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蔵前柳橋

 大江戸グリーンリーフ

風が吹く。一枚の木の葉が川面に落ちる。葉は流れにたゆたい川岸にたどりつく――。

落葉にみえるものは江戸、明治の隅田川中流域に存在した《浅草御蔵跡》、

御蔵の跡とはいったい何か。江戸幕府を開いてまもない都の繁栄に欠くことのできない倉庫群だ。水運のために造られたこの掘割は一番堀から八番堀まであった。だが巨大グリーンリーフにも似た堀割はいまや跡形もない。

私は東京の景観変化にとまどい、悲しむもののひとりである。

江戸・明治・大正・昭和……震災もあった。空襲もあった。踏まれては立ちあがり、立っては踏みにじられる東京よ、おまえはなんと不幸に哀れで悲しくも儚い街なのか⁈

そして令和。さよなら、東京よ、もうおまえを眺めつづけるほど若くはないのだ……。

再開発の名のもとの破壊――懐古趣味にとらわれながら御蔵跡を中心に江戸・明治の繁華街、柳橋、蔵前の今昔を述べる。

   *

最近(令和7年2月2日)NHKの大河ドラマ《べらぼう》のあるシーンが印象に残る。

渡辺謙扮する田沼意次が家臣と話すときである、膳に広げていた地図、短い映像、気がついたのは自分ばかりに違いない。それが「八番瀬」の図である。表題の白黒図とみてよい。   *この周辺の地―柳橋、蔵前を知るにふさわしい小説、随筆はどのようなものがあるのだろうか。

以下に作者と作品名を羅列する。
島崎藤村『春』   永井荷風『牡丹の客』   山本周五郎『さぶ』池波正太郎の時代劇もの  芝木好子『隅田川暮色』野田宇太郎『文学散歩』  木村荘八『東京繁昌期』といった小説、随筆など枚挙にいとまがない。

ここからまず荷風作品にスポットをあて往時の情景を眺めよう。

花柳小説『牡丹の客』(明治四十二年、全集第四 

「神田川を眞直に上汐の濃い綠色の水の面は、遠い明神の森に沈んだ夕陽を受けて、今だに磨いた硝子板のように光つてゐた。…

角度の正しい石垣の両側に痩せた柳の繁りが絶えず風にゆられて居ながら、如何にも懶(ものう)く静かに見える。岸に近い芸者屋の稽古三味線も今は途絶えた。(略)すると川口へ大きな屋根を突出した龜(かめ)清(せい)の二階で幾挺の三絃が一度に調子を合わして響き出した。雨に濡れたまままだ乾かない柳光亭の板塀の外には蹴込に紅い毛布を敷いた漆塗の新しい人力車が二䑓(だい)ばかり置いてあつた。」

 

本編あらすじは、《私》が小れんという芸者とともに早舟に乗る。そして柳橋から大川を進み、両国から竪川の本所四ツ目(現錦糸町、江東橋近く)まで牡丹の花を見にいく、といったシンプルな短編小説である。

しかしそこには明治の時代背景、下町陋巷(ろうこう)の状景など哀愁と情調、かつ詩的な渺茫を以て描かれる。表現はリアリティに富み、読むものの想像をかきたてる。時の流れ、人の動きが眼に浮かぶようだ。自然と調和させながら描くので平板ではなく、むしろ立体感を覚えさせる。匂いも伝わる。そしておしつけがましさがない。まさしく情景描写の妙といえる。例えれば白黒映画の弁士のように思うけれども、どうだろうか?

ちなみに本作品には、落魄趣味と評された切なげな文章もふんだんにもりこまれ、初期荷風文学の真骨頂と評価させる。

   ☆

つぎに歴史に関して述べる。

厩橋・蔵前橋から柳橋に至る南北六町(およそ650m)ほどの隅田川右岸一帯に、三つの門と八つの堀に囲まれた青々とした巨大リーフのような瀬、これがリアス式の人口のお堀だというあらましはすでに述べた。

広い敷地に徳川の国政を支える屋台骨、年貢の集められた『米廩(りん)所』、すなわち米蔵が築かれていた。《浅草御蔵跡》の由来である。

歴史や規模などを列挙すれば以下に、

・元和六年(1620年)二代将軍徳川秀忠に完成。

・米蔵建造の設計者 樽屋藤左衛門。

・敷地二万七千百坪、八番堀。

・満潮時水面より六尺高く建造。

・蔵数五四棟二七〇戸 東西南北各向き。

・堀幅約二十間。

 

現在、納税といえば金銭で納められるが、古くは『租・庸・調』、そして江戸時代に米や地元特産品などの物納が主流であった。これを舟で運漕(陸送もある)させた。ここに江戸の堀割開拓、造成の歴史的必然がみてとれる。

蔵米のうけとり、換金に関わる旗本・御家人の厄介な手間を代行し、年利15%以上の手間賃を受けとる、これが札差とよばれたのは周知のとおりである。浅草橋から蔵前までの旧奥州街道(現江戸通り)に栄えた。

この仕事は1620年が始まりとされるとあり、やがて独占業となって109名の札差が登場する。旗本・御家人、そして国元の小作農民を搾取するものも出たという。いえば、ドラマ「雲霧仁左衛門」の標的となる。

暴利をむさぼるこの職業はむろん世襲である。ことの善悪、好悪はさておきおもな名をあげると、『大口屋治兵衛、近江屋佐平治、大黒屋文七、伊勢屋喜太郎……』である。現在に名を耳にする姓が多々あるが、つながりのあるなしについて私は知らない。札差は維新とともにその姿を消すころ銀行業が出現するのである。  ☆

ところで粋な江戸文化(絵画、花柳界、大相撲、歌舞伎など)の発生・繁栄について、札差あるいは商家の富がその成立、発展に多大な影響を与えた。そして旅籠、茶屋、料亭、花街の発生・発展にも大きく貢献したといえる。

さらに浮世絵、錦絵など江戸文化発展、欧州印象派画壇(ゴッホなどのジャポニズム)に対してさえも札差の存在、影響ははかり知れない。いわば芸術のパトロンであったといっても過言ではない。彼らの身につけた衣装のお洒落なこと、それは錦絵、浮世絵を見れば明らかである。 ☆

つづいてネット《フリー百科事典『ウィキペディア』》を検索、明治から現在までの略歴を長いが、挙げる。

 

・元年    本地は大蔵省と農商務省

・明治十四年 蔵前職工学校(現東京工業大学)

・明治二十六年 東京電燈株式会社、浅草火力発電所の建設。

・明治三十七年 浅草警察署南元町分署開設

(現・蔵前警察署)。

大蔵省専売局の第二煙草製造所が開所。

・大正八年   厩橋西詰に梅若能楽堂が建立

・大正十二年  関東大震災東京職工学校、浅草火力発電所ともに被災壊滅。発電所は当地での再建を断念、機能を千住へ移転する。

日本橋の十軒店(現・日本橋室町付近)

浅草橋周辺へ移転。玩具問屋街発展。

・大正十三年  旧校地跡に東京市立浅草専修学校(都立蔵前工業高校)

・大正十三年  蔵前橋架橋

・昭和三年  専修学校の正門付近、第六天《榊神社》移転

・昭和八年:  蔵前変電所が建設。

・昭和九年: 御蔵前片町、福富町、新旅籠町九町を整理統合蔵前一~三丁目。

・昭和二十四年:台東区成立

・昭和二十四年 日本相撲協会が第六天榊神社

横に蔵前国技館の建設開始

・昭和二十九年 国技館完成、大相撲ほか格闘技興行。

・昭和四十二年 電気通信局、水道局が建設主体専用橋(水道橋)が架橋。

・昭和五十: 東京都水道局の蔵前ポンプ所設置。

・昭和五十九年:蔵前国技館が両国へ移転、跡地は東京都に売却され蔵前ポンプ所、東京都下水道局の水再生センターの造成。

・平成十二年: 東京貯金事務センター移転

  ☆

隅田川の地形について若干触れる。通常隅田川十二橋といえば白鬚橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋、勝鬨橋、相生橋

北の白髭橋から河口を下るうとき、もっとも急激に曲線を描くのは両国橋・新大橋・清洲橋間である。

試みに現代図(1万分の1)にコンパスをあててカーブに中心点を探す。

すると川の東、両国4丁目の両国公園が中心として適切のようだ。

コンパスをまわすと川はおよそR600m(約90度)。同様に川の西中心を浜町中の橋交差点とすれば、およそR400m(約90度)右岸に大きく描くことがわかる。

その隅田川がS字を描く曲線あたり、幅十間ほどの神田川、日本橋川、竪川、小名木川などと接続する。かつての水運のための堀であった。とともに大川の水の抜け道にもなっていたと推察。

水位をみると満潮、干潮の差は最大180cmほど、蔵前の蔵地をかさあげしたことの根拠となる。   ☆

最近私はつぎのような経験をした。吾妻橋を出航予定の水上観光船が満潮により急きょ運行停止した。問えば係員は永代橋がくぐれないのです、と頭をかいた。   ☆ 

浅草御蔵跡の八番堀と現在図を重ねた地図が手元にある

北端に旧称三好町(蔵前幼稚園の北側の路地あたり)から南に柳橋2丁目の1(ファースト・ビルまたは東商ビル中央あたり)までが蔵の一帯となる。

実測するのに都合がよいのは明治四〇年(五千分の一)地図が有効。

八つの堀はおのおの十間ほどの堀、奥行五十間から一町、蔵地は三十間ほどに仕切られてある。一町は109m、一間はおよそ1・8mである。隅田川の岸はその後20、30mほど埋立てられる。

くわえて江戸切絵図に鳥越橋、上の御門、中の御門(現蔵前一丁目交差点、下の御門(現蔵前公園近く)などの地名が記される

八つの堀割は現在の生活道路と一致するものもあるが、多くは建物の下に埋まっている。

ふたたびコンパスを今度は、現代の蔵前橋の中央にあてる。

南東方面(下流の左岸)に旧国鉄の駅、国技館、博物館、公園、庭園や学校、病院など600mほどの内にまた北西(上流の右岸)に御蔵跡が400mほどにすっぽりと収まる。

具体的に橋の北西から南西一帯にあるものは挙げれば、変電所、税務署、下水道局、通信社、郵便局、警察、学校など国営地のなごり       ☆

さて橋西詰めを歩くとき、驚くべき重要なものを発見

NTTビルの西側の基礎部分、丸い《石垣》が積みかさねられており、それがいまだにビルを支えている。

南北およそ7、80mにわたり遺されたと推測するが、ビル北側の大通りののり面にも同様な石垣がみえる。さらに角々とした大きな石もひとつふたつ、無造作に転がっている。

よくみれば道路の基礎に使用されているものもある。これを世に早く知らしめなければならない。

いよいよ工事が始まった。重機が駐車場跡地を1、2m掘り下げると、高さ3mほどの赤レンガ倉庫の一部が形をなして出現した。

さらに掘り下げること10m、松の柱が100本ほど掘り出されるのを目に驚かされた。ひところ区の専門調査員も姿を見せたものだったがすぐに工事は続けられた。

おそらく明治時代のものと推測される赤レンガ一つ、およびちぎれた松の木辺を現場からもらうことに成功した。

工事関係に問えば、土中のレンガ建造物の基礎とされた松の柱の寸法は直径およそ20cm、長さ10m。そのうえに倉庫らしい建物。その規模はおよそ10m×20m、ということだった。

やっかいな作業をもたらすこれらのブツは、十日間ほどで重機によって破砕された。

ちなみに隅田川対岸横網町の『旧本所公会堂』(大正15年の建築物、緑青の円形ドームにエンジ色の外壁)のほうも、つい先ごろ2015年末から翌年2月の間に消えうせて更地となってしまった。(平成29年末、刀剣博物館が建立)

   ☆

本所両国の左岸から蔵前方面を描いた浮世絵、狩野休栄の『隅田川長流図巻』を眺めると、緑々とした柳と松《首尾の松》が描かれている。荒波が石垣を洗う景観に風情がある。

もうひとつは葛飾北斎の『首尾松の鉤船 椎木の夕蝉』である。釣舟から釣り糸をたれる芸妓を描く浮世絵、蔵前対岸の本所石原町界隈の景色が見てとれる。  ☆                    

最後に平成隅田川に感ずる荷風調になぞらえながら稿の結びとしたい。

――冬の夕陽。きらめく光に誘われながら隅田川左岸のテラスから神田川河口を眺めるとき極度に視界を妨げるところの、高層ビルの間からわずかにのぞく夕映え、柔らかな朱の光を反映する雲、滔々と流れる川、この美しい景色は筆舌尽くしがたいものがある。

時はながれ、柳橋、蔵前のみならず東京の街はいまなお《再開発》というテイのよい名のもとに変貌しつづける。

しかし、いかなる人造の遮へい物が空をおおいかくそうとも自然が途絶えることはないだろう。河面に映ずる銀陀のきらめき、射られた目をそらせば紫の残影、ひとり悄然と岸に佇む自分の心に悲哀と安らぎというように相反する感情がめばえ、なんとも不思議な心持ちに陥る。

読書に疲れたその眼、思索に疲弊したその神経にやすらぎを与える清冽な河の流れ、遠くに雄大な空と雲、この風景ははからずも百間巾(200m足らず)の河水にまもられ消滅することはよもやなかろう。

名を名のらぬ化け物、《発展》という傲慢は何をしでかすかわからない。だが文明の進歩めざましといえども、水という自然に抗うものはだれひとりあるまい。偉大なる自然の恐ろしさは四年前、津波の災禍としてすでに、われわれの眼前に示されたではないか。                    (平成28年4月記)

 参考文献 (図書室所蔵)

『続隅田川とその両岸(上巻)』

豊島寛彰著芳洲書院 昭和四十二年九月九日

『江戸の町かど』

伊藤好一著 平凡社 1987年2月13日

『下谷浅草町由来考』

東京都台東区編 昭和四十二年三月三十一日

『すみだ川・新橋夜話』

永井荷風作品 岩波文庫 2012年第28刷および全集第三巻

『江戸を訪ねる 上野・浅草歴史散歩』 台東区発行 

平成15年 ときめきたいとうフェスタ事務局

『日本地図選集』東京市十五区番地地界入図 明治四十年

『柳橋界隈』木村荘八共編 互笑会 東峰書房 昭和二十八年六月

『浅草・吉原・隅田川』 田村栄太郎著 雄山閣 昭和三十九年八月

 

 

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