誰かの感性のひだをふるわす仕事
芸術や文学など、これまで思いもよらなかったものとの出会いは、誰かによってもたらされることが多い。と思っている。そしてそれらは意外と、自分で選択したものなんかよりももっと強い力をもって、自分のその後の人生に作用してくるんじゃないかとも思っている。
その思いの発端をたどってみると、行きつくのは高校3年生の予備校。現代文の先生。講義内容にふれながら、時折自身の考えを織り交ぜて語ってくれる講義が特別に好きだった。あるとき、先生は美術に関する先生の持論を話されていた。『絵画は現実を越えるか?』。そんなような内容。先生はフェルメールの名前を挙げて「光を現実よりも美しく、そして忠実に描ける画家は彼しかいない」と仰っていた。また、ファン・アイクについても「現実よりもリアルな人間を描いた絵画。血の気もなくて気味が悪いのに、写真を越えた写実性がある」と仰っていた。当時はまだ今みたいにインターネットですぐになんでも検索できる時代ではなかったから、一生懸命覚えて帰って調べてふたつの絵画をみたときのゾワッとした感動を忘れない。フェルメールの描く光は確かに光だったし、光以上のなにかでもあった。信仰や静謐の現れであるようななにか。ファン・アイクの絵画は本当に気味が悪かった。青白い顔の高貴な夫婦が婚礼のシーンとされながらも陰鬱さを含んだ無表情で手を取り合う「アルノルフィニ夫妻の肖像」は、肖像画を越えたリアルで目が離せない。ダ・ヴィンチの作品に匹敵するくらい宗教絵画的な解釈をもつこの作品は知れば知るほど謎解き的にも楽しめるのだけれど、両方の作品たちに言えることは、最初に先生の言葉によって私の中に期待値が生まれ、作品から意味を読み取ろうという意思を持って見た絵だったこと。何も言われず見ていたらフェルメールは美しい絵画以上でも以下でもなかったかもしれないし、ファン・アイクは精緻な絵を不気味に描く画家のひとり、だったかもしれない。
だれかの感性というフィルターを通して美術作品を見ることで、ひとりで向き合うよりも感じることが増えることの原体験が出来たことは、とっても貴重な経験だったなぁと今になっても思う。そして、ああいう感性や、心のひだがふるえるきっかけを、どこかで作ることが出来たらいい、と、ぼんやりと思っている。誰かの人生、とまでいかなくても、感性のひだをちょっとふるわせてしまうような、「ああ世界が広がったな」と思わせてしまうような。そんな仕事が出来たらこの上ない幸せだ。
そう思っていたら舞い降りてきそうな今回の仕事。精一杯向き合ってやりきってみたいな。ということを考えています。
予備校の先生の話を最後に少しだけ。先生の思想や言葉が好きで、先生から発せられる言葉を聞くために、まるで恋をするように毎回席に座っていました。先生のお名前も思い出せないのですが、確かに私の人生と感性を広げてくれた人だったな、と今でも感謝しています。2002年大宮の河合塾の現代文の先生。ありがとうございます。