鵜飼保雄さんの訃報に接し,かつての記憶をたどる
私が農林水産省の選考採用に合格して,4年半に及ぶ無給の “オーバードクター” 生活に終止符を打ち,つくば市観音台にある農業環境技術研究所(農環研)に赴任したのは,1989年10月のことだった.似合わないスーツで農環研に初出勤し,所長室で辞令を手にしたのち,5階の555号室に向かった.私の配属先は環境管理部計測情報科調査計画研究室で,今日からの仕事場になることが決まっていた.
やや緊張しながら研究室のドアを開けたところ……誰もいない.マジですか…….部屋を間違えたか,といささか動転していたら,隣室からパート事務員の谷中田さんが顔を出し,「いま鵜飼さんも大澤さんも育種学会大会に出張中で不在なんですよ」とのことだった.そう,私の配属先の室長がほかならない鵜飼保雄さんだった.そして,鵜飼室長とともに学振特別研究員の大澤良さん(現・筑波大学生命環境系教授)と同室になることもそのとき知った.
インターネットがまだなかった頃だったので,お二人の風貌とか業績を事前に知るすべはまったくなかった.鵜飼さんと大澤さんとの初対面は数日後のことになる.鵜飼室長が選考採用者に求めたのはオオムギ種子の画像解析ができる研究員だったそうだ.確かに私は大学院で幾何学的形態測定学をテーマにして修士論文(1982年)を書いたので,運良く “一本釣り” されたのかもしれない.いずれにせよ私が給料がもらえる身分になれたのはひとえに鵜飼室長のおかげだ.その点についてはひたすら感謝するしかない.
私の机は鵜飼室長のとなりだったので,調査計画研究室でどのような研究が進められているのかについてじかに教えてもらいながら,オオムギ画像の解析に取り組んだ.鵜飼室長の当時の研究テーマは遺伝子連鎖地図プログラム(MAPL)の開発が中心で,大澤さんとともに夜遅くまで仕事をされていたことを記憶している.集団遺伝学の論議もティータイムにはいろいろ交わされていたが,私はといえば初めて使う画像解析装置の操作と分析技術の習得に格闘する日々が続いた.
秋晴れの圃場でいっせいにオオムギの播種作業をしたり,早春の麦畑で揚雲雀のさえずりを聞きながらオオムギの交配実験をした経験は今となっては懐かしいかぎりだ.しかしホンネを言えば,確かに圃場作業はいい経験にはなったが,私個人に向いている仕事とはいえなかった.あるとき大澤さんに「三中さん,圃場の真ん中で〝自分はここで何をやっているんだろう〟とか考えてませんでしたか?」と図星の指摘をされたことがあった.のちに鵜飼室長と大澤さんが研究室からいなくなったあと,ほどなく私が圃場を使った試験研究からすっかり足を洗ったのは当然の成り行きだった.
当時の計測情報科は情報処理やリモートセンシングの研究室があって,調査計画研究室が進めている集団遺伝学とか画像解析はいささか “異端的” な研究テーマだったかもしれない.鵜飼室長は農環研の前は茨城県北の常陸大宮にある放射線育種場に長く勤務されていた.あるとき,彼に「どうして農環研に来られたのですか?」と訊いたところ,「オオムギ育種試験をしたくて九州農業試験場[現在・農研機構九州沖縄農業研究センター(熊本県合志市)]に異動願を出したら,どういうわけか農環研に回されてしまって」とのことだった.
わが調査計画研究室は農水省研究機関の系譜でいえば,昔,東京都北区西ヶ原にあった農業技術研究所の物理統計部で畑村又好・奥野忠一という大先達が率いた統計研究室と試験設計研究室の末裔に当たる.つまり,農業研究の統計分析を推進することが内外から強く求められていた.鵜飼室長も調査計画研究室に異動してきてからは「他のことはそっちのけで必死で統計学の勉強をしました」と本人から聞いた.調査計画研究室が毎年冬に主宰していた大きなイベントが「数理統計短期集合研修」だった.国立の農業研究機関と都道府県の農業試験場に分けて,それぞれ2週間ずつの日程で基礎編と応用編の統計研修をするというハードな伝統は畑村・奥野の時代から続くものだ.鵜飼室長は研修講師の手配から全体カリキュラムの策定まで,バックヤードでの細々とした準備作業をこなしていた.
私が調査計画研究室に配属されてまだ日が浅かったある日のこと,鵜飼室長がおもむろに「三中さん,この研究室では統計研修の講師をすることがデューティになっています」ときっぱり言い渡され,有無を言わさず年明け早々の1990年1月に開催された国の数理統計研修で「クラスター分析等数値分類法」という講義を担当することになった.それが私にとってその後30年にわたって途切れることなく現在まで続く「統計高座」の最初になるとは当時は夢にも思っていなかった.右も左も分からない私を高座に送り出した鵜飼室長は将来が透視できたのだろうか.
今ではもうなくなってしまった文化だが,かつての計測情報科では年に一度の親睦旅行を欠かさず行っていた.末尾の写真は1991年9月末に榛名湖から伊香保温泉への親睦旅行のおりに,水沢観音の仁王門で撮った鵜飼室長の写真だ.このときにはすでに鵜飼室長が東京大学に異動することは決まっていて,翌月末には送別会を催した.鵜飼さんが東大に赴任されたのは11月1日付けだったと思う.さらに翌々年には大澤さんも北陸農業試験場[現・農研機構中央農業研究センター北陸研究拠点(新潟県上越市)]への就職が決まり,調査計画研究室のひとつの時代は終わりを告げた.
鵜飼室長が残した “名言録” は私の記憶に刻まれている.あるとき「三中さん,農水省の研究員は個人としての “ライフワーク” をもってはいけないんです」と言われた.つまり,公的に決められた “研究業務” を果たすことが国研研究員の本務であって,それ以外には何もないはずだと.しかし,同時に,「自分の研究がどこかで農業とつながっているという意識さえあれば何をしてもいいんです」「研究上のアウトプットがあればこわいものなしです」とも言い添えた.鵜飼室長は計測情報科としては異端の研究テーマを貫いたが,彼なりの “ライフワーク” に邁進することで研究者人生の筋を通した.
私自身はその後は研究テーマが大きく変わり,農環研の中ではさらに “異端” な仕事をし続けて現在にいたっている.農水省の研究者のほとんどはキャリア形成の過程で異動するものだが,私にかぎっては例外的にいっさいの職場の異動も居室の引っ越しも経験せず,30年以上にわたって「5階の555号室」に居続けている.もちろん組織や研究室の名称はくるくる変遷し,今はもっと若い室員が在籍してはいるが,鵜飼室長や大澤さんがかつて議論していた部屋はそのまま残っている.窓越しに遠くまで見渡せる農林団地の風景を毎朝眺めるたびにかつての記憶が呼び戻される.
鵜飼さん,どうもありがとうございました.
上記は昨年2019年11月20日に逝去された鵜飼保雄氏の追悼文で,日本計量生物学会誌『計量生物学(Japanese Journal of Biometrics)』第40巻第2号, pp. 65-66(2020年6月発行)に掲載された.
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