私の鏡 -中学生時代 Part 2-

中学生のころ初めて自分で大きな決断をした。敷かれたレールからはみ出してみた、そんな経験であった。

「日本の公立高校への進学」

幼稚園のころから朝鮮学校に通っていた私は当然のものとして、朝鮮高校に行くと考えていた。周りの同級生は基本的に朝鮮高校への進学を決めていた。それもそのはず、私たちの社会では、朝鮮学校で教育を受けることが、民族の意識を保つことであるとして、選択の余地を与えられる間もなく、朝鮮高校に進学することが当たり前だと考えられているのだ。

実際、長男は朝鮮高校に進学し、その後日本の大学に進んだ。大学こそ就職を考えた際、日本の大学に入ったほうが有利なため、大体が日本の大学に進学するが、高校は依然と朝鮮学校への進学率が高い。朝鮮高校への入学はエスカレーター形式になっており、受験というものがない。そのため公立高校へ進学するには、自分で受験勉強をしなければならなかった。朝鮮学校で習っているものはすべて韓国語で学ぶだけでなく、カリキュラム自体違うため、本当に一から勉強するようなものであった。

また公立高校に行くことは、少なからず、民族に対する意識の薄さの現れだとみなされることがあった。そのため、私の父(民族意識がとても強い)も私が日本学校に行くといったとき、良い顔を見せなかった。しかし私的には、民族の意識に違いはなかったし、それは今なお変わらない。

このようなデメリット、困難さがあるにも関わらず私が公立高校への進学を決めた理由はなんだったであろうか。

それは三つある。

一つ目に、親への負担、二つ目があたりまえからの脱却、三つ目が将来に対する考えという理由から、私はその選択を行った。

「親への負担」

公立高校への進学は朝鮮高校に通うより経済的にとてもやさしかった。そのころは長男は私立大学に通っており、次男はサッカー推薦により、私学のサッカー部に在籍していて、私学の学費が高いのに加えて、そこにとんでもない数の遠征や、合宿等でとてもお金がかかっていた。そこに私が朝鮮高校に進学するとなると、学費ももちろん、超絶過酷なバレーボール部に入るという未来が見えていたため、部活にかかる費用、そして大学進学のための塾の費用を考えると、莫大な費用になることを知っていた。親はお金のことが理由ならそれは正当な理由ではないから許さないといっていたが、実際のところ、私が公立に行くことで、家計が助かるなら、喜んでいくわ。というようなスタンスであった。

幸いなことに、経済的な理由だけでなく、ほかにも理由があったからよかったが、この経済的な理由は自分の進路選択に大きな影響を与えた。

「あたりまえからの脱却」

さっきも言ったように、朝鮮学校出身の人は当たり前に朝鮮高校に進学するという風に考えられている。中学高校も密接なつながりがあるため、中学のバレーボール部で名の残る成績を残した私たちは、当たり前に高校のバレーボール部に入らなければいけないというような見えない縛りが存在していた。実際のところ、高校の監督とも一対一で会議室で面談をして、バレーボール部に入るよう圧をかけられた、もはや見え見えの縛りであった。

高校に入っても、高校の先生たちは自分たちの名前をもうすでに知っている、親戚が先生であったという話もよく聞くことである。このように小さなコミュニティにいることが私には苦しかった。自由がないように感じられた。自分の周りには今までの自分のすべてを知っている人たちしかいなかったため、見張りの目がしんどかった。その環境にいると、知っている人たちと、もうすでにしかれたルートに乗っていきそうになることがわかっていたため、今までと何か思い切って変わるということをするチャンスが少ないと考えた。このような当たり前から脱却することで、自由に、誰からの見張りの目もなく、自分のしたいことをしたいと考えたのである。

「将来に対する考え」

バレーボールは大好きだが、高校に入って、強豪高校並のバレーをしたいとは思わなかった。もちろん部活で得られるものもあるが、自分のしたいことはもうバレーがメインではない。という考えが強くなっていた。それよりも自分は勉強、もっと言うと、英語がしたかった。それはなぜかと考えると英語を学ぶこと自体に面白みを見出したことで、本格的にレベルの高いところで学んで極めたいと考えたからである。(また今度詳細掲載予定。)、中学の部活で自分の目標としていたことが達成できて満足したから、燃え尽き症候群になっていたこともその時は都合がよかった。

詳しくはこちら。


自分から志願して変化を求め、自分のやりたいこと、達成したいことをかかげ成長できる環境を探そうとしていた。

この三つの軸が相まって、私はみんなとは違うレールを歩むことを決意した。

今考えると、この決断から、私は成長欲が強い、常に高みを求めて生きてきたということが見えた。

と同時に、変化に対する抵抗が少なく、むしろ自分から変化を追い求め、成長の機会を探す傾向にあることが分かった。

また、自分は人生の節々で自分のしたいことが変わることがあっても、それは長い目で見ると自己成長という人生の目標に着実に近づいているということも分かった。小中のころはバレーボールが大好きだったから、それで高みを目指した。そこで自分の納得のいく成長がも見られたら対象を変え、どんな壁があろうとも、自分の好きなことを極めるために、変化を自発的に求めて、常に成長の機会を探した。

中学生のころから、自分の人生をどのようにしていくか、自分が無意識にも変化を求め、その変化から成長のヒントを探しているということに気が付いた。

自分はやはり変化のある環境で生きていきたい、反対に言うと、敷かれたレールに乗って、いつも同じ区間を走行する普通電車にはなりたくない。もっと自由で、楽しくて、広い世界で生きていきたいと考えたのである。

経済的な理由が大きいと考えていたが、この裏側には、自分は気が付いてはいなかったものの、自分のしっかりとした考えがあったのだなということが見えてとてもすっきりした状態である。

自分と向き合うことでどんどん自分が見えてきた。それをどのように生かしていくか、見どころである。






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