8年後に会いましょう

ソフトボールが始まったので2008年に書いた日記を転載します。13年後に会えましたね!

ソフトボールが念願の金メダルを取りましたね。今大会が最後になってしまうので有終の美を飾れて良かったです。今大会では宇津木元監督の解説になっていない解説も話題になりましたね。私も試合の内容より宇津木元監督の独り言を楽しみました。

実は私はソフトボールに思い入れがあるのです。私の従姉がソフトボールの元日本代表だったのです。と言っても当時はオリンピックの正式競技ではありませんでしたが(^_^;) 彼女の家には所狭しとトロフィーやらパネルやらが並んでいます。

10歳近く離れているので選手時代のことはあまり覚えていませんが 中学でソフトボールを始めてから従姉にはほとんど会えませんでした。どうやら1年生から地方紙に写真が載るほどのスゲー人だったらしい。伯父は遠征の送り迎えでかなり大変だったみたい。

高校は学区トップ高を蹴って当時の強豪の商業高校へ。ありえねー!朝練のために始発に乗り二時間近くかけて通っていたらしい。帰りはもちろん21時を過ぎる。伯母は随分心配したみたい。だけどすでに国体出場は当たり前、たまに日本代表に呼ばれてた。

高校を卒業して実業団に入り寮生活を始めたときには伯父も伯母もさみしさよりも早朝から深夜まで娘を心配しなくて済んでホッとしたそう。この頃はバリバリの日本代表で活躍していて私にとっても憧れであり自慢のお姉ちゃんだった。私は商業高校の応援歌も歌えたもん。

アメリカ遠征に行くからと母に慌てて浴衣を借りに来たお姉ちゃんがいつの間にか遠征先で振り袖を着こなし英語でスピーチするほどに。台湾は庭みたいなもので挨拶程度は中国語しゃべれる。遠征ごとに私にだけくれる特別なお土産はとても嬉しかった。

野球バカの父は私を第2の従姉にしたくてソフト部を猛烈にすすめた。当時、父は中学のソフト部のコーチをしていて恥ずかしいし万年反抗期の私は絶対に父のいいなりになりたくなかったのでバレー部に入った。伯父が二人実業団でバレーをやっていたし。

でも思ったより私はバレーボールは下手くそで軽く挫折。球技大会でソフトボールをやって優勝してしまってトリコになってしまった。しかし父の思うとおりになるのがいやでソフト部にはいけなかった。休み時間には随分野球もどきなことをやったな~。

高校でもソフト部ってちょっと気になった。でも未経験だし。結局中途半端に部活を転々としてしまった(;´Д`) 前に日記で触れたけど何か球技をやらないといけないことがあるとソフトボールを選んでしまう。悔しいけど野球バカのDNAかそれとも従姉への憧れか。

従姉はその後、腰を痛めて24歳で現役を引退とともに社内結婚。ソフトだけじゃなく女の子らしいところもあったのね~と笑った。ソフトで培った根性と語学力でバリバリと総合職として働いている。スポーツ社員は工場勤務で引退したら退職だと思っていたのでビックリ。

私も社会人になり従姉のことなどすっかり忘れていたが アトランタ五輪のときにふと母に尋ねた。「お姉ちゃんてオリンピックでてないよね。」
「当時は種目になかったからね。」「あったらロスの星とか言われたかな」
「アメリカ行って応援したんじゃない。」「早く生まれ過ぎたね~。」

そうなんだ。スポーツって努力だけじゃなく廻り合わせも必要なんだ。ちょっとしたタイミングで運はするっとすりぬけていってしまう。だからどんなに頑張っても報われないときもあるしチャンスを掴んだら絶対に手放してはいけない。

長野オリンピックの真っ最中、従姉の姉の結婚式で一緒にグアムに行った。大人になってから初めて話をしたかもしれない。
「お姉ちゃんも世が世ならメダリストだったかもね。」
「どうだろうね~。」と彼女は笑った。

アメリカに勝って大喜びしている選手たちのなかに従姉の姿を重ね合わせて自然に涙が溢れてきた。好きなことを必死でやっているんだから大舞台で戦いたいはず。2016年には正式競技に復活しますように。

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