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非現実空間としての建造物

教会が好きだ。特にロマネスク様式。ゴシックも良いんだけれど、ロマネスクのあの静けさというか少し距離を感じる佇まいには、なんともいえない恋心にも似た感情を持っている。ヨーロッパに行ったときはもちろん教会を探してしまうし、日本にいても時折ネットで画像を眺めては想いを馳せてしまうくらいに好きだ。

そんな教会好きが高じて、大学では教会美術・教会建築の講義を受けていたりもしたのだけれど、どうしてか情熱的とは程遠い受講生だった。教会を眺めるときにみぞおちあたりに沸いてくる、あの恋心にも似た感情はどこへ。そのくらい。時には退屈さえしていた。

そんなことはない、教会は好きなはずだ、と思ってあるとき買った本をようやく読み進めている。写真集代わりにペラペラとではなく、きちんと精読している。建築の具体的技術、柱やアーチの仕組み、ヴォールトやフライングバットレスなどが滔々と語られているのだけれど、やっぱり恋心はやってこない。やっぱり違うのかしら、と思いながら、半ば退屈気味にページをめくっていた。

ロマネスク建築創造の推進力となったのは、修道院である。修道院は、清貧と貞潔と服従の誓いを立てた修道士が、集団生活を営み、労働と政務に励みながらキリスト教的人格の完成を目指す場所である。<略>修道院は、中世におけるもっとも先進的な生産組織であり、かつ学問と芸術の中心であった。こうした修道院が、都市だけでなく、むしろ世俗を離れた原野や山地に、そして辺境の地にまで建てられた。10世紀頃のヨーロッパには、かなりの規模の修道院が、すでに1200は存在していたといわれている。ヨーロッパ各地にみられる地方色豊かなロマネスク建築は、これら修道院の存在なしには考えられない。

こう書いてあって、ハッとした。自分が魅かれていたのは、建築様式ではないのだと気付いた。ようやく。建物の中で行われていることやそれが持つ意味、思想に自分は魅かれている。外の世界と内部とを断絶し、内部で行われる祈りにより静寂と深みをもたらすための、建造物としての「教会」や「修道院」に魅かれるのだとはっきりと分かった。

同じように教会内のステンドグラスがとても好きな理由も、この本がまさに説明してくれている。

当時のステンドグラスは透明度が低いために、透過する光は深く鮮やかな色彩を帯びる。そして、それゆえに光は、窓の外からガラスを透過してやってくるのではなく、ステンドグラスそのものから発せられているように見える。このとき、ステンドグラスの厚さは数ミリメートルしかないにもかかわらず、その輝く面の背後という観念は消失し、窓の外に広がる現実の世界は意識の上からは払拭されている。しかも、窓はそもそも外界とのつながりを予想させるものなのに、ゴシックの格子壁においては窓の概念自体が解体しているため、外界との断絶は決定的である。こうして、堂内は外界から切り離された別の次元にあるという感覚が支配的となり、それとともに、ステンドグラスの放つ光は自然界に属さない非自然の光であるという感覚が生まれることになる。<略>この地上的経験を超えた空間によって、ゴシックの教会堂は「神の国」の存在を示しているのである。

引用だらけになってしまったけれど、つまりそういうこと。建築やステンドグラスによって外の世界から切り離された非現実の空間が好きなのだ。

そう考えていたら、自分が安藤忠雄の建築が好きな理由もあらためて見えてきた。コンクリートは冷たくて無機質というかなんだか暴力的で好きではないんだけれど、安藤忠雄の建築は好き。それは彼の思想が好きなのも多分にあるけれど、きっと彼の作品は外の世界と分断され(空がつながっているのはとても良い)、外の世界とのつながりは、借景のような手段を使って距離を保ったままつながり続けているからだ。外の世界と一体化するでもない、でも分断もされていない、非現実な光の世界が安藤忠雄の好きなところ。最初から随分と話がそれてしまったけれど、そう思っています。

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