古くて新しいハイブリッド温灸「熱シン法」とは? 創始者・平田内蔵吉のご紹介
女性による女性のための、心身調律&解放メソッドの学び場「ハナキ塾」でも体験していただいている、古くて新しいハイブリッド温灸「熱シン法」。
私自身、熱シン法によって心身の不調を改善してきた経緯があり、とてもお世話になっているメソッドです。
今日はその創始者である平田内蔵吉(ひらた くらきち)について、略歴をご紹介します。
平田内蔵吉(ひらた くらきち)は、1901年から1945年まで活躍された医学者であり、民間療法家、そして詩人という多彩な才能を持った人物でした。
兵庫県赤穂市の薬種商の家に生まれた平田は、東洋医学と西洋医学を融合させるという、当時としてはとても革新的な目標を掲げた人物として知られています。
経歴と功績
1901年4月26日に生まれた平田は、京都帝国大学の医学部に入学しますが、その後文学部哲学科へ転籍し、さらに医学へと戻るという独特の道を歩みました。
1930年には、独自の温熱療法「平田式心理療法(熱針術)」を提唱。
ヘンリー・ヘッドの「ヘッド帯理論」に影響を受け、それを東洋医学の経絡や経穴と結び付けて「平田式体表十二反応帯(平田氏帯)」という画期的な概念を生み出しました。
平田はこの療法体系を「皇方医学(皇法医学)」と名付け、伝統的な日本の医療と西洋医学の融合を目指していました。
その姿勢はとても革新的で、経験に基づく民間療法の知恵と、科学的な根拠を重視する西洋医学を統合し、国民の健康を支える新しい医療の形を追求したのです。
思想と影響
1932年(昭和7年)、京都大学医学部在籍中に「皇法医学研究会」を設立しました。
この行動は大学との軋轢を生み、平田は卒業間近で大学を退学するという選択をしています。
しかし、彼の情熱と行動力は多くの人々に刺激を与え、その思想は後の医療や療法に大きな影響を及ぼしました。
晩年と遺産
1944年、平田は戦争のため召集され、翌年の1945年6月、沖縄県大里村付近で戦死したとされています。
ただし、正確な日時や場所については不明で、遺骨も戻ってきていないのだそうです。
平田の提唱した「皇方医学」やその思想は、彼の死後も引き継がれ、例えば八光流柔術にはその要素が残っています。
また、彼の遺産は単に医学の分野にとどまらず、後世のさまざまな分野に影響を与え続けています。
ちなみに、彼の孫である平田オリザ氏は、現在では著名な劇作家として活躍されており、平田内蔵吉の革新性を受け継いでいるようにも感じられます。
平田内蔵吉は、東洋医学と西洋医学の架け橋となり、現代にまで影響を与える「東洋医学の革命児」として、日本の医学史に重要な足跡を残しました。
参考図書:平田内蔵吉研究の第一人者、久米建寿著『東洋医学の革命児 平田内蔵吉の生涯と思想詩』(たにぐち書店)
久米建寿氏のインタビュー動画もあわせてご覧ください。