、完成、全体、成就」という四つの概念である。カール・グスタフ・ユングによれば、『ゼカリヤ書』の「七」という数によって象徴されているのは七つの惑星である。この場合の七つの惑星も、太陽や月と同様に、決して休むことなくあまねく巡り行き隈なく見渡す神の眼を象徴している。『エノク書』9章5節においてもまた、天使たちが神に向かって、「あなたは万物を造られ、万物を統べる力はあなたにあり、一切はあなたの前に開かれてあからさまにおかれてあり、あなたの視線は全てのものに届き、あなたの眼に隠れうるものは何一つとしてない」と述べている。このような「眼」のイメージは元型的イメージである。たとえば孔雀の羽根の眼(のような模様)は、ギリシャ神話によれば、ゼウスの妻ヘーラーが複眼の巨人アルゴスの眼を取って飾り付けたものだとされるが、アルゴスはパノプテース(全てを見るもの)という異名を持ち、星空を意味している。彼は全身に無数の眼を持ち、不眠とされている。ヘーラーは、牡牛に変えられたイーオーをこのアルゴスに監視させていたが、アルゴスはゼウスの命令を受けたヘルメスによって殺された。ヘーラーがその眼をとって孔雀の羽根に飾りつけたのである。無数の眼を持ち全てを見るものであるというのは『リグ・ヴェーダ』10章90節に「プルシャは千頭、千眼、千足を有す。彼はあらゆる方面より大地を蔽いて、それよりなお十指の高さに聳え立てり」とあるように原人間プルシャの特性でもある。更にヒッポリュトスのアラトス引用には「龍または蛇が大熊座の上に乗って、全てを見通し、生起するものを何一つ見落とすことのないように見張っている」とあり、龍座に全てを見渡す地位が与えられていて、ここでもこの龍は、極が決して落下しないことから「不寝番」であるとされる。リーアン・アイスラーの指摘によると、「全てを見る」という龍の能力は時間の象徴体系を通じてクロノスに受け継がれた。「全てを見る」という能力と時間とが、クロノスにおいて相関として捉えられたのだ。この〈全てを見るクロノス〉は自らの尾を噛んでいる円環状の蛇ないし龍=「ウロボロス」として象徴的に表現される。ユングは、ホラポルロという人物が「ウロボロス」について、それが意味しているのは「アイオーンと宇宙」の相関だと言っていることを取り上げた。「全てを見るものと時間」、「アイオーンと宇宙」の相関とは、そのまま「存在と生成」の相関である。この相関が「ウロボロス」という一つのシンボルに集約されているといえるのであり、聖書ないしその解釈である『ゾーハル』等においては、そのまま「神とその諸々の被造物」の相関に等しいのである。このことを理解するには、『出エジプト記』3章14節においてYHWHがモーセにその名を尋ねられて答えた言葉である「'eHyeH 'aser 'eHyeH」が「私は在らんとして在るものだ」と解されるのと同時に「私は自分が成るところのものと成る」とも解されることを想起すれば十分であろう。つまり神の名(聖四文字YHWH)は「存在と生成」の相関を意味するものとして解し得る。『ゾーハル』に戻ると、先に「不寝番」である神が「全てに眼を配り、全てのものは彼から養分を得ている」ということを取り上げたが、これは「もしもその眼が一瞬でも閉じたなら、もはや何ものも生きられない」とか、「もしもその眼がなかったなら、世界は一瞬足りとも存在しえない」という教えと隣合わせで語られている。これは聖書における「神とその諸被造物」の関係そのもの、神の名が「存在と生成」の相関を意味しているということと同じことを言っている。またそれはクロノス=ウロボロスにおける「アイオーンと宇宙」及び「全てを見るものと時間」の相関に等しいといえる記述なのだ。どこにでも神出鬼没に現れ、またワイズマンのアストラギウス銀河支配を、ギルガメス及びバララントという分割統治の形で維持するために「監視」する、また神の後継者たるキリコを「監視」するという役割を担わされたロッチナを象徴する呼称としての「神の眼」おいて示されているのは、神の「全てを見る」という能力、神が「不寝番」であるということ、そして、その「眼」が指し示す「存在と生成」「神と諸被造物」「アイオーンと宇宙」「すべてを見るものと時間」という相関である。これらを総合して言えるのは、「全「世界」=「この世」はワイズマンのものであり、ワイズマンは自らの構築した〈存在の連鎖〉の中に遍在しているのも同然である」ということだ。このことはロッチナが担わされた役割を通り越して、ワイズマンそのものの能力としても捉えることのできるものであろう。ワイズマンはアストラギウス銀河全体において、ただの一瞥をもって全てに襲いかかることができるようにし(このことはアルベルト・キリィがまるで一瞥をもって死に至らしめられた描写でその一端をみてとることができる)、どんなに微細であろうといかなる細部をも決して見逃すことがないようにしているのだ。そして、グノーシス者からしてみれば、これら全ては闇の勢力の頭領たる「偽りの神」の権能ということになる。
まとめよう。キリコはこのような「世界」=「この世」の中に、つまり暴力という暴力、監視という監視による攻囲という闇の勢力の権能がもたらす抑圧的状況のなかに長きにわたってとどまらなければならなかった。先述したように彼は本編を通じてこの〈存在の連鎖〉と「神の眼」をかいくぐっていかねばならなかった。キリコはどこに行こうとも、その場所につくたびごとに絶望的状況に陥る。『トマスによる福音書』曰く、「[この世においては]、狐にはその穴があり、鳥にはその巣がある。しかし、人の子には、その頭を傾け、安息するところがない」(§86)。従ってグノーシス者においては「世界」=「この世」を橋のごとく見立てられ、そこに永住的な棲家を建てようなどとは考えられず、橋を渡っていく者のように「過ぎ去りゆく者(旅行く者)となれ」(§42)と説かれる。「世界」=「この世」の外から中へと投げ込まれ(被投性)、そして再び外へ出て行くというのが、グノーシスの目標設定を表現する独特な定型句であり、これが「道」という空間的なイメージと結合されているのだ。この「道」は途方も無く長い、ということはこれまで見てきたとおりである。「ああ、なんと傷ましく、あわれなことか。彼らが身体(この世)の衣の中に投げ込んだこの私。いくたび私はそれを脱がねばならないことか。いくたびまた着なければならないことか。そのたびごとに、私は私の争いを仕上げる(死ぬ)ばかりで、シェキーナー(住居)の中のいのちを見ることが出来ない」(G461)。「世界」=「この世」への没入は「頽落した在り方」=「欠陥のある非本来的な実存の様態」への没入である。「世界」=「この世」は「住居」「家」「体」という象徴的表現で語られる。グノーシス者にとって「世界」=「この世」に住むこととは、ただ一時的である。つまりただそこに腰を下ろしたに過ぎないということ、選択か宿命(或いは前史)かによってそうなっているものの、原則としては再びまた解消することができるものということである。住居は放棄・放置・取替の可能なものである。それが滅び去るに任せることもできる。住居は住居とだけ取り替えることができる。住居が「世界」=「この世」の外にあるということもまた一つの住むということにほかならない。「世界」=「この世」において安息の場所がないのであれば、目指されるべき場所はその外ということになるのである。しかし、目下のところは「世界」=「この世」を「住居」(それは一時的という意味でほとんど「宿屋」というに等しいが)とせねばならない。そこから知られるのは、「この世における他所もの」には、それが「この世における他所もの」である限り、一定の空間的な「何の中に(Worin)」が属すること、そしてその「何の中に」に逆らい、かつ、それを取り囲む形が属するということである。「他所ものなるいのち」(グノーシス者)はやつれて次のように問い叫ぶ。「私は大いなるいのちのためのマーナーである。……一体誰がこの私をティビルに住まわせたのか。一体誰が襤褸の胴体に投げ込んだのか!」(G454)。「私は大いなるいのちのためのマーナーである。一体誰がこの私を諸々の世界の苦難の中へ投げ入れたのか。一体誰が私を悪しき暗闇の中へ移したのか。何という永きにわたって、私はそれに耐え、世界の中に住んできたことか。何という永きにわたって、私は自分の手のわざの間に住んできたことか!」(G457f)。キリコもこれに相当する問いをト・メジ(三千年前の英雄の名を受け継ぐクエント人の最長老)に対して叫んでいる。
キリコ「「神」とは、誰のことだ?どんな奴だった!?[…]そいつがクエント人を、手を加えた民にしようと考えたんだな?だとすれば、俺はその「神」につくられたというわけか?教えてくれ!!」(『装甲騎兵ボトムズ』四十三話「遺産」より)
この種の問に対して解答することが、ありとあらゆる神話として展開されるグノーシスの体系が果たすべき仕事となる。次章ではいよいよ、キリコを「世界」=「この世」に投げ込んだ張本人たるワイズマンとキリコの対決に至る流れのグノーシス的擬態を取り上げることにしよう。