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サッカーの旅・ヨーロッパ(1)

2001年高校サッカー選抜「デュッセルドルフ大会」       ~サイドツアーとして

第1章 スイス、テネロ
  国立運動公園成田空港を経ち十二時間、機内ではいっこうに眠れずにいる。
 五十ともなるわが身に狭い座席は、実のところ苦痛以外何ものでもない。仕方なく携えてきた文庫本に目を這わせる。
 
 よりによってやっかいなものを持ってきてしまった。
 
 森鷗外の『澁江抽齋』を模したとされる永井荷風の『下谷叢話』という。家系図を文に起こしたような人名の羅列ばかりである。
 巻末の語釈を返しつつ読み続けてなかばほど、読み手の心の状態もあるか。
 鷗外のようにひきつけられないけれども、私にとって初の渡欧、どうやら旅路の苦痛をかき消すにひと役かったとみえる

「よく読んでいられるな。そんなに面白い本のなのか?」と隣席のHがいった。
 面白いわけはなく、ただ漢字を目で追っているだけだった。
 
 新国際空港北ウィングから離陸したJAL4017便がイタリヤ、ミラノ空港に着陸したとき、そこはすでに深夜だった。
 空港ロビーでは頭にターバンをまいた異人たちが物憂げで鬱弧とした表情をしていて、えもいえぬ恐ろしさを感じさせた。
 
 語弊を覚悟で述べるなら、彼らをみてそう感じたのは、おそらく心の奥深いところで、あの事件とタイムラグを起こしたためだろう。
 旅から帰った半年後、9.11ニューヨークテロが起きたが、それはこの話に直接関わりをもたない。
 
 命には別状はなかったが、悲しく情けないある事を体験、ずっと後でわかる。
 
 迷惑のかからぬよう、団体一行の後をたどたどと追いかける。
 
 頼りはトラベルの添乗員であるにせよ、やはり彼らの関心はサイドツアーの私にはないとみえる。
 空港の外に出てようやく霧に包まれた外気に触れ、大きくノビをひとつ、ブレザーだけで寒くはない。
 
 随行員は自由に行動してよい。
 とはいうものの、打診された当初、この旅にのる気ではなかった。
 年度初めの四月、仕事を二週間も空けることになるからだ。
 
 複数の参加者がいることが恒例だったが、いざ出航となるとみな辞退し、独りになってしまった。心もとない。
 
 その気になった理由は、一行の団長Hが大学同期だからだ。
 また旅の趣旨とかけ離れるが、以前から考え続けていた問題があった。
 
 荷風、鷗外、漱石、藤村など明治期文人が洋行した心持ちである。
 
 確かに欧州風景はいまテレビ画面で映し出されたりする。
 それでも、いったい自分はどう感ずるかを知りたい。

「この機会は今回だけだ。あとはないよ」とHは私に告げた。
思案の末、決断したのだった。

 バス二台に分乗の一行は、スイス、テネロというところへ到着した。
 
 深々と夜の更けた地は闇につつまれ、吐息が白む。
 皎々と星空がみえた。
 イタリヤの空港からわずか二時間ほどの移動である、急勾配の所を通った覚えはないのに空気は清々しい。
 
 カンポフェリーチェホテル10階から眺める夜景、湖畔にいることがそれとなくわかるが闇夜で、全景は分からない。
 糊の効いたシーツに足を滑らせ、ようやくベッドに身体を横たわらせた。長い長い一日、大きくのびをすると、すぐに眠りについた。
    *
 翌朝、何やらやかましい物音がする。
 茫洋とまどろみながら耳をそばだてると、鳥のさえずりが聞こえてくる。 

 誘われてバルコニーに出ると大いなるパノラマ
 大いなる湖マッジョーレ
 頂きに残雪を抱く急峻な山並み
 それを斜めに切るように燦々とした朝の陽光
 眼下にうっそうとした森
 
 見事な佇まいである。
 美幌峠から眺める屈斜路湖、あの雄大な景色さえ比べものにならない。
 湖の向こう端まで何キロあるのだろう。
 
 三、四日滞在するうち、一行の初対面の人々ともうち解けてくる。スイスといえどもイタリヤ語圏の地、覚えた言葉は二つばかりである。
「ボンジョルノ」「グラッチェ」
 
 日程の合間、時間が空いた。
 
 現地の人に話しかけられない孤独を覚えつつ、湖の対岸にみえる街のロカルノという所まで、独りで散策することにした。
 
 おもちゃのような紙幣、そんなものを使う術さえ知らない、水ひとつ買えない、乗り物に乗るのも恐ろしい。だいたいチップを与えるという習慣がよくわからない。
 ホテルから離れれば離れるほど、不安や劣等が心に重くのしかかる。
 
 第2章 ロカルノまで
 
 ベリンツォーナの古城へ向かった一行と同行すればよかったと後悔したが、なんだかうっとうしい気にもなっていた。
 サイドツアー(随行員)は一行にして一行にあらず、まるで身寄りのないマッチ売りの少女のよう……。
 
 湖を眺めながら歩きつづけると、小高い丘の中腹の街や教会が手にとるようにみえてきた。
 足の赴くまま、折々通りすぎる街の裏通りを抜け、石畳を踏みながら丘へと向かう。

デユッセルドルフ市街


 すれ違う現地の人々と目を合わせようとするが、すっと視線を外された。決して怪しい者ではない。挨拶したいのにさせてくれない。

 しかし、彼らの眼には、単なる背の低い貧相な中高年のアジア人としか映らないのだろう。
 
 どれくらい歩いたか、いよいよ疲れてきた。
 ひと休みしようと思うが、入りたい所はみな固く門が閉ざされている。
 やむを得ず上り石段の途中のベンチに腰をおろし一服。
 
 見上げれば、抜けるような紺碧の空、穏やかな陽ざし、偉大なる山並み。神に近づくような気にさせられ、なんとも快く、輝く太陽に合掌しながら心の平静を保った。
 
 歴史ある街を歩みつつ、自分は今、本当に欧州の地を歩んでいる。
 そんな充ちたりた気分を覚える一方、突如、失語症に陥ったような寂寥が心を錯綜する。 
    *
 荷風の『ふらんす物語』、明治末期に記された諸篇漫録が浮かぶ。
 
 美しい夕景に感動する、あたかもそのものこそ詩であるような街リオンの情景描写
 恋人を懐古する悲哀
 あるいは母国の明治末の東京という都の豹変
 明治文学芸術界への嘆きに批判など、今更ながら脳裏に蘇りなんとも不思議だ。

「……車の上ながら自分は遠い故郷の事、故郷の芸術を思うともなく考えた。吾々明治の写実派は、それ程精密にその東京を研究し得たであろうか。既に来るべき自然派象徴派の域に進む程明治の写実派は円熟してしまったのだろうか……」

 どれほどフランスにあこがれ、何を確信したのだろう。
 
 明治期に欧州を訪れた、その他多くの文人の衝撃たるものは如何なるものか。どのように昇華させたか。
 国費留学の重責に蹴散らされた鷗外をして『舞姫』という作品を書かせしめた。
 英国留学の漱石は自室に閉じこもり胃を患ったという。
 近代文学者たちが著した作品。彼らの渡欧の真なる想い
 
 勝手ながら書いてみる――。
 
 威風堂々とした欧州貴族に囲まれたが故の孤独か、絢爛豪華な文化と重厚な歴史から浴びせられる劣等か。
 それでも孤独、劣等、寂寞が母国の、その後の歴史に残る名著群を創作させた源といえまいか。
 
 転じてここにいる私は、もはやこの地においてはもの珍しい異邦人というわけではない。
 百年あまりの間、偉人凡人にかかわらずアジアの民が来訪した数は計りしれない。国際関係という傘もある。
 こうして襲われず、のほほんと歩いていられるのだ。古への人が感じた頼りなさとは比べものにならない。
 
 明治、大正、昭和初期の渡欧者の強烈な衝撃と比べることはまったくもって意味がないが……。
 私の孤独、劣等、寂莫、そこから発酵するある何か。
 凡人は凡人なりの。
 団体一行から離れ独りで歩む理由である。
    
  
   第3章 事件 
 
 腕時計をみれば集合時刻が迫ってきた。
 目抜き通りに出た。タクシーも通る、バスもある、トイレにもいきたい、どうすればいいのだ。とにかく急がねばなるまい。
「ええいっ! ままよ!」

 黒い帽子にサングラス、深緑色のウィンドブレーカー、黒いリュックを背負うといった出で立ちの私は勇気をふりしぼりバスに飛び乗った。
 
 ワンマンカーであるにもかかわらず、勢いよく後部の出口から乗り込む異邦人、そのことは乗客の誰しも驚かさずにはおかなかった。
 
 バス車内に緊張が走ったが、その理由を理解できない。
 運賃は後払いと思いこんでいた。
 車内は数名の乗客だけ、彼らはいぶかしげに私のほうをみる。
 バスは私の意に反し逆方向へ進んでいく。
「あれれ」
 降りなければならない。一瞬、悩んだ。
 しかし懸念は必要なかった。
 
 乗客のうちの一人の目をみると、老婆が私の気を荒立てないというふうに、
「運転手の方へ行きなさい」とでもいいたげに手招きする。
 促された私は運転席に近づく。
 
 すると、顔面を紅潮させた運転手は手早くトランシーバーのようなもので交信をしはじめたかとおもうと、左の掌を上へ向けそれを振り払い、声を荒げてバスを停め、そして私に「すぐに降りろ、いいから降りろ、黙って降りろ!」という仕草を繰り返す。まさしく威嚇に近かった。

 "I want to go to Tenero, you know?"

 両手を胸の上に組み、審判からイエローカードを出されたイタリア選手ベルゴミのように、大げさな格好で、やっきになり懇願する。
 それは無駄だった。
 
 街の一角で、とんと降ろされてしまった。
    *
 もはやバスは去った。ぽつねんと独り私は為す術なく、ただ天を仰ぐばかり。
 学校なんか、嘘ばっかり 
 己れの学生時代の十年を恨んだ。あれほど死にもの狂いで勉強した英語が通じない。
 
 前述の悲しく情けないこととは、まさにこの話だ。
 この時ほど屈辱を感じことはない。人種差別ではないか。
 
 のちになって分かった二つ。
 イタリア語圏、自爆テロが頻発する世相。
 
 思い出さねばならないことは格好――帽子、サングラス、ユニクロで買った濃緑色のウィンドッブレーカー(軍人が身につけるような色)、黒いリュック。顎に無精ひげが生えていたかもしれない。
 
 サイトシーイングを楽しむ旅人の都合とはおよそ関係なく、市民を驚愕に陥れるに充分すぎる。
  
 もしかりに来世があるとするなら、イタリア人として生まれ変わり、この場に戻り、次のような行為を行ったに違いない。
 
 モヘヤのハット、燕尾服にステッキ
 Arumaniの靴、Tiffanyの指輪、ninaricciのコロンを漂わせ
 すれ違う女性に「ボンジョルノ」と投げキッス
 老婆には、
「オオソレミーヨ」とにこやかなジョーク
 バス運転手に多大なチップ
「君の善意に感謝する。グラッチェ」
とかなんとかいいながら、華麗で高貴な紳士然とした身なりでバスから降りたことだろう。
 現実は厳しい。
 
 私はロカルノの街はずれからテネロまで三時間、ふたたび歩いて戻らねばならなかった。惨めだった。
 
 ホテルに戻ると、集合に遅れたことを団長、添乗員から注意を受けたけれども、それはさほど気にならなかった。
 意味、内容の通じる日本語で語られるので、懐かしくもあり嬉しい、ほっとしたくらいだ。
     *
 
 滞在五日目の早朝、森を散策する。
 高速道路脇、森と泉に囲まれた野鳥公園に佇む。
 
 ほほえましい鳥の戯れ、恋狂いするようなさえずりに心洗われる思いがする。
 ホテルに戻りかけると、通りの向こう、車止めの付いた管理事務所の小窓に人影がみえた。
 
 対人恐怖気味な私
 入っては行けない所であるかと直立不動、鞠躬如とお詫びをする。
 昨日に続く失態か。
 
 ところが若き金髪女性は事務室の窓を開け、馴れないお辞儀を返してくる。小刻みに手さえ振っているではないか。
 どう応えていいのやらわからず、胸に両手を組んでそれを空へ掲げた。
「オー、ソレミーヨ」
 仕草がよほど可笑しかったとみえ、彼女は肩を揺さぶりながら投げキスを送ってきた。
 スイスではじめて歓迎を受けたような気がする。
 明日の予定はミラノで試合観戦という。(つづく)
 

 

 

 

 
  

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